第八話「千年の器と、隠された正体」
観測者が消滅しても、学院長室には重い静寂が残った。
壁に刻まれた結界は亀裂を抱え、揺れが完全に収まらない。
学院長が僕の胸元を凝視しながら言った。
「……アークライト君。
胸に“術痕”が残っている。分かるかね?」
主任が水晶板を読み取り、震えた声で報告する。
「痕跡呪式……ですね。
観測者が対象を連れ去る時に刻む“マーキング”。
器の奥へ針のように侵入し、揺らぎを増幅する……」
ちょうどその時、胸に鋭い痛みが走った。
(……っ!)
精霊――嬢が胸へ飛び込んでくる。
※ 嬢は僕以外には一切見えない。
『レイン! 今の痛み、強かったよね!?
ちょっと触らせて!』
ふわりと光が僕の胸に広がる――しかし、他の誰にも見えない。
『……っ……これ、奥の奥まで刺さってる……
器の“底”にまで届いてる……!』
主任は、僕が独り言を言っているようにしか見えないが、
読み取った数値に青ざめる。
「底……だと?
人間の器の底に呪式が届くなど……考えられん。
深さが異常すぎる……!」
学院長は呆然と呟いた。
「適性ゼロ……それも当然かもしれん。
あまりに深すぎて“底を測れずゼロ判定”になったのだろう……」
僕は痛みに耐えながら息を整えようとする。
そんな僕を抱えるように、嬢が胸で光る。
『レイン……しばらく、わたしが“支え”るからね。
アンタの器、揺れちゃうと危ないから』
(ありがとう……)
じいが静かに頷く。
「嬢の光は器の安定に最適です。
坊ちゃま、彼女に身を預けてください」
学院長は決断を下した。
「アークライト君。
学院は君を保護する。観測者は必ず戻る。
対策が必要だ」
主任はさらに付け加える。
「そして……痕跡呪式が残っている間、
精霊との“名前契約”は絶対に避けるべきです。
器への負荷が大きすぎる」
嬢がハッと顔を伏せる。
『……そんなの……わたしが一番わかってる……』
彼女の声は僕にしか聞こえない。
⸻
学院長室を出たところで、カイルが待っていた。
彼は僕を見た瞬間、眉をひそめる。
「……アークライト。
お前……最近おかしいぞ。
誰もいない方向に喋ったり……急に胸押さえたり……」
(そりゃ……嬢が見えるのは僕だけだし……)
僕が言い訳しようとすると、カイルは苛立った声を上げた。
「……今日の“あの執事”。
見た目はただの人間なのに……
近づいた瞬間、本能が“逃げろ”って叫んだんだ……
なんなんだよ、あれ……」
嬢が怒って叫ぶ。
『じいを悪く言うな!!』
もちろん、彼には届かない。
カイルは最後に振り返り、
「アークライト……
“あいつら”の世界に深入りしたら……
人間に戻れなくなるぞ」
そう告げて去っていった。
嬢が胸の中で震える。
『……レイン……
わたしたち、怖く見えるよね……』
僕は優しく答えた。
「……君が怖いと思ったこと、一度もないよ」
嬢は胸の奥で、泣きそうに光った。
⸻
医療区画の魔力安定室。
嬢の光が器を支える中、僕は深呼吸する。
主任が小声で呟く。
「……精霊の支えがなければ、器は崩壊寸前だっただろう……」
嬢は黙々と胸へ光を流す。
(……心配かけてごめん……)
しばらくして、僕は彼女に問いかけた。
「……嬢。
本当のことを知りたいんだ。
じいって……何者なの?」
嬢はピタッと動きを止めた。
『……やっぱり聞いちゃうよね』
「聞くよ。知りたい」
嬢は胸の前に降りて、神妙な顔で言う。
『じいはね……
わたしたち精霊の階層で言えば、
“トップオブトップ”の一角だよ。』
「……精霊より上……?」
『違うよ。
じいは“精霊階層の最高峰”だけど、
わたしはその上の――“例外階層”なの。
わたしの位階は……世界にひとつだけ』
(嬢が……上……?)
嬢は照れたように続けた。
『だからね、じいはすごいの。
本当にすごい存在なの。
でも……“わたしのほうが上”なの』
(そういう関係だったのか……)
そして、僕は本題を問う。
「じゃあ……どうして人間にはじいが普通の執事に見えるの?」
嬢は指をひらひらさせて答える。
『じいの本来の姿は、人間には“認識不能”。
だから、わざと“見せられる姿”を作ってるの。
人間たちがパニックにならないためにね』
「じゃあ……僕が感じる“異常さ”は……?」
『姿じゃなくて“気配”のほうを感じてるんだよ。
レインの器が深いから、気配を感知できちゃうの』
そこで嬢は、ふっと表情を変えた。
『レインの器が深い理由……
それはね……』
嬢は胸へ手を当てた。
『アンタの器は“千年に一人の主の器”なんだよ』
息が止まる。
『わたしたち精霊が“主”を持てる器は、千年に一度。
その器を持つ者には、
わたしの姿も、じいの気配も、全部“本当の形”で届くの』
「じゃあ……僕だけが……?」
『うん。
アンタだけが、わたしを見て、聞いて、触れられる』
胸が熱くなる。
嬢は少し恥ずかしそうにつぶやいた。
『レインはね……
“選ばれた”んじゃないの。
“選べる”側なんだよ……』
その時、空気が揺れ、
じいが姿を現した。
「坊ちゃま。
観測者は必ず戻ってまいります。
痕跡呪式は“呼び水”ですから」
嬢が胸で光を強める。
『レインは渡さない!』
じいは静かに頷いた。
「嬢が側におられる限り、決して渡しはしません。
そして――」
じいは深く礼をした。
「器が整い次第、嬢は“真名”をお渡しになる。
それが、坊ちゃまの“始まり”です」
嬢は真っ赤になりながら叫んだ。
『レイン……
次の揺れが来たら……
わたし……ほんとに……
アンタに“名前”、渡すから……!』
胸が震えた。




