今世は期待いたしません
私、シーナ・アルネモネには、前世の記憶がある。でも、ただそれだけ。
未来に何が起こるかだとか、自分が何者なのかだとか。前世とは違う洋風ファンタジーなこの世界の知識なんていう都合のいい記憶は、ひとつもない。
思い出すのは、淡い期待を抱いては裏切られた、むなしかった思い出ばかり。愛されたくて、幸せになりたくて、他人にすがってばかりだった。
でもどんなに尽くしても、利用されるだけ。私が選ばれることはない。
期待はひとつも叶わないまま、不慮の事故で命を落とした私は。
そんな記憶がこびりついたまま、とても裕福とは言えない、落ちぶれた男爵家の令嬢として生まれ変わっていた。
アルネモネ男爵家は、傲慢で強欲な両親が無駄金を使い込んだあげく、小さな領の運営にことごとく失敗し、農産物も不作続きで困窮するはめになっていた。そんな両親が娘を大事にしてくれるはずもなく、金持ちに嫁がせるための道具としか思っていないのがありありとわかる。
だけど私は、前世の二の舞を演じないと誓った。両親にも男にも頼らず、一人で生きていける女になるんだ。
学ぶ機会を得るのも難しかった前世とは違い、腐っても貴族。両親に隠れて、自分の時間は知識を広げるため勉強に使うようになった。
前世の記憶を持つアドバンテージは何もないけど、一人で生きていくための努力ができる。他人に期待せずに、今世は自分のために図太く生きていこう。
そう開き直れるようになったのは、よかったことかもしれない。
**************
前世では見たこともないような華やかな会場で、誰もがにこやかに社交の場を楽しんでいる中。
「シーナ嬢、今日も素敵だね。1曲踊ろうよ」
「…ええ。喜んで」
下心満載な少々歳をくった子爵家令息が、思惑を隠しきれない笑顔で手を差し伸べてくる。
今世は運よく器量がよく生まれた…といっても、釣り目がちで派手めな悪役令嬢顔だけど。この容姿と、日頃から「いい男を捕まえろ」とうるさい両親が用意した露出度の高いドレスのおかげで、こういう輩は寄ってくる。
両親そっくりのがめつい娘だと思われようが、必死な安い女だと思われようが、かまわない。面倒な揉め事さえ避けられたらいい。社交界ではある程度愛想を振りまくようにしている。
ダンスを踊りながら、周囲の話し声に耳を傾けてやり過ごす。
「ノイ様、お加減はいかがですか?」
「…大丈夫だよ、ありがとう」
「よかったわ! ところで、今日も素敵な装いですわね。
ノイ様はどちらを利用してますの? 私、新しい仕立て屋を探していまして………」
「…彼女、さすがね。仕立屋を聞く流れで自然にドレスをおねだりしてるわ」
「気遣う素振りから入るのも上手いわよ。彼、昔は病弱だったらしいから」
「あら、そうなの? 確かに色白だし、儚げな方よね。
はぁ、私も素敵な殿方にアピールしないと。行き遅れにはなりたくないから………」
聞こえてくるのはBGMにしては趣味の悪い会話ばかりだけど、ダンス相手に集中するよりかはいくらかマシだわ。
内心つぶやきながら、表情だけはにこやかに、作業のように淡々と踊り続ける。
「ふぅ…」
深く息を吐き出しながら、一人、柵にもたれかかる。ある程度両親が求める範囲の仕事を終えたら、人の来ない穴場のバルコニーに避難する。それが私の社交界での過ごし方だった。
「必要以上にベタベタと…やめてほしいわ。…まぁ、こんな下品なドレス着てたら仕方ない、か」
ため息をつきながら、一人ぼやき、どこまでも広がる星空を眺める。きらびやかな会場とはまた違う、儚く小さな、しかし強い輝きが、無数に降ってくるような感覚に陥る。目を閉じて、スゥッと胸いっぱいに息を吸い込む。
社交界は嫌いだけど、すべてから解放されたように感じるこの時間は、好きなのよね。
ガタ……
「え?」
ぼんやりしていると、後ろから音が聞こえてくる。
まずい、せっかくの穴場だったのに、誰か来たのかしら。
振り返ると、一人の男がうずくまっていた。呼吸が荒いのか、肩がゆっくりと大きく上がり下がりしている。
「ど、どうされたのですか?」
「うぅ……、ん」
後ろから男の肩に軽く触れると、そのまま倒れ込んでくる。男を支えるようになんとか胸元で抱きとめた。ひどい汗で、苦しそうにゆがんだ美しい顔が見える。
「アンリス卿、だわ。…ひどい熱」
彼、ノイ・アンリスは、豊かな伯爵家の長男だ。美麗で人当たりもよく、令嬢からも人気が高い。
先程も一人の令嬢にロックオンされていたようだけど、私のような品のない貧乏女は関わりがないから、おそらく話したこともない。
…そういえば「昔は病弱だった」とかなんとか言っていたっけ。先程の令嬢たちの会話を思い出す。
どうしたものかしら。私一人で彼を運ぶのは無謀だし、人を呼んでしまうと騒ぎになるかもしれない。そのせいで、この場所が見つかってしまうのもちょっと困るわ。でも……。
苦しそうな彼を見ながら少し考えたのち、そっと彼を壁にもたれかけさせる。都合よく解熱剤を持っているなんてことはさすがにない。だけど、驚くほど都合よく、この世界には治癒魔法がある。
とはいえ、習得の難易度が高く術者の体力も奪われるため、貴族にとっては自らが学ぶものではなく、利用するものとされている。そのためほとんどは専門職として、平民が高所得を目指して修めるものだ。
だけど私は、一人で生きていくための一つの手段として。こっそり情報を集め、少しずつ習得していた。
なかなか試す機会もなかったし、人助けにもなるし、一石二鳥。覚えたての解熱魔法を彼にかけてみる。
…おでこに触れてみると、少し熱さがマシになり、呼吸も落ち着いたような気がする。
よかった。成功ね。
ホッと胸をなでおろし、一度彼を残して水や布巾を取りに行く。私が使える簡単な魔法では体力をあまり使わない代わりに、たいした効果ではないため、完治はしない。
苦しそうに壁にもたれかかっている彼を自分の膝に寝かし、汗をぬぐい、濡らした布でおでこを冷やす。
ふと、気づく。前世で当時の彼が体調を崩す度に、看病を手厚くしていたクセだろう。
私ったら、妙に手際がいい。
前世の記憶が少しは役に立ったかも。…なんて、バカらしいことね。
「……ん」
ずっと伏せられていた長い睫毛が揺れ、瞼がうっすらと持ち上がりだす。
「よかった。アンリス卿、気が付かれましたか?」
介抱し、しばらく様子を見ていたら、ようやくアンリス卿が目を覚ました。
そろそろ足もしびれて限界になってきていたし、社交界の時間も終わりに迫ってきていたから、本当によかった。
「お水、飲まれますか?」
「あ、ああ…」
まだぼんやりとしている様子で、促されるまま水を受け取り、口にする。少し身体を起こした彼は、状況を理解しようと考えている様子で、私に向き合うようになんとか姿勢を整える。
コップを置きながら、熱で少し紅潮させた顔を私に向けて、眉をひそめた。
「シーナ嬢が……どうして、ここに?」
「少し疲れたので、一人で休んでいたんです。そうしたらあなたがやってきて倒れてしまったので、放っておくわけにもいかないですし、少々介抱をと」
「ああ、そういう……」
彼は訝し気な表情のまま、おでこの濡れ布巾を手に取り、眺める。少しの沈黙の後、うんざりしたように口を開く。
「何を、望んでいるのかな」
「え?」
「誰かに任せたらそれで済むものを、君が俺を助ける理由なんてないだろう。お礼を期待したとしか思えない」
「な……」
なんて、失礼な。私は突然の難癖に反応できず、驚いて固まってしまった。
そんな私を無視して、アンリス卿は嫌味な微笑みを浮かべて私を見据える。
「シーナ嬢のことだから、金目のものか…、もしくは、こういうことが望み?」
彼は私の頬に手を伸ばし、ふわりと撫でる。私を見つめる瞳が、熱のせいで潤んで、なんだか艶っぽくて。一瞬、息をするのを忘れてしまう。
「……何を」
少し近づいた彼の顔が止まり、薄く整った唇から声がこぼれる。
「何を、期待しているんだ」
目元が引きつるように歪んだ顔は。吐き捨てるような声は。悲しそうにも、憎らしそうにも見えた。
彼の言葉でようやく我に返った私は、彼の手を降ろし、少し距離をとる。
「……勝手なことを言わないでください。あなたに期待なんてしていません」
少しばかり腹が立ったからって、嫌な言い方になってしまったかしら。
アンリス卿は驚いたように目を丸くした後、考えるように眉をひそめる。
「…じゃあもしかして、脅すためとか……」
彼の表情や声からは、疑いや困惑の色が見て取れる。
どうやら怒ってはいないようで、よかったわ。
「そういう話ではなくて。私はお礼も何も、望んでませんので」
「そんなわけが……、ッ…」
私の言葉をまるで信じられないというように否定する彼には、まだ熱がある。フラッと頭を押さえるように、私に倒れ込みそうになる。なんとか身体を支え、壁にもたれかけさせてあげる。
「まだ熱は下がりきっていないのですから、無理に動いてはだめですよ」
「……ごめん」
「どなたか、呼んでまいりましょうか」
「…いや、みんなにはあまり、知られたくないんだ。侍従が…この場所を知っているから、大丈夫」
「そうですか」
息苦しそうに話す彼の言葉に安堵する。もうパーティも終わりの時間だし、それなら私はお役御免ね。
そう思っていると、慌てた若い男が駆け込んでくる。
「ノイ様! やはり体調を崩されたのですか!?
今日は少々顔色が悪そうでしたので……って、あれ?」
いるのは主人一人だと思っていたのだろう、私がいることに気づき驚いたようだ。慌てて頭を下げられる。
「し、失礼いたしました」
「いいえ、私はもう行きますので」
一応、令嬢らしく余裕の微笑みを見せて、立ち上がる。
熱にうなされるアンリス卿の熱い視線を感じたので、もう一度、念押しをしておくことにした。
「私は本当に何も期待などしておりませんので。このことは誰にも言いませんし、アンリス卿もどうかお気になさらず。それではお大事に」
何か言いたげな彼が口を開く前に、さっさと立ち去ってしまおう。
そのまま足早に、きらびやかな会場を後にした。
**************
数日後。いつも通り任せられた家の仕事をこなした後、こっそり魔法の勉強をしようと思っていたら、母から呼び出しを食らってしまった。
いつもは不機嫌なばかりで、あからさまに私に八つ当たりするお母様。それなのに今日は珍しく妙にテンションの高い様子に、妙に嫌な予感がする。
「お母様。何かありましたか?」
「シーナ! あなた、やるじゃないのぉ!」
「は……?」
この母が私を褒めるだなんて、あり得ない。何事かと大きく瞬きをする私に、手紙を見せつける。
「アンリス伯爵家の跡取りから、デートのお誘いよ!」
「……え…、どうして……」
アンリス伯爵家の跡取りと言えば。先日ほぼ初めてお話しした、ノイ・アンリス…そう、あからさまに私に嫌悪感をぶつけてきた、彼だ。
「なにかの間違いでは……」
「私が選んだドレスのおかげに違いないわ! うんと気合いを入れないとねぇ! 新調するお金はあったかしら」
なんとか回避したい私の言葉は誰の耳にも届かず、はしゃぐ母の声だけが響き渡った。
**************
「すご……」
アンリス伯爵家の、うちとは比べ物にならない美しさに圧倒される。使用人もまともに雇えず、なるべく質素に節約している我が家との対比がすごい。
招かれるがまま、やってきてしまった。アンリス卿の待ち受ける客間に通される。
「シーナ嬢、よく来てくれたね」
「……この度は、お招きいただきありがとうございます」
まったく感謝などしていないけど、一応、形式上、丁寧にドレスのスカートを持ち上げ、礼をする。
ちなみにドレスは今回も母チョイス。艶やかな紫色のドレスは、肩も胸元もガバッと潔く開いている。
高級そうなティーセットが用意されているテーブルをはさみ、彼と2人、向かい合う。良い紅茶の香りが漂ってくる。
正直早く飲んでみたいけど、それよりも。
「…あの、私はなぜ呼ばれたのでしょうか」
「ああ。お礼がしたいからだけど」
「はい……?」
あんなに私を“お礼目当てだ”と蔑んだくせに?
「何もいらないと、期待などしていないと、お伝えしましたよね」
イラッとした感情を、つい露わにしてしまった。しかし、私の小さな反抗など彼には通じていないのか、あっけらかんと返されてしまう。
「うん。でもやっぱりそういうわけにもいかないよ」
「いや、ですから……」
「あのときは俺も熱で朦朧としてたから、迷惑をかけたでしょ。悪かったと思ってるんだ。
ほら、このお茶美味しいから、飲んでみて。お菓子も用意したから」
キラキラと輝くスイーツたちが目の前に広がる。貧乏な我が家ではもう長らくこういったものに縁がなかったから、誘惑に負けてしまう。
「……とても美味しい、です」
ビスケットを口に入れると、サクッとほどける触感と程よい甘さが広がり、ついうっかり顔がほころぶ。
目を輝かせてお菓子を口に運ぶ子供のような私を見て、アンリス卿は得意げな顔をする。
「だよね。パティシエがこだわり屋なんだ」
「私、あまりお菓子を食べる機会がなくて…でも、こんなに美味しいものは初めてです」
美味しいお茶とスイーツで心が和んだせいなのか。彼との話は弾む。
「それで、領内で放置されてた森を整備しようと行ってみたら、キノコがブワッと生えてて…。キノコの大群って、結構迫力あるんですよ」
「たしかに想像したら怖いかも。それ、どうしたの?」
「調べてみたら食べられるキノコだったので、夕食にしてもらいました」
「ハハハ! じゃあラッキーだったね」
「はい。食費が浮きました」
…本当は自分で調理したんだけど、少しだけ見栄を張らせてもらったわ。
私のくだらない貧乏貴族話を、アンリス卿は思いのほか楽しそうに聞いている。物珍しいだけだろうけど、こんな風に話すのは今世では初めてだから、少し嬉しい。
「シーナって、第一印象と違うって言われない?」
いつの間にか彼は、私を『シーナ』と呼び、私にも名前で呼ぶように促した。距離を近く感じたことが心地よかったのか。なぜだか、いつもならしないような話までしてしまっていた。
「…いえ、こういった話をすることも少ないですし…。こんなドレスを着てるせいで、妙な勘違いはされやすいですけど」
「? そういうドレスが好きなんじゃないの?」
「私はまっったく好きじゃありません」
「そうなんだ」
少し驚いたような反応を見せるだけで、じゃあなんで、と聞いてこないアンリス卿…もとい、ノイ様に、優しさを感じる。事情を察してくれたのかもしれない。
「…ドレスを選ぶのは、お母様なんです。私が選ぶと機嫌を損ねてしまうので」
「そういうことか」
「ご存じだと思いますけど、うちはドレスにかけるお金もあまりないので。用意してもらえるだけありがたいですけどね」
ただ、自分にそう言い聞かせているだけだけど。心のなかでつぶやく。
「じゃあ、シーナはどんなドレスが好きなの?」
「そうですね…。肩や胸元はもっと品よく、ふんわりしたフリルがあしらわれているものとか、色味も淡くて柔らかい印象のものとか……」
頭のなかで、私とは違う、可愛らしい令嬢を想像する。ポツポツとつたない言葉でイメージを説明する私を、ノイ様はふむふむと聞いてくれている。
「……なんて、そんなドレスは私には似合いそうもないですけど」
「そう? 可愛いと思うけど」
さらっと言う彼の言葉に、うっかりドキッとしてしまう。お世辞とわかっていても、嬉しい。
「あ、そうだ! お礼に、そんなドレスをプレゼントし……」
「それはダメです」
いいアイデアを閃いたとばかりに告げるノイ様の言葉を、食い気味に止める。
そう、それはダメ。私はそんな期待をして、ここにいるわけでも、この話をしたわけでもないもの。
「ええ、なんで」
「お礼はいらないと言ったじゃありませんか。それに、そんなものをもらってしまったら、両親の目がどうなるか……。
とにかく! ダメなんです」
「……わかったよ」
シーナがそう言うなら、と、私の意見を受け入れてくれたようだ。ノイ様は相手の気持ちを尊重してくれる人なんだなと、ぼんやりと思う。
あの日、急に「お礼を期待して助けた卑しいやつ」扱いされたときはものすごく嫌な男だと思ったけど、今思えばそれも仕方ないと思える。
たしかに私みたいな女に助けられたら警戒して当然だもの。…自分で言って、悲しくなるけど。
「今日のことで、十分お礼はいただきました」
「俺も楽しかったよ」
「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
「うん。じゃあ、また」
美味しいお菓子をつまみながら談笑するなんて、前世でもほとんどしたことがなかった。頼れる家族なんておらず、ようやくできた彼氏からは、今思えば家政婦扱いをされていたんだろう。必死で身の回りのことをするばかりで、それなのに会話らしい会話もなく。それでも、愛されていると信じて……。
こんな風に楽しく過ごせる友人でもいれば、違ったのかしら。
でも、ノイ様の言った「また」なんて、ないことはわかってる。
期待することほど、むなしいことはないもの。また日常を、無難にやり過ごすだけだわ。
そう、思っていたのに。
「今日はうちの庭園を案内したくて」
「…ありがとう、ございます」
なぜか、「また」が実現していた。
凄腕の庭師が手入れをしたに違いない、見る人の心を彩る美しい庭園に招待され、手を引かれる。
我が家の予算的に、行ける範囲の社交界にしか顔を出す余裕がなく、サロンやお茶会には縁がなかったから。なんだかワクワクしてしまって、浮き足立ってしまう。
「きゃっ」
「ほら、キョロキョロしてると危ないから」
夢中で見渡しながら歩いていたら、躓いてしまった。ノイ様はクスクスと笑いながら、私の身体を受け止めてくれる。
青白く、儚そうに見える細い彼も、意外と力強いのね。…なんだか、恥ずかしくなってきた。
「…っ、ごめんなさい」
熱くなった顔を隠すように俯く。
何も言わない彼が気になって、そっと、窺うように顔を上げてみる。
「……ッ」
優しく微笑むノイ様と、視線が絡み合う。私を支えてくれている彼との距離は、とても近い。光に透けたような色素の薄い瞳に、目を奪われる。
顔を上げてしまった手前、目を逸らすのもわざとらしい気がする。でも……こんな風に、まっすぐ私を見てくれる人なんて初めてだったから。どうすればいいかわからない。
おそらく耳まで真っ赤になっているだろう私は、固まってしまう。
「ぅ……、ぇと…」
「っぷ、ハハッ」
何かしゃべらないと、と声にならない声を発する私に、ノイ様が笑い出す。
「な、なんですか」
「ハハハ、ごめんごめん」
笑いながら、ノイ様は私をまっすぐ立たせるようにしてくれる。固まってしまっていたのは、バレてないといいけど。
「シーナの新しい一面が見れて、嬉しくて」
「ええ…?」
どんくさいのが、そんなに面白かったのかしら。まぁ、笑ってもらえたならいいか。
「これなら、転ばないでしょ」
そう言って、紳士的に手が差し出される。まだ高鳴ったままの心臓には気づかないフリをして、淑女然とするのが精一杯だった。
それからも、ノイ様はときどき、私を招いてくれた。
とはいっても短い時間、他愛もない話をしながら、美味しいお菓子を食べてお茶を飲むくらい。だけどそれが、なんだか心地よかった。
そんなある日、いつも通りアンリス伯爵家自慢のお菓子を囲んで談笑しているとき。
「シーナはさ、治癒魔法士になりたいの?」
「…えっ」
な、なんでなんで、どういうこと。バレて……!?
突然のノイ様の問いかけに、驚きと混乱で固まってしまう。口をパクパクとするが、声が出ない。
「ああ、ごめん。最初は治癒魔法を武器に迫ってくる気かと思ったりもしたんだけど、そうじゃなかったし。
言わないってことは知られたくないのかと思って黙ってたんだけど……。やっぱり気になってさ」
私の動揺を察したノイ様は、えへへ、といたずらっ子のような顔を見せる。が、私はそれどころではない。
「そそそ、そんな、まさか! 魔法なんて使えませんよ。ノイ様ったら、変なご冗談を」
ホホホ、と必死で笑ってごまかそうと試みる。今までにない程、早口だったに違いない。
「やっぱり、知らないんだね」
「へ……」
「上級魔法士は、魔法の痕跡がわかるんだよ。
シーナが俺を助けてくれた日、帰ってからうちの専属魔法士に治癒してもらったんだけど、『解熱魔法の痕跡がある』って言ってたんだ」
固まったままの私に、ノイ様は淡々と続ける。
「目を覚ました後は、起き上がれるくらい回復してたことも確かだ。
俺が倒れたことはシーナ以外知らなかったし、シーナしかいないでしょ?」
「……」
上級魔法士にはそこまでわかるなんて。うかつだったわ。
貴族が魔法を修めているなんて、知られていいことはない。まぁ、貧乏貴族だからだなんだって、面白おかしく噂話をされるくらいかもしれないけど。
それでも社交界で変なゴシップになったり、両親にバレたりするのは避けたい。
それに、もしかしたらノイ様も。前世の彼のように、私を利用したくて、今まで会っていたのかも…なんて。そんな情けない不安が、私の胸の中を渦巻く。
「……私が、魔法を使えると思ったから……。だから、ノイ様は私を招待したのですか?」
聞いてしまった。彼が私を招待した理由なんて、気にしていいこと、ないのに。
握ったこぶしに力が入り、爪が手のひらに食い込む。なのに、痛みなんて感じない。
「へ? どうして?」
「…へ?」
気の抜けたようなノイ様の声に、ふっと身体の緊張が解け。私も同じように、気の抜けた声を出してしまった。
「いや、どうしてって…だって、利用できるとか、ゴシップになるとか、いろいろ……」
「ええ? なにそれ。シーナはそんなこと考えるの?」
「そんなことない、ですけど……じゃあなんで急に、わざわざ話題にしたんですか?」
おそるおそる聞く私に、ノイ様はあっけらかんと答える。
「シーナが隠したいんだとしたら、魔法の痕跡が残ることは知っておいたほうがいいなと思ってさ」
…確かに、それは教えてもらえて助かった。彼の優しさだったのね…、と思っていると。
「あとは……言い方は悪いけど、興味本位、とでも言うのかな」
「え゙」
潰れたような声をあげる私を特に気にする素振りもなく、ノイ様は淡々と話し続ける。
「って言っても、ゴシップみたいな話じゃなくてさ。シーナがなんで魔法を修めようと思ったのか、気になったんだ」
取り繕わない言葉が、私にまっすぐと届く。
「趣味で魔法を修める貴族もいると思う。講師をつけてさ。でも、シーナはたぶん独学でしょ?
苦労したはずだけど、せっかく覚えた魔法をひけらかすこともしない。……まぁ、とにかくさ」
ノイ様が私にまっすぐ向き直る。
「単純に、シーナのことをもっと知りたかったんだ」
「……」
「もちろん、言いたくなかったら、気にしないで」
言葉が出てこない私にノイ様は穏やかに微笑み、「これ美味しいんだよね」と、パウンドケーキを口に運ぶ。パッと、話題を変えるように明るく声をかけてくれる。
「シーナも食べてみて……」
「面白い話ではないですが、いいですか?」
「! うん」
もうバレているのだし。私を知りたいと言ってくれた彼の言葉は素直に嬉しかったから。
…話したいと思った。
「私、昔は他人を頼りにしてばかりで。自分がささげたら、相手も返してくれると思い込んでいました。…でも、そんなことはないと気づいて。
期待するのは、やめることにしたんです」
家族にも、彼氏にも。どれだけささげても、それで終わり。笑顔を向けてくれるだけでよかったのに、それさえもなくて。固執して、独りよがりにすがっていた。
「だから、一人でも生きていけるようになりたいと、思うようになりました。それで、私なりにいろいろ考えた結果、魔法を修めておけば、職には困らないだろうと思って。
両親には内緒ですし講師を雇うお金もありませんが、幸い、古い書物は残っていたので。空いた時間に学ぶようになったんです」
暗くならないよう、なるべく明るく話す。
「独学だと難しいですけど、逆に燃えるというか、結構楽しいんですよ!」
「…そっか、だから……」
「え?」
つぶやくように言うノイ様の言葉が聞き取れず、聞き返す。
「ううん。でもそっか、“あなたに期待なんてしていません”って言われた理由がわかったよ」
「あ……あのときは、嫌な言い方をしてすみません」
笑いながら言うノイ様に、なんだか申し訳なくなってすごすごと謝る。
「あれは俺のほうが失礼だったでしょ。今更だけど、ごめんね」
「いえ、そんな」
あっさりと謝られ、拍子抜けしてしまう。なんとなく、機嫌が良さそうに見えるノイ様が、私をジッと見つめる。
「……話してくれてありがとう」
目を細める彼の優しい表情に、この距離でも胸の音が聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、鳴り響く。ごまかすように顔を背けてしまう自分に嫌気がさす。
二度目の人生なのに、なんて不慣れなの。
「い、いえっ……長々と、すみません」
「この話、俺以外にも知ってる人いるの?」
「いいえ、初めて話しました」
「そっか」
フフ、と楽しそうに笑うノイ様。笑ってもらえたならよかった…のかしら?
「話を聞かせてもらった代わりに、俺もひとつ、秘密の話をしようかな」
「いいのですか? 聞きたいです!」
ノイ様はあまりご自分のことは話さない。だから、話してくれるなんて、なんだか嬉しくて、つい食いついてしまう。
「…開いてみて」
クスっと笑いながら、一冊の本を私に手渡す。重くて分厚い、歴史を感じる風合いの本。
…なにかしら?
恐る恐るペラペラとめくると、ページの間に挟まれた花がちらほらと見える。
「……押し花、ですか?」
「うん、そう」
「ノイ様が作ったんですか?」
「……ああ。そうなんだ」
ノイ様は照れくさそうに顔をかき、苦笑しながら話す。
「俺、身体が弱かったせいで、子供のころはほとんど部屋から出られなくてさ。暇で暇で…お見舞いの花を見るくらいしか、楽しみがなかったんだ」
寝込んでいる少年が、おとなしく花を眺めている様子を思い浮かべる。きっと、我儘も言わずにひとり耐えていたのだろう。
「でも、その花もすぐ枯れるし、なんだか悲しくて。そんな話をおばあさまにしたことがあってさ。そしたら、押し花を一緒に作ろうって、教えてくれたんだ」
穏やかに懐かしむような表情から、病で苦しい日々の中にも幸せな時間があったのだと感じ取れる。
「特に気に入った花を選んで、丁寧にペーパーにつつんでさ。花びらを慎重に開いて…簡単な作業だけど、ワクワクしたんだ。……実は今も、たまに作ってるんだよね」
恥ずかしそうに顔を赤らめて笑うノイ様は、なんだか可愛らしい。
「素敵な話じゃないですか。秘密にする話でもないかと……」
「だって、病弱なだけでも情けないのに、男が胸を張れる話じゃないでしょ。
シーナの話こそ、自慢してもいいと思うけど」
「ええ? わたしこそお恥ずかしい話ですよ」
「いやいや」
「いやいやいや」
言い張り合う内に、なんだかおかしくなってくる。目を合わせたあと、同時にプッと吹き出す。
「ふふ。…でも、本当に素敵だと思いますよ。どれもとても綺麗で…大事にされてたんだってわかります」
ノイ様が作った押し花が挟まれた本を、丁寧にめくりながら眺める。彼が花を真剣に選び、大切に残す姿を想像すると、より愛らしく見えてくる。
「そう…かな。ありがとう」
照れくさそうに微笑む彼の顔には、安堵の色も見える。きっと、彼にとっては本当に秘密の話だったんだろう。
そんな話をしてくれるなんて、なんだか嬉しくて、誇らしく思えた。
**************
手入れされておらず古いばかりの重々しい扉と同じくらい重々しい気持ちで、家を出る。
私にとっては少し久しぶりの夜会の日。相変わらず露出度の高いドレスに身を包んで、波風立てずににこやかに過ごそうと、いつも通り自分に言い聞かせながら向かう。
と、偶然にもノイ様と鉢合わせた。秘密を話したあの日以来で、少し気恥ずかしい。
「あら、ノイ様。ごきげんよう」
「偶然だね。会えて嬉しいよ」
彼の表情に、喉の奥のほうがきゅっとなる。
…だって、本当に嬉しそうに見えるんだもの。ずるいわ。
「…私も、嬉しいです」
私だって素直に、好意を伝えたい。でも恥ずかしいから、目はまともに見れなかった。クスクスと、小さく笑われている気がする。
ノイ様はキョロッと、周囲を見渡す。この人通りのない場所に今いるのは、私たちだけ。
「…あのさ。渡したいものがあって……これ」
「栞ですか。…素敵」
優しく手渡されたのは、押し花があしらわれた上品な栞だった。淡い水色が印象的で、かわいらしい。
「もしかして、ノイ様が作ってくださったんですか?」
「うん…シーナが好きそうなのを選んで、作ってみたんだ。
こんなもの、お礼にならないと思ったんだけど…どうしても何かあげたくてさ」
お礼を断ってばかりだった私を気遣ってくれたのだろうか。私のことを考えて作ってくれたのだと思うと……。
どうしよう。すごく嬉しいわ。
「もらってくれる?」
いつものハッキリしたノイ様と違い、伺うような様子で私に尋ねる。お礼なんて期待していなかったし、もらえないと思っていたけど。
「…ありがとうございます。大事にします」
気づけばお礼を告げて、そっと手の中に納めていた。
嬉しさが溢れ出てしまう。気持ち悪いくらいの笑顔だったに違いない。
そんな私に、ノイ様も柔らかい笑顔を浮かべてくれた。
栞を大切にしまい、家を出たときとは打って変わって、明るい気持ちで会場に入る。
今なら、どんな相手だろうと笑顔でダンスを踊れそうだわ。
そんなことを想いながら、特に親しい令嬢もいない私は一人でドリンクを取りに行くと。近くにいた令嬢集団からヒソヒソ声が聞こえてくる。
「ねぇ。私、さっき見てしまったのだけど…。ノイ様が、あのシーナ嬢と一緒にいたの」
「ええ? どうしてあの女とノイ様が?」
「彼がある物を渡していて、彼女、すごく喜んでたのよ。…なんだと思う?」
「シーナ嬢が喜ぶってことは、金目のものでしょう?」
「それがぁ…。貧乏ったらしい、栞だったの!」
「何よそれ。ゴールドでできてるとかじゃなくて?」
「ただの紙よ、紙! びっくりでしょう」
先程のやり取りを見ていたらしい令嬢が、面白おかしく話しているようだ。誰もいないと思っていたのに、どこからか見られていたなんて。
…それにしても、彼女の声、聞き覚えがあるような……。
脳みそを働かせて、ようやく思い出す。
そうだ、私がノイ様を助けたあの日。ノイ様にドレスをねだろうとしていた令嬢だ。
彼女は私のほうをチラッと見て、わざとらしく、少し声のボリュームを上げる。
「私だったら、あんなものをいただいたら悲しくなるわ。…だって、絶対に好かれていないもの」
「そうよねぇ。だってあのアンリス伯爵家だもの。友好なお付き合いをされているなら、もっと価値あるものをあげるわ」
「それなのに、あんなに喜んじゃって」
「もしかしたらそう演じて、健気にアピールしてるだけかもしれないわよ?」
「まぁ、無意味なこと!」
クスクスと嫌味な笑い声が耳に響く。
確かにこの栞は、市場的価値はないに等しいと思う。でも、私にとっては違う。彼が私のために、用意してくれたただ一つのものだから。
他人からどう見られてもかまわないもの。私が大事にしてたらそれでいいわ。
令嬢方の悪口なんて気にしても仕方ないから、華麗にスルーを決め込もう。そう思っても、まだまだ続く会話は、私の耳に飛び込んでくる。
「ノイ様もひどいお人よねぇ。シーナ嬢のことを弄んだりして」
「きっと、期待しちゃってるわよぉ。おかわいそうだわ」
彼はそんな人じゃないとわかっているし、彼女たちの言葉に気持ちを動かしたくなんてないのに。“期待”という言葉に、ギクリと、胸が詰まる。
期待なんてしない、そう決めていたのに。…私はいつからか、ノイ様と会えるのを期待してしまっていたかもしれない。
気づいてしまった私が顔を曇らせたのを、ご令嬢方は見逃さない。
「欲深いご両親にそっくりね。裕福な伯爵家のお金に期待するなんて、はしたない」
「装いだけでなく、中身もお下品なのねぇ」
「それなのにあんな安物しか贈られないなんて。からかわれてるって、気づかないのかしら」
――私が、ノイ様のお金目的で期待してる?
続けられた彼女たちの言葉に、違和感を覚える。
確かに私は、他人に期待しないと決めていたくせに、いつのまにかノイ様と会えることを期待してしまっていた。だけどそれは、彼が裕福だからじゃない。
ただ、私が彼といると楽しかったから。嬉しかったから。
彼のことを金目のものでしか評価していないのは、彼女たちのほうじゃないか?
私の気持ちも、ノイ様が私に栞を贈ってくれた想いまでも否定されたような気がした私は。
「聞き捨てなりませんね」
気づけば、ご令嬢たちの会話に口をはさんでしまっていた。
「な、何よ急に」
「私がノイ様の資産に期待しているなんて、聞き捨てならないと言ったのです」
「嫌だわ。何も間違ってないでしょう?」
クスクスとバカにするように笑う令嬢たち。
「…そう思うのは、あなたがそう思っているからでしょう」
「は?」
「あなたがノイ様の資産に期待しているから、私もそうなんだと思っているだけですよね」
「な…っなんて失礼な」
「違うのですか?」
急な指摘に戸惑った様子の彼女は、うぐぐ…っとわかりやすく口ごもる。赤い顔で必死で言葉を探しているところを見ると、ある意味素直な人なのかもしれない。
「…わ、わたしはただ…! 幸せになりたいだけよ!
そのためには嫁ぎ先の家柄は大事でしょう!?」
「そ、そうよそうよ! 幸せになりたいのは当たり前だもの」
うんうん、と周りで一緒に噂話を楽しんでいた令嬢たちも肯定し合う。自信を取り戻したらしい彼女は、キッと私を睨んで言い返す。
「だけど、釣り合わない相手を高望みするのははしたないと言っているの! あなたなんかがノイ様に幸せにしてもらえるなんて……」
「私は別に、ノイ様に幸せにしてもらいたいとは思っていません」
「じゃあシーナ嬢の目的はなんだって言うの? 彼の美貌かしら?」
ハンッと見下すように言う彼女はきっと、私をよほど馬鹿にしているのだろう。
「目的なんて、ありませんけど……」
言いながら、改めて考える。私はなぜ、彼に会いたいのだろう。そばにいたいのだろう。
私と一緒にいるときに笑顔を見せてくれる彼のことを思い返す。
そうだ、私は……。
「しいて言うなら。私が彼を幸せにしたいのかもしれません」
「はぁ?」
ぽかんとする令嬢たち。気にせずに続ける私。
「そもそも私は、他人に自分を幸せにしてもらいたいとは思っていません。でも……彼が幸せそうだと、私も幸せになれるんです。だから、そばにいて幸せにしたい。
…ってことは結局、自分のためになる……?」
「な、何を言って……」
ブツブツと自問自答をする私を、令嬢たちは気味悪そうに見ている。
ノイ様に幸せにしてもらいたいのではなく、私がノイ様を幸せにしたい。ノイ様を幸せにすることが私の幸せになるのだから、自分のために生きるっていう今世の目標はそのままだわ。
私がそばにいないほうが幸せだったとしたら、つらいけど…。これだけは言える。
「できるかどうかは置いておいて。とにかく、私はノイ様を幸せにしたいだけです」
「そんなこと、初めて言われたなぁ」
突然、横入りしてきた男性の声に驚く私たち。
「ノ、ノイ様…!?」
その声の主は、話題の中心だったノイ様だ。
「詳しく聞かせてよ、シーナ」
「え、えと…これはその……」
真っ赤な顔でしどろもどろの私の手を取り、彼は無邪気に笑う。
「ほら、行こう」
「ま…待ってください! ノイ様、私は……!」
ノイ様の急な登場に固まっていた令嬢は、去っていく彼にハッとし、引き留めようとする。彼女のほうを振り返るノイ様の表情はどこか冷静で。
「君の期待に応えられる人は、他にいるよ。…俺じゃない」
優しくも突き放すようなノイ様の言葉に、彼女はただ、立ちすくんでいた。
誰もいない、静かなバルコニーの風が今日も心地いい。
ノイ様に手を引かれて、あの日熱で倒れた彼を助けた場所に来ていた。告白まがいなことを聞かれてしまった私は、何も言えず無言のまま俯く。
「聞こえてきたからって、勝手に聞いてごめんね」
「え……」
口を開く彼の言葉に、私はようやく顔を上げる。
「盗み聞きなんてよくないと思ったんだけど、シーナ嬢がいたから気になって。つい、何の話してるのかなって…」
「いえ…、そもそもあんな場所でする話ではありませんでしたから」
首を振る私を見て、ノイ様はほっとしたように微笑み、「代わりに」と話し出す。
「いや、今回は代わりにとは言えないな。俺が、シーナに伝えたいことがあるんだ。
…聞いてくれる?」
まっすぐ私を見る彼の目。恥ずかしいのに、逸らすことがもったいなくて。瞬きも忘れて、返事をする。
「…はい」
「前に話した通り、俺はずっと病気がちでさ。今はだいぶ良くなって、たまに体調を崩すくらいだけど。
昔から、俺の体調を気遣ってくれる人はたくさんいたんだ。みんな優しくて、俺は嬉しかった。でも……」
視線を落とすノイ様の表情はどこか、寂しそうに見える。
「ある日、俺によくしてくれた大人が、父に頼み事をしているのを見てしまったんだ。直接的ではなかったけど、“息子を助けたんだから、お礼をくれ”と言っているのも同然だった。
俺が大きくなってからは、みんな俺に言ってくるようになってきて。親切にされるたびに、何かを求められる。それが当たり前になっていったんだ」
「そんな……」
与えられた優しさが見返りを求めるためだった。それに気づいたとき、どんな気持ちだっただろう。
「もちろん何かしてもらったらお返しはしたいと、俺だって思ってる。でも、俺を気遣う言葉や笑顔の裏では、俺のことなんてひとつも気にしていないんだと思うと、悲しくてさ。
それからなんとなく、人に何かをしてもらうのが苦手になったんだ」
裕福で、人当たりが良くて、体が弱い…そんな彼の特徴は、目を付けられやすかったのだろう。そして、優しい人だからこそ、悩んだのだろう。
誰からも何も与えられなかった私とは少し違うから、想像しかできないけど。彼の体験を想像すると、胸が痛む。
「だからさ、あの日シーナが助けてくれて。お礼なんて期待してないって言われて。“そんなわけない、嘘だ”って疑った。でも、シーナはずっと、俺に何も求めなかった。
熱に浮かされてたからって、ひどい態度をとってしまったけど、そのことも誰にも言ってなかったよね。
こんな人いるんだって、興味が出てきて、家に招待して…それからも君は変わらなくて。いろんな話をするたびに、もっと知りたいって思うようになった。
打算なしで接してくれるから、俺も自然に、素直に過ごせる。シーナといると、楽しくて……」
そんな風に思ってくれてたなんて。どうして私を招待してくれるのか、不思議だったけど。私にとって楽しかったあの時間が、ノイ様にとってもそうだったことが、とても嬉しい。
「…だからかな。誰かから何かを求められることが嫌だったのに。いつの間にか、期待しないって言う君に、俺は……期待してほしくなってたんだ」
ノイ様が優しく、私の手を取る。その手は、熱いくらいの温度を持っている。
「俺は、シーナのことが好きなんだ。だから俺も、シーナを幸せにしたい」
「ノイ様……」
「…俺にだけは、期待してくれませんか?」
彼の手に、力がこもる。彼の熱い視線以上に、私の顔も熱くなっている。
ノイ様が、私のことを想ってくれている。その事実に胸に何かがこみあげてくるようで、呼吸まで苦しくなってくる。
「え、どうしたの。…嫌だった?」
慌てたノイ様の声が聞こえ、頬を優しく拭われる。…気づかないうちに、涙がボロボロと流れていたようだ。
「いえ、違うんです。嬉しくて……」
「私も、ノイ様をお慕いしています」
「……! じゃあ…」
止まらない涙をそのままに、ホッとしたようなノイ様の言葉を遮る。
「でも。期待はしたくありません。今世の私のポリシーなので」
「へ…? 今世?」
きょとんと目を丸くするノイ様の手をぎゅっと握り返す。
期待することは、相手に負担を与えることにもなるから、いつかは重荷になるかもしれない。ノイ様の話を聞いて、より強く思った。
それに、やっぱり勝手に期待をして相手にすがるようになるのは、もう嫌だ。
「だから、ただお互いに思いやって、お互いに相手の幸せを考えて、一緒に過ごすのはどうですか?
それで幸せになれなかったら…自己責任です」
「…なる、ほど……?」
早口で伝える私の言葉を理解しようとしてくれているようだ。間の抜けた表情でしばらく固まるノイ様は、ようやく、深くうなずく。
「やっぱりシーナは面白いや。うん。俺もそのほうがいい」
…よかった。彼の優しさを踏みにじっていないかと少し不安だったから、心から安堵する。いつの間にか涙も止まっていた。
握りあった手は彼の胸元に引き寄せられ、彼の鼓動が私に伝わってくる。そのまま、彼の腕は私の肩を優しく包み込む。
「シーナが不安にならないように、俺は俺にできることを頑張るよ」
「…私も、おそばにいられるように、頑張ります」
長い睫毛までハッキリ見える距離に、ノイ様の顔がある。少しずつ近づく美しい彼の瞳を、ずっと見ていたいけど。…そっと目を閉じる。
次に目を開けたときには、少し頬を紅潮させて微笑む彼の優しい表情が見えた。唇には、優しくて暖かい感触が残っている。
早いリズムを刻む心臓の音は、どちらのものかもわからなくなっていた。
熱くなった頬を、気づけばまた涙が伝う。止まったはずだったのに、こぼれてくる。
「…ごめんなさい。こんな気持ち、初めてで……幸せってこういう気持ちなんですね」
私は戸惑いながら、おそらく前世から考えても初めての幸福感に浸る。そっと頬を撫でるノイ様の手が、温かい。
「…シーナは俺を幸せにする天才だ」
そう言って彼は、もう一度、目を閉じる私を優しく包み込んだ。
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