第十三話「老執事の本気」
「ねぇセティア、これってさ……じいくん、めんどくさくなるんじゃない?」
セティアは静かに、しかし柔らかな声で応じた。
「アザリエル、落ち着いて。
彼は確かに“厄介”だ。
多少は手こずる可能性がある」
アザリエルは肩をすくめた。
「多少、ねぇ……?」
そのとき、嬢がレインの胸へ触れ、強い光が弾ける。
『レイン……!
器が……強化されてる……!
今なら……じいの力でも、あなたを壊さない……!』
レインは息を呑む。
(……ということは――
じいが、本気で……?)
その思考を追うように、背後から声が響いた。
「はい、坊ちゃま」
じいが一歩、前に出た。
その瞬間――
世界そのものが沈んだ。
空気が重くなり、
地面が微かに軋み、
周囲の建物の窓ガラスがカタカタと震え始める。
アザリエルは目を丸くした。
「ちょ、待って……歩いただけで世界が怒ってるんだけど?
なにこれ、僕がやったわけじゃないよね?」
セティアは淡々と、しかし優しく分析する。
「アザリエル、距離を取りなさい。
あれは……常識の外側にある圧力だ」
じいは表情を変えぬまま、ただ宣言した。
「これより――嬢の主を害した罪を、正します」
その語気はいつもどおり丁寧。
だが、瞳の奥には静かな怒気が宿っていた。
同時に、じいの皮膚に
黒紫の血管のようなタトゥー が浮かび上がる。
腕、首、頬へと広がり、
まるでじい自身の“中身”が光として滲み出てくるかのようだった。
嬢が悲鳴のような声で呟く。
『じい……これ……!
“本体の一部”が出てる……!
今のじい……本気の手前……!』
レインの喉が自然と鳴る。
(……これが……じいの、戦う姿……)
じいが軽く指を握った。
その動作だけで――
石畳が砕け、風が爆ぜ、木が根元から揺れた。
アザリエルの笑顔が固まる。
「え?なに今の。手、握っただけだよね……?」
セティアは短くまとめる。
「――接近は不可だ」
じいが一歩、踏み込んだ。
その踏み込みは“視えなかった”。
次の瞬間、アザリエルの頬に細い線が走り――
遅れて血が噴き出す。
アザリエル
「っ!? ねぇ待って!?
今の……いつ動いたの!?」
セティア
「動いた、ではないね。
“視認できる速度ではなかった”だけだ」
じいは静かに言葉を置く。
「ここからは少々、手荒になります」
アザリエルの笑顔が震える。
(これ……本気じゃない……
ほんの序盤……)
アザリエルが跳躍しようとした瞬間――跳べなかった。
「……あれ?
跳べないんだけど?」
セティアは、淡々としかし丁寧に解説した。
「空間の曲がり方が変わっている。
君の失敗ではないよ、アザリエル。
“ここ”はすでに、彼が支配している」
じいが手をかざす。
空気が“刃”になる。
アザリエルの腕が、音もなく飛んだ。
「ぎゃああ!?
なにこれなにこれ!?
ねぇセティア、僕の腕、どこいったの!?
ジジイ!何したのよ!」
セティアは静かに寄り添うように言う。
「落ち着いて。
痛みはすぐ薄れる。
……ただ、状況は最悪だ」
じいが腰をわずかに落とす。
その構えだけで――
アザリエルもセティアも硬直した。
アザリエル
「ちょ、動けないんだけど!?
セティア、これ催眠!?なに!?」
セティア
「違うよ。
“間合い”だ。
殺されると身体が判断している……君も僕も」
じいが足を軽く踏む。
ドンッ!!
地面が爆発し、
石が宙へ舞い、
建物が大きく揺れる。
アザリエル
「いやいやいや!?
歩いただけで天変地異起こすのやめて!!」
セティアの声にも動揺がにじむ。
「……純物理で、この破壊力……?」
じいが手を振る。
アザリエルの身体が吹き飛ぶ。
何が起きたのか理解する前に、次の衝撃が襲う。
「ぐぼぉ!?
殴った!?今殴った!?
全然見えないんだけど!!」
続けてセティアも弾き飛ばされる。
アザリエル
「ねぇセティア!?
これ勝てる未来ないよね!?ないよね!!?」
セティアは静かに首を振る。
「……撤退しよう。
君をこれ以上危険に晒したくない」
じいはタトゥーを光らせながら歩み寄り、宣告した。
「嬢の主に害意を向けた罪、重いですよ」
アザリエルは涙目で叫ぶ。
「ごめんって!!反省してるよ!!
だから命だけはぁぁ!!!」
セティアはレインを一瞥し、静かに言う。
「……レイン。
今日はここで退くよ。
また、正しい形で会おう」
二人は跳躍ではなく、
逃げるように空間へ吸い込まれて消えた。
学院に静寂が戻る。
嬢はレインにしがみつき、涙声で言った。
『レイン……っ……!
本当に……生きててよかった……』
レインは震えながら嬢を抱いた。
「嬢……ありがとう……」
じいは膝をつき、深く頭を下げる。
「坊ちゃま。ご無事で何よりでございます」
だが嬢は涙を拭きながら、じいに向き直る。
『じい……なんで逃がしたの?
追えば倒せたのに……』
じいは静かに、真摯な声で答えた。
「はい。
しかし――
あれ以上“本気”を出すと、私自身が損耗いたします。
肉体も精神も……戻れぬ線を越える可能性がございます」
嬢は息を呑む。
『じいが……壊れちゃう……?』
「ええ、嬢。
そしてそれは……坊ちゃまも望みませんでしょう」
レインは強く頷いた。
「じい……僕は……
あなたが傷つくところなんて、見たくない」
じいは微笑んだ。
「坊ちゃま。嬢。
私は命の続く限り、お二人をお守りいたします」
学院の空が静かに晴れた。
――老執事の本気は、まだほんの一部にすぎない。




