【第1章】3.旅立ち
ヴェルシオン王国の城下町はラオニスと言う。ここは王国の中央部に位置し、他国との玄関口として栄えている。
そして北東から南西にかけて大河が貫かれており、陸と水両方の交通が交わる場所として、貿易・商業の都とされている。大きな商業ギルドや大交易庁の他、さまざまな店が入っており、国内外関わらず多くの人で街は賑わっている。
ノエルは城を出てから、まずはこのラオニスに来ていた。目的は物資の調達。王国からは任務用の費用がそれなりに出ているが長旅になるので先に食料などを確保しておこうと考えての行動だ。
「それにしても賑やかだなぁ」
ノエルは人で溢れかえる街を見渡す。街のあちこちでガーランドが飾られ、いつもよりも彩り豊かだ。
「あ、そうか。今は春の祝祭の期間だ」
春の祝祭は、およそ150年ほど前から始まった美しい春の芽吹きをお祝いするための、ヴェルシオン王国のイベントだ。比較的大きなイベントで、この時期はいつもより各店舗も色彩豊かに商品を用意する。食材だけでなく、衣服、アクセサリー、食器類など、どこを見ても美しい春の色で整えられている様子は、まるで春の花々が一面に咲き誇るような豪華さがある。
通りにも大道芸人や魔法使いによるショーが行われていたり、音楽隊による軽快な音楽が街の雰囲気をより明るいものにしている。ノエルは、そんな街の中を行き交う人々の流れに乗って歩き出した。
「さて、とりあえずは食料かな」
ノエルは通りにある食料関係を扱っている露店の前へ向かった。
「いらっしゃい!」
威勢のいい男性の声で迎えられる。
「こんにちは。しばらく旅に出るから、食べ物と飲み物を売ってほしいんだ」
「おう!任せときな。俺の店にゃなんでも揃ってるからね!……おや、お前さん王国騎士団の人かい?」
「え?……あっ!」
ノエルは自分の服装を思い出した。カイとロシェと別れたあと、着替えることも忘れて騎士団の格好のまま来てしまったのだ。騎士としての正装であるが旅をする放浪者としての格好では全くないことは明らかだ。
「こりゃまずいな。あとで服も買わないと……」
「やめてください!!」
突然、雑踏の中を一際大きな声で叫ぶ声が聞こえた。ザワザワとその場の雰囲気が変わる。声のした方を見ると、声の主と思われる人の周りだけ人が避けているように円ができている。
「てめぇ、こんなことしといて許されると思うなよ!!」
続いて男の荒っぽい怒声も聞こえる。露店主はノエルに向いた。
「あんた、王国騎士なんだろ?あいつら止めてくれよ」
「え、ああ。そうだな」
王国騎士の役目は国外の敵から国を守るだけではなく街の安全を守る仕事もある。正確にはここは『蒼盾団』の管轄なので『紅牙団』のノエルが出る幕ではないが、もっと言えばノエルは騎士団員ではなくなったのでそのようなことすら気にする必要もないだろう。
ノエルは紅牙団の騎士服は着ているが、構わず人の輪を割って入って行った。
そこにはゆるやかなウェーブのかかった長い髪を持つ少女と彼女の腕を乱暴に握る商人の服を着た男がいた。
「失礼、そちらのお二人」
ノエルは怖気付くこともなく二人に話しかけた。
「あ?なんだよ、お前」
そう聞くが男はノエルの格好を見てニヤリと笑った。
「はっ!騎士団様か、ちょうど良かった。こいつ俺の店の薬を盗んだんだよ!」
「い、痛い!」
男は握っていた彼女の腕を強く引っ張りあげる。見ると彼女の手には小さな薬の袋が握られている。
「窃盗か。でも、女性の腕をいつまでも握っているのは良くないな」
ノエルはそう言うと男の手から彼女の腕を強引に放した。
刹那、少女はノエルの手を振り解くと人混みの中に駆け出した。
「あ!」
「あ、おい!こら!てめぇ!!」
男が手を伸ばしたがその手は空を掴む。男は顔を真っ赤にしながらノエルの胸ぐらを掴み詰め寄る。
「てめぇ、どうしてくれんだよ!?あれは貴重な材料で出来た高ぇ代物なんだぞ!」
しかし、ノエルはこの人混みならそう遠くへは逃げられないと考えると、男の手を離し「すみません!」と謝りながら駆け出した。
「ちょ、おい!……ったくよぉ、どうしてくれんだ」
男がため息をついたとき、彼女の腕を握っていた手に何かがついていることに気がついた。見るとそれは泥のような黒い半液体状のものだった。
「なんだぁ?……うわぁ!?クッセェ!!」
少女はノエルの予想に反して思ったよりも逃げ足が早く、小柄な身体を生かして人の間を華麗に縫っていく。
「は、早い……」
ノエルも追いつこうとするが、その差はどんどん広がっていく。
「このままだと逃げられる。……そうだ!」
突然、ノエルは軌道を変え路地裏に入った。そして大通りから離れた裏通りに出る。
「思った通り、ここは人が少ない」
ノエルはこの国で生まれこの国で育った。特に騎士団養成所のある城下町は幼い頃から何度も来ていたので、このあたりの地形はよく把握しているのだ。
そして裏通りの角を曲がり、家々の間を抜け、また大通りへと入ったその時。
「はい、捕まえた」
「わぁ!」
ノエルは両手を広げて少女の前に出た。彼女は驚いて尻もちをつく。ノエルは手を差し出して優しく言った。
「盗みはダメだよ」
少女は薬を持っていない方の左手を伸ばそうとしたが、一瞬ためらったのち、薬の袋をノエルに渡した。
「ごめんなさい……」
小さく呟くと彼女は自力で立ち上がり、スカートの汚れを払った。
よく見ると彼女はノエルより少し下の少女のようだ。
「君、名前は?どうしてこんなことを?」
ノエルは問う。
「名前……。ユキ、です。これは……頼まれたんです」
「頼まれた?」
「はい。あの、あなたは騎士様なんですか?」
「え?」
「さっきの人がそう言っていたので」
「あぁ、いや。前はそうだった。でももう今は違う。ただのなんでもない一般人。名前はノエルって言うんだ」
「ノエル……さん……」
「それで、ユキは誰に何を頼まれたの?」
そう聞くとユキは目を逸らし俯いてしまう。なかなか話そうとしない彼女にノエルは質問をした。
「君、家は?この辺り?」
するとユキは顔を上げた。
「いえ、わたしはトルンという村から来ました」
「トルン。北の山間地にある小さな村……そんなに遠いところから来たのか」
「はい」
「誰かと一緒に?」
「いえ、一人です」
「もしかして、この薬が必要で?」
その問いにユキは何かを考える素振りをしたあと、小さく頷いた。
「そうか。わかった。それじゃあこの薬は俺が買ってあげるよ」
「えっ、そんな……」
「何かいけないかな?」
「いえ……。とてもありがたいです。でも……」
「それなら俺と約束してくれる」
「約束?」
「そう。もう二度と盗みはしちゃいけないって」
ユキはその言葉に唇をほんの少し震わせたように見えた。しかし、ぐっと口を結んだあとそっと笑みを見せた。
「もちろんです。ありがとうございます、ノエルさん」
ノエルは彼女の表情の変わり方に多少の疑問を持ったが、すぐに笑った。
「うん」
「今回は見逃してやる。ただし、次はねぇからな!」
先ほどの男にはユキと共にノエルも頭を下げ、お代を払うことで許してもらった。
「ありがとうございます、ノエルさん」
「いや、いいんだよ。ユキはこの薬を買う他に、何かここでの目的はあるの?」
「いいえ、薬をいただけたので村に帰ろうと思ってます」
「一人で?」
「はい。今から帰れば2日後ぐらいには村に着くと思うので」
「え?まさか歩き?」
驚いて聞くとユキは当然かと言うように頷いた。
「そうですよ」
それを聞いてさすがにノエルは首を横に振る。
「いやいや、それは危ないよ。夜はどうするの?どこかで宿をとるの?」
「いえ、ずっと夜も歩きますけど……」
自分がおかしなことを言っているのかと言うように首を傾げるユキにノエルは驚きを隠せずに言う。
「トルンの村の人ってこんなにタフなんだろうか……。でも、さすがに女の子を一人で歩かせるのは見過ごせない。それに街を出れば魔物がどこから襲ってきてもおかしくない世界なんだ。わかるね?」
「ですが、来た時も何もありませんでしたし」
ノエルの顔からサーっと血の気が引く。まさか行きも歩いて来たのか。あまりの危機感の無さすぎる彼女に思わずノエルは言った。
「俺が村まで送ろう」
「えっ」
「それから、トルンまでは馬車が出ているから馬車で行こう。それなら護衛用の馬車もついてくるし夜も安心できる。それに夕方の馬車に乗れば明日にはトルンに着くよ」
「夕方?でも今はお昼ですけど」
ユキが問うとノエルは苦笑いをした。
「俺、旅支度がまだ済んでいないんだ。だからこの街でいろいろと準備する必要があるんだよ」
そう言うとユキはパッと顔を輝かせた。
「そうしたら、まだこの街にいれるってことですか?」
「ああ。そうだね。……何か見たい場所でもあるの?」
「いや、えっと……。ううん……。はい!あります!わたし、ラオニスの春の祝祭に来るの初めてだったんです!」
ノエルはそれを聞いて笑顔を見せた。
「それなら俺の買い物ついでにこの街を案内しよう」
「わぁ……!ありがとうございます!」
ノエルはユキを連れて街の散策を始めた。まず最初にノエルは食料を買い、そして服装を旅人用に着替える。軽い素材でできた上衣にゆったりとした灰褐色のパンツ、そして雨風を凌ぐための外套、歩きやすさを重視したブーツ、これらのセットを旅人用のトレイルウェアとして時々服屋で販売されている。
「なんだかすっかり別人ですね」
ユキがノエルの格好を見て笑った。
「まぁ、旅をするならこのくらいがいいよね」
「そうですね」
「さて!じゃあ、俺の用は済んだから、あとはユキの行きたいところに行こうか」
「はい!どこに行こうかな……。ん?なんだかとてもいい匂いが……」
匂いの方を辿ると、そこには厚手の肉と数種の野菜、チーズを薄手のパン生地で巻いたクレープが売られている。
「わぁ……美味しそうですね〜」
「あれはラオニスの名物の一つだからね。ちょっと待ってて」
するとノエルは屋台の前まで行き店主と少し会話を交わしたあと、手にクレープを二つ持って戻ってきた。
「さ、どうぞ」
当然のように差し出されたそれをユキは驚いて見た。
「えっ、あの、わたしお金持ってなくて……」
「もちろん、知ってるよ。これは俺の奢りだから。俺もお腹空いててさ、一緒に食べた方がきっともっと美味しいよ」
さぁ、とノエルの催促でユキはおずおずとクレープを受け取る。そしてそれを一口食べしばらく咀嚼したあと、
「お、お、美味しい……!美味しいです!ノエルさん!美味しすぎます!」
「よかった」
ノエルは、ユキの嬉しそうな様子を見てから自分も大きな口を開けてかぶりついた。肉の香ばしい香りとジューシーな肉汁がさまざまな野菜とチーズに絡み合う。そしてそれを受け止めるもちもちとしたパン生地。
「うん!やっぱりクレープはラオニスが一番美味しい」
「ありがとうございます!ノエルさん!」
ユキも口元にソースをつけながら満面の笑みを浮かべた。
その後はストリートショーの鑑賞や音楽隊の演奏を聴いたり大広場でのダンスに参加したりと、春のイベントを満喫する二人だった。
そしてあっという間に時間は過ぎ、あたりは赤焼けに染まり始める。
「さて、そろそろ馬車の方へ行こうか」
「はい。今日はありがとうございました。いろいろと……」
「気にしないで。俺も、楽しめたから。……もしかしたらもう見れないかもしれないし」
そう呟いたノエルの表情がどこか寂しそうであることにユキは気づいた。
「あの、ノエルさん」
「ん?」
「ノエルさんはどうして旅をされることになったんですか?」
「あぁ。詳しくは言えないんだけど、ちょっと任務で――」
ふと、ノエルは足を止める。
「ノエルさん?」
ノエルはトルン行きの荷馬車の前に立つ一人の人物に気がついた。
その人物はノエルより少し背が低く見えるが、使い古された黒いローブを纏い、フードを深く被っているため顔は見えない。しかし、その人物がこちらを見ていることはノエルは気づいていた。
なんだ……?
ノエルが訝しんでいると、御者席から一人の老男性が降りてきた。
「あんたらもこの馬車に乗るんかい?」
そう声をかけれ、ノエルは咄嗟に笑顔を取り繕う。
「あ、ああ。トルンまで、二人」
そして二人分の運賃を手渡す。
「そうか、あんたらもか。終着地まで行くことなんか、なかなかないけどね、今日は珍しいね」
「俺たちも?」
「ああ。あそこにいるにーちゃんだかねーちゃんだかもトルンまでだとよ」
そう親指で指し示したのは先ほどのローブの人物だった。
「ま、他に客はいねーからよ。ゆっくり乗っててくれや」
御者の男性は白い歯を見せて笑った。
基本的に地方行きの馬車は終着地が決まっている。何台も荷馬車はあり、それぞれがそれぞれのルートを通って客人を目的地まで運んでくれる。馬車は早朝、午前、昼、午後、夕の五回出ている。乗客の目的地によっては近場で済む場合もあれば今回のように終着地まで行く場合もある。
他にも南、東、西のルートもあり、それぞれにギルドから雇われた乗客の護衛人たちが乗る『護衛馬車』が一台つく。
「それじゃあそろそろ出発するぞー!」
御者席から声がし、ノエルとユキはローブの人物が乗る馬車に乗った。
馬車は荷馬車のような形で中には木箱が2箱程度と色褪せた毛布が何枚か巻かれた状態で置かれている。両サイドは乗客が座れるように段差になっているだけの簡素な作りだ。
ノエルとユキはローブの人物が座る場所と反対の場所に腰を下ろす。馬車はすぐに動き出し、その後をもう一台の護衛馬車が付いてくる。ユキはワクワクした様子で流れる景色を眺めていた。
「すごいですね、ノエルさん!わたし、馬車に乗るの初めてです!」
「そうなのか。ユキは村からあまり出たことがないのかな?」
「あ、はい……。そうですね、村を出るのはなかなかないです」
「そっか。なら、やっぱり馬車を選んで正解だったな」
「はい!ありがとうございます!」
ユキはとても嬉しそうに笑い、つられてノエルも笑みを浮かべた。――そんな二人を、ローブの人物はじっと見つめていた。
出発から程なくして完全に日が落ち、あたりは夜の闇に包まれ始めた。そして、夜を迎えてから少しして、馬車はゆっくりと停止する。
「今日はここまでだ」
御者の男性はそう言い、荷台に乗る木箱から簡単な食料を出し始めた。ユキは暗くなったあたりを見渡す。
「こんなところで野宿ですか?あまりにも隠れるような場所が少ないと言うか」
馬車が停まったのは森に入る手前の小屋の前。ここは森を背にすれば見晴らしのいい平野となる場所だ。小屋に接するように簡素な馬小屋もあり、またすぐそばには焚き火をした跡がある。
ノエルはユキと馬車を降り、説明した。
「ここは旅人用の休憩所なんだよ。個人だけでなくて、こう言った運び屋たちも泊まる地点になる。魔物が襲ってきても平野だからすぐに気づけるし、万が一、それが遅れても森に逃げて隠れることができる。もちろん、それが絶対に安全というわけではないけどね。まぁ、旅には危険がつきものだからさ」
「そうなんですね」
ユキは納得したように頷いた。
そして二人は小屋のそばの焚き火を囲んで、護衛たちや御者たちと簡単な食事を済ませた。その後、ノエルは皆と談笑をする。その間ローブの人物は話しかけられても一言も喋らなかった。
「それにしても、今日はずいぶん穏やかな夜だな」
護衛のうちの一人、鎧を纏った剣士があたりを見てそう言った。
「いつもなら夜になれば魔物の一体や二体、襲ってきてもおかしくないのに。なぁ、索敵の方はどうだ?」
剣士は同じく護衛の一人、索敵術に長けた魔法使いの男に声をかけた。魔法使いは一人立ったまま、不思議そうに言う。
「ああ。なぜだか、魔物の気配がまったくしないんだ。探せる範囲より外にはいるだろうけど、少なくとも俺たちが気にするような距離にはいない」
すると弓使いの護衛の女が言った。
「魔物なんて何考えてるかわかんないし、このあたりは狩りつくされたんじゃないのー?それに魔物がいないに越したことないでしょ。あんたたちお客さんも、心配せずに眠れるわね」
そう言われ、ノエルは「それはそうですね」と当たり障りのない返事をした。ふと、そのノエルの身体に誰かが寄りかかる。
「ん?ユキ?」
見ると、ユキはノエルに身体を預けて寝息を立てていた。ノエルたちはそれを見ると、お互いに目を合わせ、焚き火の火を消した。
「それじゃ、夜の見張りは俺たちに任せてくれ」
剣士が立ち上がって言った。ノエルはそっとユキを抱きかかえる。
「ああ。ありがとう。護衛の方も御者の方も、しっかり休んでくださいね」
御者は帽子を片手であげて応えた。護衛の者たちも「おやすみ」と返す。そしてノエルたちはそれぞれの馬車の中へ戻っていった。
「ん?どうした」
馬車に乗る直前、剣士は魔法使いの怪訝な顔に気がつき、声をかけた。魔法使いは難しい顔をして言う。
「いや……。ただ、やっぱりおかしいように感じるんだ」
「魔物がいないことがか?」
「ああ。なんて言うか、まるで――」
その瞬間、剣士は魔法使いの背中を強く叩いた。
「お前は心配性だなぁ!魔物がいようといまいと、俺たちの護衛任務は変わらないだろう?さ、変な心配せずにお前もさっさと寝ろ。次の交代までしっかり身体を休めないとな!」
「あ、ああ……」
剣士の明るさに押され、魔法使いは頷くしかなかった。
「まるで、何かを避けているかのよう……」
その呟きは誰にも聞かれずに夜の闇に消えていった。
翌日、何事もなく朝を迎えた彼らは簡単に身支度を済ませると再びトルンの村まで出発した。
道中に小さな町や村が点々としていたがそれも次第になくなり人気がなくなっていく。馬車の中でノエルは不思議そうに自分の服を見た。
「おかしいな。なんでこんなに泥の跡があるんだろう」
ノエルの服には泥が乾いた跡のような土がついており、彼はそれを手ではたき落としている。それをユキは見つめる。
「大丈夫ですか?今朝起きた時にも手や腕についていたんですよね」
「ああ。昨晩、寝ている間に誰か来たのかもしれないな。……まったく、騎士団員であるのに敵の気配にすら気付けないなんて」
はぁ、と肩を落とすノエルを見て、ユキは元気づけるように笑った。
「大丈夫ですよ!ここまで安全に来れてるんですし。気にすることないですよ」
ノエルはユキを見る。自分よりも歳下の人間に励まされているこの状況を不甲斐なく思い、彼は気持ちを切り替えるように笑顔を向けた。
「そうだな。ありがとう」
そして、ノエルは流れる景色を眺めながらユキに尋ねた。
「そういえば、トルンの村の人たちはどんな風に生活しているんだい?」
ユキは思い出すように少し考える。
「そうですね……。自分たちで畑や家畜を育てています。水も豊かで、トルンの村で採れる野菜はとても美味しいんですよ」
「確か、ラオニスの街でも売られているのを見たことあるよ。せっかくなら現地で食べてみたいなぁ」
「はい、ぜひ!うちも、野菜を育てて……あ、え?」
「ん?」
ふと、ユキの口が止まった。
「わたし、野菜を……昔……うちで……あ、あれ……」
「大丈夫か?ユキ?」
ユキの顔を見ると、酷い汗をかき瞳が揺らいでいる。ノエルは驚くとユキの肩を揺らした。
「ユキ!?大丈夫か、ユキ!」
ユキはハッと我に返るとノエルに目を合わせた。
「あ、は、はい。すみません、ちょっとおかしかったですよね」
あははは、と彼女は乾笑いをした。
「おーい。トルンの村が見えてきたぞー」
御者の声が聞こえると、ユキは嬉しそうに馬車の外を見た。ノエルもそれに続く。
「わぁ……」
思わずノエルは感嘆した。
周りを春の花衣を纏った山々で囲まれ、村を流れる小川は陽の光を浴びてガラスのように輝いている。トルンの村は標高が高い場所に位置しており、遠くにラオニスやヴェルシェイド城が見えている。まさに絶景と呼ぶにふさわしい世界がそこに広がっていた。
その光景に目を輝かせるノエルにユキは自慢げに言った
「すごいでしょ!」
ノエルはユキに負けないほどの笑顔を見せた。
「ああ!」