【第2章】12.ある者のために
「この絵だ」
リラは明かりの落とされた暗い図書室で、一枚の絵画を見つめて言った。
テーブルには分厚い本が山積みになり、そのうちの一冊が開いて置かれている。その本にはとある絵が描かれており、そしてそれは、今リラが見つめている先にある絵画と同じだった。
「学院創立時に描かれた絵画。この絵画には、この学院が建てられた『本来の目的』――聖なる力を守る役割が描かれている」
その本は、学院の創立時からの歴史が書かれたものだった。リラはノエルと別れたあと、ひとり、学院の地下にある資料保管庫へ行っていたのだった。
メルアが偽物であるならば、その正体として一番候補に上がったのはリアンセの読んでいた本『満月の歌』に登場するヒロイン、メルアだった。しかし、どうしてもリラにはそれが引っかかっていた。実体を持って長い期間、人間として生活するには相当な魔力が必要だ。それこそ、編入手続きができるとしたら、実力者揃いの教師たちを欺けるほどの力が必要になる。
それほどの力をただの本が持っているとは思えない。そこで、リラはひとつの可能性を考えた。もしも、学院そのものが持つ力を利用したのだとしたら。
それはおそらく学院創立時まで遡ることになるだろう。創立された時に、同じぐらいの魔力を与えられていたとしたら。
そうしてたどり着いた一冊の資料に、それは描かれていた。
満月が輝く夜の湖……ではなくて、大きな池、煌見池の風景画。そして、そのタイトルは――。
「目覚めの唄……」
ノエルが図書室で見つけた歌のタイトルと、図書室に飾られた絵画と、資料の絵画の名前が一致していたのだ。
ただ一点、本に描かれている絵と目の前にある風景画で違う部分があった。その疑問を解決するため、リラは右手を宙に向かって伸ばし、空から現れた杖を握った。
彼女は振り返ると本が積み上げられたテーブル――リアンセとメルアがよく座っていたあのテーブルに向いた。
「わたしの考えが正しければ、きっとここに答えがある」
リラは杖を両手で握ると、トン、と床をつく。不意に魔法陣が足元に現れ、彼女はそっと唱えた。
「残響聴取」
静かだった図書室がだんだんと騒がしくなってける。リラは椅子に座り目を閉じて耳を澄ます。
「………………」
全神経を耳へ集中させる。きっとここ残っているはずだ。『彼らの想い』が。
「ハ……テ……」
「!」
聞こえてきた。リラは息を止める勢いでその声に集中する。
「ハジ……テ……」
もう少し……。
「ハジ……メ……テ……」
その瞬間、はっきりと声が聞こえてきた。
「はじめまして!」
「うわぁ!?び、びっくりした……」
「あっ、ご、ごめんね。急に声をかけちゃって」
「あ、いや、いいけど……。っていうか、君、誰?」
「わたし?えーと、うーんと……。あっ、ねぇ、その本!」
「え?これ?」
「うん。君、いつもその本読んでるよね。面白いの?」
「え……なんで知ってるの……?」
「あっ、ほ、ほら!わたしも本が好きで、よくここに来てるから」
「ふぅん。そうなんだ」
「う、疑うような目を向けないで……。その本、見せて?」
「いいけど……」
「ありがとう!……ふむふむ……メルア、か……」
「ねぇ、もういい?」
「あっ、うん。あの、わたしの名前ね」
「え?」
「わたし、このヒロインと同じメルアって言うの」
「えっ、そうなの?そっか、そうなんだ」
「……君、このメルアって子好きなんでしょ」
「な!?そんな、そんなわけないだろう!?」
「ふふっ。赤くなってる。ねぇ、君の名前も教えて?」
「リアンセだけど……」
「リアンセ!いい名前だね。良かったらその本の話、聞かせてほしいな。わたし、とっても興味あるんだ」
「初対面なのに、やたら積極的だな……。まぁ、別にいいけど。僕も誰かに本の話したかったからさ」
「わぁ!ありがとう、リアンセ!」
「――っ!」
リラはハッと目を開いた。会話はそこで終わり、魔法の効果が切れ、再び静寂が訪れた。リラは開かれた本のページを見つめる。
「違和感の正体はこの絵だ」
本に描かれた絵と、図書室の絵画の違う点。それは、そこに人物が描かれているかと言うことだった。図書室の風景画は、それは一つの作品として違和感なく見ることができるが、もしも本に描かれている方が本当の風景画――目覚めの唄というタイトルの作品なら答えは自ずと見えてくる。
「メルアが違和感の正体で間違いない。彼女はもともとこの絵の人物だったんだ」
その本には、池の方を向いて歌う仕草をしている女性の後ろ姿が描かれていた。リラは立ち上がり、人物のいなくなった絵画に触れた。微弱だが、指先から魔力の痕跡を感じる。
「これで違和感の謎はわかった。けど、この学院の本来の目的が聖なる力を守る役割ってどういうこと?」
それはどの資料を探しても見つからなかった。リラがもう一度、資料を見返そうとした瞬間。
「!」
全身が負の魔力の存在を感じ取った。
振り返ると、そこにポルセアが立っていた。リラは、いつの間にかそこにいる彼に驚きつつも、負の魔力は彼からではないと判断し、敵が入り込んだと気づいた。
「ここは結界で守られているんじゃなかったの?」
険しい口調で問うリラに、ポルセアは頭を下げる。
「申し訳ありません。古い術式でしたが、大抵の魔物魔族は破れない結界でした。しかし、強大な力を持った何者かが結界を破ったようです。これは僕らの予想外の事態です」
「生徒たちは?」
「緊急連絡で寮から出ないよう指示しています。また、教師陣は直ちに武装して現場へ急行させました。学院の南東にある森の奥の煌見池です」
「そう。彼らも全員、学院に避難させて。わたしが行く」
足早に階段へ向かうリラにポルセアは頭を下げながら言った。
「もう一つ。カスティルが、少し前に夜の池へノエル様と他ニ名の生徒が向かったと言っておりました」
「……わかった」
リラは背を向けたまま応えた。
「うぐっ……!」
ノエルは、致命傷どころか、傷ひとつ相手につけることができずに、一方的に押されるばかりだった。
「威勢の割には手ごたえのないやつだな」
「クソッ……」
魔族の男はノエルの体力を徐々に削ぐように連続の攻撃を繰り出す。ノエルはそれを受け止めるだけで精一杯であり、たった数分ですでに身体中は傷だらけだった。
「うわっ……!」
その中の一手がノエルを強く後ろへ飛ばす。地面へ倒れるノエルに男は近づき、闇の棘を振り上げた。
「!!」
ここまでか――!ノエルは覚悟し、目を瞑った。
「盾よ」
刹那、二人の間に魔法の防御膜が現れ、攻撃を防いだ。
魔族の男はそれを見て、顔を上げる。
「矛よ」
間髪入れずに攻撃魔法が放たれる。男はそれを避けると後ろへ大きく飛び退き、空へ浮かび上がった。ニヤリと、待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべる。
「来たか」
ノエルは魔法の飛んできた方を見上げた。
「リラ……!」
学院を背後に、男と対峙する形で宙に現れたリラは杖を握り、しっかりと男を見つめていた。
「ここにいるのはわかっていたぞ!」
男は、そう言いながら無数の黒い刃でリラに襲いかかる。リラは杖を一切動かさずに、それらすべてを攻撃魔法を駆使して一瞬で撃ち落とす。
「?!」
爆風があたりに広がり、ノエルは目を瞑る。砂埃がおさまり、次に目を開けた時、リラはノエルの前に立っていた。肩越しに振り返り、傷だらけのノエルを見て言った。
「遅れてごめん」
ノエルは、彼女の顔を見つめると、剣を地面に突き立て身体を起こす。
「リラ、ダメだ。あいつは強すぎる」
リラはその言葉を聞いて魔族の男に向く。男は左手に持つ天秤を見せた。ノエルはハッとする。あの術だ。
「まずい、リラ。あれは……!」
ノエルがリラを庇おうと足を踏み出した時、、リラはそれを遮って淡々と言った。
「あれは『ある者のための天秤』。相手の負の願いと食物を天秤にかけ、食物が重い場合には生を、負の願いが重い場合には死を相手に与えるもの。けれど、その天秤の真の力は、相手が死者の場合には生を、生者の場合には死を与えるだけの逆転天秤」
そして、リラは男を睨んだ。
「お前がナグルヴァスだな」
男は、名前を暴かれ、明らかに苛立った様子を見せた。
「チッ……あの役立たずめ。だが、正体がバレたところで大したことではない」
ナグルヴァスは天秤をリラに向けると、リラの目を真っ直ぐ見た。
「お前の望みはなんだ」
ナグルヴァスの目が赤黒く光る。そして彼はニヤリと笑みを浮かべた。
「これは好都合。お前も死にたいようだな」
「えっ……?」
その言葉を聞いてノエルはリラの背を見つめた。リラは動じることもなく、ナグルヴァスと対峙している。
「お前の望み、叶えてやろう」
ナグルヴァスの目が再び赤黒く光り出すと、リラの胸も共鳴するように赤黒い光を浮かべた。
「リラ!」
ノエルが叫ぶ。
その時、リラはほんの少しだけ、悲しい表情をしたが、それは誰にも気づかれることはなかった。
瞬間、リラの胸にあった赤黒い光はまるで力を失ったかのように弾けて消えた。それに反応してナグルヴァスの持つ天秤も何かに弾かれたように揺れる。それを見て彼は口元を上げた。
「不老不死は本当のようだな」
「疑ってたの?そっちがかけた呪いのくせに」
「フン。試しただけさ。貴様はこの世界に『存在してはいけない者』だからな」
存在してはいけない者。それはリラ本人もメルアに言っていた言葉だ。リラは動揺を一切見せず、杖をナグルヴァスへと向ける。
「この世界という括りなら、お前たちも同じだろう。似た者同士、気が済むまでやろうじゃないか」
「フッ、面白い……!!」
――その言葉を皮切りに二人の戦いの火蓋が切って落とされた。
二人は地上戦、空中戦問わず激しく攻撃をぶつけ合う。その度に空気は大きく揺れ、池の波が立つ。
「くっ……」
ノエルは砂埃が舞う中、なんとか立ち上がるとリアンセとメルアを探した。
「リアンセ!」
「ノエルさん!」
少し離れた場所からリアンセの声が聞こえる。どうやら魔物のいない木の陰に身を隠していたようだ。ノエルはその場に駆け寄る。
「二人とも大丈夫か?」
「僕は大丈夫です。でも、メルアが……」
ノエルは、意識を取り戻したメルアが、彼の腕に顔を埋めて震えていることに気がついた。
「メルア、大丈夫か?」
声をかける。しかし、メルアの反応はなかった。ノエルはリラたちを見ると、リアンセに言った。
「ここは危ない。魔物は俺が引きつけるから、ここから離れるんだ。それから……ここから離れられても、学院に戻る途中の森に魔物がいないとは言い切れない。だから、そこから先はリアンセが戦ってくれ」
「え!?どうして!?ノエルさんは……!」
「俺は、リラを置いて行くことはできない」
「そ、そんな!でも、だって、僕は剣なんて……!」
青ざめた顔をするリアンセの肩をノエルがしっかりとつかみ、リアンセと真っ直ぐ目を合わせた。
「大丈夫だ。リアンセなら大丈夫」
「ど、どうして、そんなこと……」
「守りたい人が、ここにいるだろう?」
「……!」
リアンセはハッとし、震えていた身体が落ち着くのを感じた。そして、メルアを受け止めている腕に力を入れる。
「わ……わかりました。僕も、剣士です……!」
ノエルはリアンセに強く頷くと、魔物たちに剣を向ける。今のところ、やつらが襲ってくる気配はない。おそらく、やつらはナグルヴァスの命令で動くのだろう。しかし、絶対に襲ってこない保証もない。
ノエルは、リラと魔族の戦いに巻き込まれないように、周囲に最新の注意を払いながらリアンセたちと足早に歩き出した。
「矛よ」
リラは相手に隙を与える暇もなく攻撃魔法を繰り出す。ナグルヴァスもそれらをすべて見切って捌くと、同じように連続攻撃を放つ。二人とも、一歩も引けを取らない。しかし、これでは埒外が明かないことも物語っていた。
何か、反撃の一手は……。
魔族との攻防において、リラはほとんど負けたことはない。トルンの村でウグリナと戦った時のようにほとんどの魔族は倒せていたのだ。けれど、今回はどうも様子が違うらしい。
まるで、自分と同じように『死なない存在』のように感じる。
「フッ……」
ナグルヴァスが小さく笑みを浮かべた。
「っ!」
考えに気を取られたほんの一瞬の隙を魔族は見逃さなかった。ナグルヴァスは強い一手を放つ。
「っ……!」
リラは間一髪のところで避けるが、攻撃は頬を掠め、バランスを崩したリラはそのまま池に落ちていく。その瞬間を見ていたノエルは驚いて声をあげた。
「リラ!」
しかし、リラは杖をしっかりと握ると、次の瞬間には冷静に池に向かって杖を構えていた。
「渡水命令」
その言葉に反応して水面に魔法陣が一瞬浮かび上がると、リラは体勢を整え水の上へ着地した。そして着地と同時に、波を立てるように杖を左から右へ強く払う。刹那、細く長い水草が水面を突き破って池の底から大量に現れ、それはナグルヴァス目掛けて勢いよく伸びた。
「チッ……!」
ナグルヴァスは水草から逃れるように空中を旋回する。リラは彼から視線を外さない。水草は一切迷うことなく、いくつもの手をナグルヴァスへ向けた。
「小賢しい!」
ナグルヴァスは黒い刃を無数に放ち、水草を切り落としていく。だが、リラもそれだけで終わらない。池の底にある、すべてと思われるほどの数の水草を操り、攻撃と防御を同時に行う。二人の攻防は止まらない。池は激しく揺れて、大きな波を起こす。水飛沫が雨のように降るその時、リラの目にあるものが飛び込んできた。
「あれは――」
水草に紛れて、一匹の生き物が混ざっていることに気がついた。
「花クラゲ……?」
それは、長く伸びた鮮やかな色の花の触手を持つ美しいクラゲだった。
リラは息を呑む。
「どうしてここに……?まさか……この池は――!」
その時、脳裏でパズルのピースがつながる感覚を覚えた。
目覚めの唄に込められた歌詞の意味、煌見池の場所を示していた魔法の絵画の意味、聖なる力を守るために創られた学院の意味。そして、それらすべてをつなぐ『鍵』は――。
リラはノエルを見る。
「頼むしかない……」
一か八か、リラは一筋の可能性を信じてノエルに向かって、水の上を駆け出した。
「ノエル!」
リラが叫ぶ。ノエルはリアンセたちと共に煌見池の入り口まで来ていた。ノエルは、突然呼ばれて驚いた様子でリラを見る。そんな彼女の意図を察したのはナグルヴァスだった。
「気づかれたか……!」
ナグルヴァスは全神経を集中させ、渾身の一撃を放つ。
「はあぁぁぁあ!!!」
ノエルはその瞬間を見て声を上げた。
「リラ!危ない!」
「――ッ!!」
凄まじいスピードで攻撃がリラに届こうとした瞬間、ガキン――!!と激しい音と閃光が巻き起こった。
「……!」
リラが顔を上げると、その先にいたのはノエルだった。彼は攻撃を受け止め、その剣からは激しく火花が散っている。
「ぐっ……ぐぅっ……!!」
「な、なぜだ!?なぜ我の一撃を受け止めてる……!?」
ナグルヴァスは明らかな動揺を見せる。リラも驚いてその光景を見ていた。
ノエルの脳裏に双子の言葉が過る。これは二人のかけた『おまじない』のおかげだ。
『自身の心が迷わないように』――。
そう。何も迷う必要なんてない。ノエルは歯を食いしばり、剣を握る手に力を込める。
「ぐぅぅうぁぁぁぁあ!!」
剣を思い切り横へ薙ぎ払う。ジャキン!!という強い音とともにナグルヴァスから放たれた攻撃は真っ二つに裂けるようにして消え去った。それと同時に閃光も消える。
ノエルは、驚いて何も言えずにいるナグルヴァスと、背にいる三人、そして、自分に言い聞かせるように大声で言った。あの時、リラが教えてくれた『言葉の力』を信じて。
「弱くたって、才能がなくたって、頼りなくたって、誰の役に立てなくたって、それでも、俺はこの手でみんなを守る!俺は俺の選んだ選択を否定しない!!」
「――ッ!!」
メルアはその言葉に反射的に顔を上げた。震えが止まる。その言葉はメルアの心の記憶を呼び覚ますかのように、耳の奥に響き渡り、まるで心の靄が晴れるような、はっきりとした感覚が蘇ってきた。メルアの瞳に光が宿る。
リラはノエルの大きな背中を見つめ、優しい笑みを浮かべた。
「なんだ貴様は、いきなりでしゃばってきやがって!!」
ナグルヴァスは怒声を上げ、癇癪を起こしたように乱雑な攻撃を放ってきた。
「盾よ」
すべての攻撃を一斉にリラの魔法が防ぐ。リラはノエルの隣に立つと、はっきりと言った。
「ノエル、力を貸して」
「っ!」
それは、いつか聞けたらと思っていた言葉。その言葉はノエルにとって、自身を受け入れてくれたと信じることができる魔法の呪文。
ノエルは喜んでいる表情を見せないようにしながら、しっかりと頷いて見せた。リラは小さく笑顔を向けて応えると、一変して真剣な眼差しでナグルヴァスを見据えた。
ナグルヴァスは両手で頭を掻きむしる。髪の毛からフケがこぼれ落ち、彼は垢が詰まった爪を噛んだ。
「どいつもこいつも……!」
そして、右手を横に大きく振って叫ぶ。
「お前ら!全員まとめて殺してしまえ!!」
「ググ……グ……」
突如、彼の声に反応して森に潜んでいた魔物たちが一斉に動き始めた。
「う、うわぁ!」
リアンセが悲鳴をあげる。ノエルもその事態に冷や汗を滲ませる。
「くそ、こんな大量の魔物が……!」
「大丈夫」
その時、リラは大きく深呼吸をひとつすると、杖を振り上げた。
タン――!と軽やかな音とともにリラの足元に今までよりも一際大きな魔法陣が現れる。
「言なき、眠れる生命よ。我が呼び声に目を覚ませ。その荘厳なる力にて、光を守れ」
そう呪文を唱え、リラは声を上げた。
「フォレルデ・デュアネスト!」
瞬間、周りの木々が激しく揺れだし、魔物たちは驚いて森の中を逃げ惑い始めた。木々や草花は、森にいる魔物たちに絡みついて動きを封じ、やがて森はまるで複雑に絡み合ったひとつの巣のような姿を形成した。
それはリラにしか使えない特殊な植物の魔法だった。壮大な魔法に驚きつつも、ノエルはこの機を逃さなかった。
「リアンセ!行け!」
ノエルが叫ぶと、リアンセは頷いてメルアの手を引き、駆け出す。ようやく二人は池から離れていった。
リラは片膝を地面につき、ノエルに告げる。
「ノエル、この煌見池はおそらく、聖なる力を宿した池だよ」
「聖なる力……?」
「そう。聖域にしか生息しない花クラゲがいたの。学院が建てられたのはこの聖域を侵されないようにするためだと思う。そして、浄化の力を持つこの池なら、あいつを倒せるかもしれない。ノエル、わたしはこの魔法を維持するためにここから動けない。魔法で援護するから、あいつを……ナグルヴァスを、あなたが倒して」
「俺が……」
ノエルを見つめるリラの目にためらいはなかった。自分を信じてくれている彼女を裏切りたくない。
「……わかった。やるよ」
実力が伴わなくたってやってやる。
ノエルは剣を構えるとナグルヴァスに向かって勢いよく走り出した。
リラは強く願うように小さく呟く。
「兄さん、姉さん、力を貸して……!」
リラは片方の手で杖を握り魔法を維持したまま、もう片方の手をノエルへ向けた。
「天空へ」
瞬間、魔法陣がリラの手のひらとノエルの足元に現れたかと思うと、風が足元から渦巻いてノエルの身体をふわりと天高く舞い上がらせた。
「わぁ!?」
風はナグルヴァスのいるところよりも高くノエルを押し上げる。ノエルは一瞬、驚きはしたが、すぐに体勢を立て直すと、風が止むと同時にナグルヴァスへ剣を振り下ろした。
「はぁぁぁぁあ!!!」「この絵だ」
リラは明かりの落とされた暗い図書室で、一枚の絵画を見つめて言った。
テーブルには分厚い本が山積みになり、そのうちの一冊が開いて置かれている。その本にはとある絵が描かれており、そしてそれは、今リラが見つめている先にある絵画と同じだった。
「学院創立時に描かれた絵画。この絵画には、この学院が建てられた『本来の目的』――聖なる力を守る役割が描かれている」
その本は、学院の創立時からの歴史が書かれたものだった。リラはノエルと別れたあと、ひとり、学院の地下にある資料保管庫へ行っていたのだった。
メルアが偽物であるならば、その正体として一番候補に上がったのはリアンセの読んでいた本『満月の歌』に登場するヒロイン、メルアだった。しかし、どうしてもリラにはそれが引っかかっていた。実体を持って長い期間、人間として生活するには相当な魔力が必要だ。それこそ、編入手続きができるとしたら、実力者揃いの教師たちを欺けるほどの力が必要になる。
それほどの力をただの本が持っているとは思えない。そこで、リラはひとつの可能性を考えた。もしも、学院そのものが持つ力を利用したのだとしたら。
それはおそらく学院創立時まで遡ることになるだろう。創立された時に、同じぐらいの魔力を与えられていたとしたら。
そうしてたどり着いた一冊の資料に、それは描かれていた。
満月が輝く夜の湖……ではなくて、大きな池、煌見池の風景画。そして、そのタイトルは――。
「目覚めの唄……」
ノエルが図書室で見つけた歌のタイトルと、図書室に飾られた絵画と、資料の絵画の名前が一致していたのだ。
ただ一点、本に描かれている絵と目の前にある風景画で違う部分があった。その疑問を解決するため、リラは右手を宙に向かって伸ばし、空から現れた杖を握った。
彼女は振り返ると本が積み上げられたテーブル――リアンセとメルアがよく座っていたあのテーブルに向いた。
「わたしの考えが正しければ、きっとここに答えがある」
リラは杖を両手で握ると、トン、と床をつく。不意に魔法陣が足元に現れ、彼女はそっと唱えた。
「残響聴取」
静かだった図書室がだんだんと騒がしくなってける。リラは椅子に座り目を閉じて耳を澄ます。
「………………」
全神経を耳へ集中させる。きっとここ残っているはずだ。『彼らの想い』が。
「ハ……テ……」
「!」
聞こえてきた。リラは息を止める勢いでその声に集中する。
「ハジ……テ……」
もう少し……。
「ハジ……メ……テ……」
その瞬間、はっきりと声が聞こえてきた。
「はじめまして!」
「うわぁ!?び、びっくりした……」
「あっ、ご、ごめんね。急に声をかけちゃって」
「あ、いや、いいけど……。っていうか、君、誰?」
「わたし?えーと、うーんと……。あっ、ねぇ、その本!」
「え?これ?」
「うん。君、いつもその本読んでるよね。面白いの?」
「え……なんで知ってるの……?」
「あっ、ほ、ほら!わたしも本が好きで、よくここに来てるから」
「ふぅん。そうなんだ」
「う、疑うような目を向けないで……。その本、見せて?」
「いいけど……」
「ありがとう!……ふむふむ……メルア、か……」
「ねぇ、もういい?」
「あっ、うん。あの、わたしの名前ね」
「え?」
「わたし、このヒロインと同じメルアって言うの」
「えっ、そうなの?そっか、そうなんだ」
「……君、このメルアって子好きなんでしょ」
「な!?そんな、そんなわけないだろう!?」
「ふふっ。赤くなってる。ねぇ、君の名前も教えて?」
「リアンセだけど……」
「リアンセ!いい名前だね。良かったらその本の話、聞かせてほしいな。わたし、とっても興味あるんだ」
「初対面なのに、やたら積極的だな……。まぁ、別にいいけど。僕も誰かに本の話したかったからさ」
「わぁ!ありがとう、リアンセ!」
「――っ!」
リラはハッと目を開いた。会話はそこで終わり、魔法の効果が切れ、再び静寂が訪れた。リラは開かれた本のページを見つめる。
「違和感の正体はこの絵だ」
本に描かれた絵と、図書室の絵画の違う点。それは、そこに人物が描かれているかと言うことだった。図書室の風景画は、それは一つの作品として違和感なく見ることができるが、もしも本に描かれている方が本当の風景画――目覚めの唄というタイトルの作品なら答えは自ずと見えてくる。
「メルアが違和感の正体で間違いない。彼女はもともとこの絵の人物だったんだ」
その本には、池の方を向いて歌う仕草をしている女性の後ろ姿が描かれていた。リラは立ち上がり、人物のいなくなった絵画に触れた。微弱だが、指先から魔力の痕跡を感じる。
「これで違和感の謎はわかった。けど、この学院の本来の目的が聖なる力を守る役割ってどういうこと?」
それはどの資料を探しても見つからなかった。リラがもう一度、資料を見返そうとした瞬間。
「!」
全身が負の魔力の存在を感じ取った。
振り返ると、そこにポルセアが立っていた。リラは、いつの間にかそこにいる彼に驚きつつも、負の魔力は彼からではないと判断し、敵が入り込んだと気づいた。
「ここは結界で守られているんじゃなかったの?」
険しい口調で問うリラに、ポルセアは頭を下げる。
「申し訳ありません。古い術式でしたが、大抵の魔物魔族は破れない結界でした。しかし、強大な力を持った何者かが結界を破ったようです。これは僕らの予想外の事態です」
「生徒たちは?」
「緊急連絡で寮から出ないよう指示しています。また、教師陣は直ちに武装して現場へ急行させました。学院の南東にある森の奥の煌見池です」
「そう。彼らも全員、学院に避難させて。わたしが行く」
足早に階段へ向かうリラにポルセアは頭を下げながら言った。
「もう一つ。カスティルが、少し前に夜の池へノエル様と他ニ名の生徒が向かったと言っておりました」
「……わかった」
リラは背を向けたまま応えた。
「うぐっ……!」
ノエルは、致命傷どころか、傷ひとつ相手につけることができずに、一方的に押されるばかりだった。
「威勢の割には手ごたえのないやつだな」
「クソッ……」
魔族の男はノエルの体力を徐々に削ぐように連続の攻撃を繰り出す。ノエルはそれを受け止めるだけで精一杯であり、たった数分ですでに身体中は傷だらけだった。
「うわっ……!」
その中の一手がノエルを強く後ろへ飛ばす。地面へ倒れるノエルに男は近づき、闇の棘を振り上げた。
「!!」
ここまでか――!ノエルは覚悟し、目を瞑った。
「盾よ」
刹那、二人の間に魔法の防御膜が現れ、攻撃を防いだ。
魔族の男はそれを見て、顔を上げる。
「矛よ」
間髪入れずに攻撃魔法が放たれる。男はそれを避けると後ろへ大きく飛び退き、空へ浮かび上がった。ニヤリと、待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべる。
「来たか」
ノエルは魔法の飛んできた方を見上げた。
「リラ……!」
学院を背後に、男と対峙する形で宙に現れたリラは杖を握り、しっかりと男を見つめていた。
「ここにいるのはわかっていたぞ!」
男は、そう言いながら無数の黒い刃でリラに襲いかかる。リラは杖を一切動かさずに、それらすべてを攻撃魔法を駆使して一瞬で撃ち落とす。
「?!」
爆風があたりに広がり、ノエルは目を瞑る。砂埃がおさまり、次に目を開けた時、リラはノエルの前に立っていた。肩越しに振り返り、傷だらけのノエルを見て言った。
「遅れてごめん」
ノエルは、彼女の顔を見つめると、剣を地面に突き立て身体を起こす。
「リラ、ダメだ。あいつは強すぎる」
リラはその言葉を聞いて魔族の男に向く。男は左手に持つ天秤を見せた。ノエルはハッとする。あの術だ。
「まずい、リラ。あれは……!」
ノエルがリラを庇おうと足を踏み出した時、、リラはそれを遮って淡々と言った。
「あれは『ある者のための天秤』。相手の負の願いと食物を天秤にかけ、食物が重い場合には生を、負の願いが重い場合には死を相手に与えるもの。けれど、その天秤の真の力は、相手が死者の場合には生を、生者の場合には死を与えるだけの逆転天秤」
そして、リラは男を睨んだ。
「お前がナグルヴァスだな」
男は、名前を暴かれ、明らかに苛立った様子を見せた。
「チッ……あの役立たずめ。だが、正体がバレたところで大したことではない」
ナグルヴァスは天秤をリラに向けると、リラの目を真っ直ぐ見た。
「お前の望みはなんだ」
ナグルヴァスの目が赤黒く光る。そして彼はニヤリと笑みを浮かべた。
「これは好都合。お前も死にたいようだな」
「えっ……?」
その言葉を聞いてノエルはリラの背を見つめた。リラは動じることもなく、ナグルヴァスと対峙している。
「お前の望み、叶えてやろう」
ナグルヴァスの目が再び赤黒く光り出すと、リラの胸も共鳴するように赤黒い光を浮かべた。
「リラ!」
ノエルが叫ぶ。
その時、リラはほんの少しだけ、悲しい表情をしたが、それは誰にも気づかれることはなかった。
瞬間、リラの胸にあった赤黒い光はまるで力を失ったかのように弾けて消えた。それに反応してナグルヴァスの持つ天秤も何かに弾かれたように揺れる。それを見て彼は口元を上げた。
「不老不死は本当のようだな」
「疑ってたの?そっちがかけた呪いのくせに」
「フン。試しただけさ。貴様はこの世界に『存在してはいけない者』だからな」
存在してはいけない者。それはリラ本人もメルアに言っていた言葉だ。リラは動揺を一切見せず、杖をナグルヴァスへと向ける。
「この世界という括りなら、お前たちも同じだろう。似た者同士、気が済むまでやろうじゃないか」
「フッ、面白い……!!」
――その言葉を皮切りに二人の戦いの火蓋が切って落とされた。
二人は地上戦、空中戦問わず激しく攻撃をぶつけ合う。その度に空気は大きく揺れ、池の波が立つ。
「くっ……」
ノエルは砂埃が舞う中、なんとか立ち上がるとリアンセとメルアを探した。
「リアンセ!」
「ノエルさん!」
少し離れた場所からリアンセの声が聞こえる。どうやら魔物のいない木の陰に身を隠していたようだ。ノエルはその場に駆け寄る。
「二人とも大丈夫か?」
「僕は大丈夫です。でも、メルアが……」
ノエルは、意識を取り戻したメルアが、彼の腕に顔を埋めて震えていることに気がついた。
「メルア、大丈夫か?」
声をかける。しかし、メルアの反応はなかった。ノエルはリラたちを見ると、リアンセに言った。
「ここは危ない。魔物は俺が引きつけるから、ここから離れるんだ。それから……ここから離れられても、学院に戻る途中の森に魔物がいないとは言い切れない。だから、そこから先はリアンセが戦ってくれ」
「え!?どうして!?ノエルさんは……!」
「俺は、リラを置いて行くことはできない」
「そ、そんな!でも、だって、僕は剣なんて……!」
青ざめた顔をするリアンセの肩をノエルがしっかりとつかみ、リアンセと真っ直ぐ目を合わせた。
「大丈夫だ。リアンセなら大丈夫」
「ど、どうして、そんなこと……」
「守りたい人が、ここにいるだろう?」
「……!」
リアンセはハッとし、震えていた身体が落ち着くのを感じた。そして、メルアを受け止めている腕に力を入れる。
「わ……わかりました。僕も、剣士です……!」
ノエルはリアンセに強く頷くと、魔物たちに剣を向ける。今のところ、やつらが襲ってくる気配はない。おそらく、やつらはナグルヴァスの命令で動くのだろう。しかし、絶対に襲ってこない保証もない。
ノエルは、リラと魔族の戦いに巻き込まれないように、周囲に最新の注意を払いながらリアンセたちと足早に歩き出した。
「矛よ」
リラは相手に隙を与える暇もなく攻撃魔法を繰り出す。ナグルヴァスもそれらをすべて見切って捌くと、同じように連続攻撃を放つ。二人とも、一歩も引けを取らない。しかし、これでは埒外が明かないことも物語っていた。
何か、反撃の一手は……。
魔族との攻防において、リラはほとんど負けたことはない。トルンの村でウグリナと戦った時のようにほとんどの魔族は倒せていたのだ。けれど、今回はどうも様子が違うらしい。
まるで、自分と同じように『死なない存在』のように感じる。
「フッ……」
ナグルヴァスが小さく笑みを浮かべた。
「っ!」
考えに気を取られたほんの一瞬の隙を魔族は見逃さなかった。ナグルヴァスは強い一手を放つ。
「っ……!」
リラは間一髪のところで避けるが、攻撃は頬を掠め、バランスを崩したリラはそのまま池に落ちていく。その瞬間を見ていたノエルは驚いて声をあげた。
「リラ!」
しかし、リラは杖をしっかりと握ると、次の瞬間には冷静に池に向かって杖を構えていた。
「渡水命令」
その言葉に反応して水面に魔法陣が一瞬浮かび上がると、リラは体勢を整え水の上へ着地した。そして着地と同時に、波を立てるように杖を左から右へ強く払う。刹那、細く長い水草が水面を突き破って池の底から大量に現れ、それはナグルヴァス目掛けて勢いよく伸びた。
「チッ……!」
ナグルヴァスは水草から逃れるように空中を旋回する。リラは彼から視線を外さない。水草は一切迷うことなく、いくつもの手をナグルヴァスへ向けた。
「小賢しい!」
ナグルヴァスは黒い刃を無数に放ち、水草を切り落としていく。だが、リラもそれだけで終わらない。池の底にある、すべてと思われるほどの数の水草を操り、攻撃と防御を同時に行う。二人の攻防は止まらない。池は激しく揺れて、大きな波を起こす。水飛沫が雨のように降るその時、リラの目にあるものが飛び込んできた。
「あれは――」
水草に紛れて、一匹の生き物が混ざっていることに気がついた。
「花クラゲ……?」
それは、長く伸びた鮮やかな色の花の触手を持つ美しいクラゲだった。
リラは息を呑む。
「どうしてここに……?まさか……この池は――!」
その時、脳裏でパズルのピースがつながる感覚を覚えた。
目覚めの唄に込められた歌詞の意味、煌見池の場所を示していた魔法の絵画の意味、聖なる力を守るために創られた学院の意味。そして、それらすべてをつなぐ『鍵』は――。
リラはノエルを見る。
「頼むしかない……」
一か八か、リラは一筋の可能性を信じてノエルに向かって、水の上を駆け出した。
「ノエル!」
リラが叫ぶ。ノエルはリアンセたちと共に煌見池の入り口まで来ていた。ノエルは、突然呼ばれて驚いた様子でリラを見る。そんな彼女の意図を察したのはナグルヴァスだった。
「気づかれたか……!」
ナグルヴァスは全神経を集中させ、渾身の一撃を放つ。
「はあぁぁぁあ!!!」
ノエルはその瞬間を見て声を上げた。
「リラ!危ない!」
「――ッ!!」
凄まじいスピードで攻撃がリラに届こうとした瞬間、ガキン――!!と激しい音と閃光が巻き起こった。
「……!」
リラが顔を上げると、その先にいたのはノエルだった。彼は攻撃を受け止め、その剣からは激しく火花が散っている。
「ぐっ……ぐぅっ……!!」
「な、なぜだ!?なぜ我の一撃を受け止めてる……!?」
ナグルヴァスは明らかな動揺を見せる。リラも驚いてその光景を見ていた。
ノエルの脳裏に双子の言葉が過る。これは二人のかけた『おまじない』のおかげだ。
『自身の心が迷わないように』――。
そう。何も迷う必要なんてない。ノエルは歯を食いしばり、剣を握る手に力を込める。
「ぐぅぅうぁぁぁぁあ!!」
剣を思い切り横へ薙ぎ払う。ジャキン!!という強い音とともにナグルヴァスから放たれた攻撃は真っ二つに裂けるようにして消え去った。それと同時に閃光も消える。
ノエルは、驚いて何も言えずにいるナグルヴァスと、背にいる三人、そして、自分に言い聞かせるように大声で言った。あの時、リラが教えてくれた『言葉の力』を信じて。
「弱くたって、才能がなくたって、頼りなくたって、誰の役に立てなくたって、それでも、俺はこの手でみんなを守る!俺は俺の選んだ選択を否定しない!!」
「――ッ!!」
メルアはその言葉に反射的に顔を上げた。震えが止まる。その言葉はメルアの心の記憶を呼び覚ますかのように、耳の奥に響き渡り、まるで心の靄が晴れるような、はっきりとした感覚が蘇ってきた。メルアの瞳に光が宿る。
リラはノエルの大きな背中を見つめ、優しい笑みを浮かべた。
「なんだ貴様は、いきなりでしゃばってきやがって!!」
ナグルヴァスは怒声を上げ、癇癪を起こしたように乱雑な攻撃を放ってきた。
「盾よ」
すべての攻撃を一斉にリラの魔法が防ぐ。リラはノエルの隣に立つと、はっきりと言った。
「ノエル、力を貸して」
「っ!」
それは、いつか聞けたらと思っていた言葉。その言葉はノエルにとって、自身を受け入れてくれたと信じることができる魔法の呪文。
ノエルは喜んでいる表情を見せないようにしながら、しっかりと頷いて見せた。リラは小さく笑顔を向けて応えると、一変して真剣な眼差しでナグルヴァスを見据えた。
ナグルヴァスは両手で頭を掻きむしる。髪の毛からフケがこぼれ落ち、彼は垢が詰まった爪を噛んだ。
「どいつもこいつも……!」
そして、右手を横に大きく振って叫ぶ。
「お前ら!全員まとめて殺してしまえ!!」
「ググ……グ……」
突如、彼の声に反応して森に潜んでいた魔物たちが一斉に動き始めた。
「う、うわぁ!」
リアンセが悲鳴をあげる。ノエルもその事態に冷や汗を滲ませる。
「くそ、こんな大量の魔物が……!」
「大丈夫」
その時、リラは大きく深呼吸をひとつすると、杖を振り上げた。
タン――!と軽やかな音とともにリラの足元に今までよりも一際大きな魔法陣が現れる。
「言なき、眠れる生命よ。我が呼び声に目を覚ませ。その荘厳なる力にて、光を守れ」
そう呪文を唱え、リラは声を上げた。
「フォレルデ・デュアネスト!」
瞬間、周りの木々が激しく揺れだし、魔物たちは驚いて森の中を逃げ惑い始めた。木々や草花は、森にいる魔物たちに絡みついて動きを封じ、やがて森はまるで複雑に絡み合ったひとつの巣のような姿を形成した。
それはリラにしか使えない特殊な植物の魔法だった。壮大な魔法に驚きつつも、ノエルはこの機を逃さなかった。
「リアンセ!行け!」
ノエルが叫ぶと、リアンセは頷いてメルアの手を引き、駆け出す。ようやく二人は池から離れていった。
リラは片膝を地面につき、ノエルに告げる。
「ノエル、この煌見池はおそらく、聖なる力を宿した池だよ」
「聖なる力……?」
「そう。聖域にしか生息しない花クラゲがいたの。学院が建てられたのはこの聖域を侵されないようにするためだと思う。そして、浄化の力を持つこの池なら、あいつを倒せるかもしれない。ノエル、わたしはこの魔法を維持するためにここから動けない。魔法で援護するから、あいつを……ナグルヴァスを、あなたが倒して」
「俺が……」
ノエルを見つめるリラの目にためらいはなかった。自分を信じてくれている彼女を裏切りたくない。
「……わかった。やるよ」
実力が伴わなくたってやってやる。
ノエルは剣を構えるとナグルヴァスに向かって勢いよく走り出した。
リラは強く願うように小さく呟く。
「兄さん、姉さん、力を貸して……!」
リラは片方の手で杖を握り魔法を維持したまま、もう片方の手をノエルへ向けた。
「天空へ」
瞬間、魔法陣がリラの手のひらとノエルの足元に現れたかと思うと、風が足元から渦巻いてノエルの身体をふわりと天高く舞い上がらせた。
「わぁ!?」
風はナグルヴァスのいるところよりも高くノエルを押し上げる。ノエルは一瞬、驚きはしたが、すぐに体勢を立て直すと、風が止むと同時にナグルヴァスへ剣を振り下ろした。
「はぁぁぁぁあ!!!」
お読みくださりありがとうございます。
リラは昔、空を飛ぶ時は箒を使っていましたが、あることがきっかけで「何かに乗って宙に浮かぶこと」を辞めてしまいました。またその辺りも作中に記載していきたいです