第七話「人の姿をした異常」
学院長室の扉は、重く低い音を響かせて開いた。
「失礼します……」
足を一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
昨日から続く魔力異常の中心にいる――その実感がひしひしと胸へ押し寄せる。
肩に乗った精霊が、耳元で囁いた。
『ね、レイン。大丈夫だからね。
アンタ、悪いことしてないんだから。胸張って』
(ありがとう……)
学院長は机の前に立ち、深く沈んだ瞳でこちらを見た。
魔力管理主任は資料を抱え、緊張を隠そうともしない。
「来てくれてありがとう、アークライト君。
どうぞ座りなさい」
「はい……」
椅子に腰を下ろすと、主任が淡い光をまとった水晶板を机に置いた。
「早速本題だが……君の周囲の“魔力揺らぎ”は、通常の暴走波形とは根本的に異なる。
外から“観測”されているような痕跡がある」
(外から……観測?)
精霊が僕の肩で小さく震えた。
『やっぱり……外部の誰かが見てるんだよ……
この揺れ、普通じゃないし……』
学院長は静かに頷いた。
「アークライト君。
昨日、そして今日……連続で発生した揺れは、学院防御陣にまで影響を与えている。
これはただの優秀な学生に起こる現象ではない」
「僕に……何か原因が……?」
「それを確かめるために、君の“器”の深度を測定する。
通常では触れられない層まで、我々で可能な範囲を探ってみよう」
主任が水晶球を取り出し、僕の前にそっと置いた。
「痛みはない。だが……驚くかもしれない。
特に君のように器が深い者は、揺れが反応しやすい」
(特に僕のように……?)
『レインはね、器が“深すぎる”の。
それも生まれつき……だと思う』
(生まれつき……?)
訊き返すより早く、主任が水晶球へ触れた。
「では始める――」
光が広がった瞬間――
僕の胸の奥が、静かに震えた。
(……っ……!?)
器の“底”が揺れる感覚。
湖の奥に手を入れられ、波紋が広がるような――そんな初めての感覚。
「なんという深度だ……底が見えん……!」
主任が息を飲む。
「これは……尋常ではないぞ。
アークライト君、君の器……想像を遥かに超えて深い」
学院長も目を細める。
「外部観測が君を狙う理由が、少し見えてきたな……」
精霊の体が震え、小さく呟いた。
『これ……やっぱり……
アンタの器、本当に“特別”なんだよ……』
(特別って……何が?)
『あとで言う……。言わなきゃいけないこと、たくさんあるし……』
その時だった。
学院長室の空気が、ふいに“落ちた”。
光が消えたわけではない。
ただ、全ての音が一瞬で吸い取られたような――異様な沈黙。
「……っ!? 主任、魔術陣が……!」
学院長の声が震えた。
壁に刻まれた多重結界の紋様が、黒く“染み”たように揺れ始める。
主任が叫ぶ。
「外部観測……!
いや――これは“侵入”だ!!」
(侵入……!?)
瞬間――
黒い“手”が空間から伸びた。
霧のようでありながら、触れれば確実に“何かを奪う”力を持った手。
僕の胸へ向かって、迷いなく伸びてくる。
「アークライト君、逃げろ!!」
『レイン!! 動いて!!』
(足が……動かない……)
全身の魔力が縛られていく。
黒い手は僕の胸に触れ――
器の深層へ指を押し込もうとした。
(……っ……!!)
世界が揺れ、視界が黒へ傾く。
《連れていく……深層へ――》
確かに、耳元でそう囁かれた。
学院長が魔術を放つも、全てが霧散する。
主任の防御壁は触れられた瞬間に砕け散った。
カイルでさえ膝をつき、泣きながら叫んでいた。
「な……んだよ……これ……!!
こんなの……人間の力じゃ……ッ!!」
(ダメだ……このままじゃ……)
器そのものが凍り、黒い空間へ引きずり込まれる。
精霊が僕の胸にしがみつき、泣き叫ぶ。
『レイン!! ダメ!! 行かないで!!
わたしが……わたしが守るから!!』
(でも……動けない……)
黒い手が、僕の“底”へ届こうとした――その瞬間。
――白光が世界を貫いた。
観測者の手は吹き飛び、空間そのものが切り裂かれた。
圧倒的な“格”。
第三観測者が放っていた支配の空気を、一瞬で塗り潰す上位の存在感。
白光の中心に、長身の男が立っていた。
燕尾服。
銀の手袋。
整った髪を後ろで束ねた、完成された気品。
彼は軽く頭を下げ、
「――お下がりください、坊ちゃま」
と、静かに言った。
その声だけで、観測者の影は震えた。
《な……何……だ……お前……
その……位階……ッ……!?》
男は指先で空気を払うように動き、
「無礼者。
我が“嬢”の客人に触れるとは、不敬の極み」
圧倒的な威圧が空間を支配し、観測者は“死”を悟った。
《――――!!》
影は崩れ、怯え、逃げるように消え去った。
静寂。
あの黒い絶望の空気が嘘のように消える。
「……坊ちゃま。ご無事で何よりです」
男は膝をつき、僕に深い礼をした。
精霊は肩で震えながら叫んだ。
『じい!?!?
なんでここに来てるのよ!!?
呼んでないってば!!!』
これが、僕と――
“じい”との出会いだった。
白光が消えたあとも、学院長室にはしばらく誰も声を出せなかった。
あの第三観測者――誰も逆らえない圧を放っていた存在が、
ひとことの“叱責”だけで震え上がり、退散したのだ。
燕尾服の男――じいはゆっくりと姿勢を戻し、僕へ向き直る。
「お怪我はございませんか、坊ちゃま」
「……ぼ、ちゃ……ま……?」
僕が言葉に詰まる横で、肩の精霊がぷくっと頬を膨らませた。
『じい!! なんで勝手に来るのよ!!
呼んでないってば!!』
じいは涼しい顔で言った。
「嬢。あなたの気配が“乱れた”からでございます」
『乱れてない!! ちょっとパニックになっただけ!!』
「それを“乱れ”と言うのです」
『むきー!!』
(え……この二人、どんな関係……?)
学院長はまだ震える手で机を掴みながら、じいへ問いかけた。
「……き、君はいったい……何者なのだね?」
「ただの執事でございます」
「た、ただの……?」
明らかにただの執事ではない。
第三観測者を追い返す“格”を持つ執事など、この国では聞いたことがない。
主任もかすれた声で言う。
「位階が……高すぎる……。
魔術体系にすら該当しない……こんな存在が……」
じいは微笑を崩さず、静かに言った。
「私は坊ちゃまの御身を守るためにのみ存在しております。
説明は……嬢、あなたからの方がよいでしょう」
精霊はふい、とそっぽを向き、僕を見た。
『レイン……えっと……その……
本当は、ずっと言わなきゃいけなかったんだけど……』
「……僕の出生に関係あるの?」
『ある。めちゃくちゃある』
じいが補足するように頭を下げた。
「坊ちゃまは“主”の器を持って生まれた方。
高位精霊――いえ、“特級精霊”が従うに値する器です」
(……特級……精霊……?)
精霊が慌てて手を振る。
『ちょっ、じい! 言いすぎ!!
わたしはまだ特級とかそんな……!!』
「嬢。あなたは謙遜が過ぎます。
坊ちゃまに名前を渡そうとした時点で、
その位階は確定していたでしょう」
『~~~~っ!!!
言わないでって言ってるでしょ!!!』
(……僕に名前を……渡そうと……?)
学院長は深く息を吐き、僕を見る。
「アークライト君……
君の器は、普通の召喚士のそれではなかった。
深すぎる……まるで“高位精霊と契約する前提で作られた器”だ」
「そんな……僕、適性ゼロって……」
「むしろ逆だ。
適性検査が“君の深さを測れなかった”のだろう」
主任が水晶板を見ながら言う。
「第三観測者が君を狙った理由も、これで説明がつく。
器そのものが、ある種の“至宝”なのだ」
精霊は僕の胸元に小さく寄り添う。
『レイン……怖がらないでね……
アンタが特別だから狙われたんじゃない。
アンタの器が“優しい”から、揺れやすいだけ』
(優しい……?)
『そう。
だから、契約も……名前も……
ちゃんと準備しないといけないの』
その言葉に反応するように、じいが静かに姿勢を正した。
「嬢。そろそろ……お話しすべき時でしょう」
『……わかってるよ』
精霊はくるっと僕の前へ飛び出し、両手を後ろに組んで宙に浮かんだ。
『レイン。
わたし、本当は……アンタの“従属精霊”じゃないの』
「え……?」
『アンタの“主”はずっと前から……アンタだったの。
名前を渡したら、それが正式になっちゃうから……
ずっと、言えなかった』
胸が大きく脈打つ。
(僕が……君の主……?
そんな……僕は……)
『いいの。
アンタの器が優しくて、広くて、
わたしが入る場所がちゃんとあるなら……
わたしはここにいたい』
精霊は照れくさそうに、でも真剣に言った。
『だから……
“名前を渡す”覚悟ができるまで、
ちゃんと見ていてね、レイン』
学院長が席を立つ。
「……アークライト君。
君には、学院としても守らねばならない価値がある。
第三観測者は必ず再来するだろう。
だが――」
じいへ視線を向ける。
「君が守るというのなら……
しばらくは安心してよさそうだ」
じいは深く頭を下げた。
「坊ちゃまの安全は、何者にも譲りません」
『ほんっとに、じいは大げさなんだから……』
「嬢が自覚なさすぎるのです」
『う、うるさい!!』
学院長室を出た瞬間、精霊は僕の胸の前へふわっと浮かび、
小さく言った。
『ねぇ、レイン……
名前、ほんとに“もうすぐ”だから』
「もうすぐって……どれくらい?」
『ひ・み・つ!』
「ずるい……」
『ずるくない! 焦らせたいだけ!!』
「……なんで?」
精霊は真っ赤になって僕の肩に戻った。
(……僕が主……か)
第三観測者の影。
じいという圧倒的な存在。
精霊の言葉。
器の正体。
すべてが、僕の世界をゆっくりと変えていく。




