【第2章】11.天秤を操る者
夜の森はとても暗く、雲の合間から少し見える程度の月明かりでは前が見えないほどだった。ノエルとリアンセは慎重に、けれどなるべく急いで池へ向かう。
「夜は危険だな、魔物が来るかもしれない」
ノエルが辺りを警戒しながら言う。リアンセが応えた。
「たぶん大丈夫です。この森も学院の結界内ですから。それにもしも魔物が出たら先生たちが気づいて退治にきてくれるはずです」
「そうか。ならメルアも魔物に襲われていることはないだろうな」
そうして二人は煌見池へとたどり着く。夜の池はまるで闇のように深く、吸い込まれそうな感覚に陥る。リアンセは声を上げた。
「メルア!どこにいるんだ!」
その時、すぐ向こうで何かが動く影が見えた。続いて涙をすする音が聞こえる。
「メルア!」
リアンセとノエルはその影に駆け寄った。そこにはうずくまっているメルアがいた。
「リアンセ……?」
メルアはそっと顔を上げる。声は掠れていて、顔はよく見えないが泣いていたことがわかる。リアンセはメルアの隣にしゃがむと心配そうに声をかける。
「大丈夫?突然どうしたんだよ、あんなメモ……」
すると、メルアは両手で髪の毛を無造作につかんでうつむいた。
「わからない。でも、もうダメなの」
「ダメって、なにが」
リアンセが聞くがメルアは首を横に強く振る。
「頭に声が響くの。死ね、死んじゃえって。わたしの『歌』は上手くなくて、うるさくて、わたしの『歌』は誰にも届かない。だから、死ねって…!!」
声が震えている。メルアはひどく混乱しているようだった。ノエルはメルアの言葉を聞いて気づいた。そして、そばに寄り、真相を確かめるように優しく声をかける。
「君は、本当は歌を歌うのか?」
メルアはほんの少し顔を上げてノエルを見た。リアンセは混乱したように尋ねる。
「え?メルア、どういうこと?歌って……?」
メルアはリアンセを見た。その頬に一粒の涙が伝う。
「わ……わたしは、メルアじゃない……。わたしは……わたしは……!」
しかし、メルアは頭をぐしゃぐしゃと掻き乱す。
「ああ、うるさい!うるさい!」
「メルア……」
リアンセは驚きと疑いと、さまざな表情を含んだ顔で彼女を見つめる。ノエルは確信に近づいてしまったと感じた。彼女の言葉は、彼女には以前の姿があったことを示唆していた。
リラは彼女の身体に自身で傷つけたような傷が複数あったと言っていた。そして、彼女の今の言葉から察するに彼女には強い希死念慮があるようだ。彼女を助けるには、過去に何があったのか知る必要がある。ノエルはなるべくメルアを刺激しないように、落ち着いた声で聞いた。
「大丈夫だ。ここには君を傷つける人はいない。聞かせてくれないか、君は本当は誰なのか」
「うう……うう……ダメなの……思い出せない。死ねって言う声が邪魔してくる。もうダメなの、わたしは、誰にも必要とされてない。頑張っても意味がなかった。努力なんてまやかしだった」
ふらりと、突然メルアは立ち上がる。
「早く死にたい。早く、死んで償わなくちゃ……」
メルアはそう呟くと、そのまま躊躇することなく身体を池へと投げ出した。
「メルア!」
「ダメだ!」
ノエルとリアンセは咄嗟に手を伸ばし、彼女の身体を受け止める。岸へと引っ張り、三人はその勢いで地面に倒れ込んだ。メルアは二人の腕を振り解こうと強く抵抗する。
「離して!わたしなんか誰も必要としてない!もう生きていたくない!死にたい!死にたいよぉ!」
「メルアの過去に一体何があったんだ……」
ノエルは暴れるメルアをなんとか抑え込みながらそう言った。
ずっと困惑していたリアンセの耳に彼女の辛い叫びが響く。いつも明るく振る舞っていた彼女からは想像できないほどの絶望を感じる。
どうして話してくれなかったんだ。どうして、彼女はここまで追い詰められなきゃいけなかったんだ。
そう思った時、心の奥から強い感情が込み上げてきた。その瞬間、リアンセは勢いよくメルアを抱きしめていた。
「!」
突然の出来事にメルアは驚いて静止する。
「な、に?」
リアンセは強く彼女を抱きしめながら、叫ぶように言った。
「僕は君の過去を知らないから、君がどうしてそう思ってしまったのか、わからないけど……!僕は、君には生きていてほしい。僕とずっと一緒にいてほしい。死ななくていい。僕がいるから。大丈夫だよ、メルア……!」
メルアは驚いた様子で目を見開く。不意に、記憶の遠くで誰かの「死ななくていい」という言葉が彼女の心の奥で聞こえてきた。優しく温かい声がリアンセの声と重なる。
そうだ……あの時も……。
「リ、アンセ……」
震える唇で、彼の名前を呟く。メルアはリアンセの背に両腕を回して強く抱きしめ返した。
「ごめんね……」
メルアは彼の胸に顔を埋めると、静かに肩を震わせた。リアンセはとりあえずの危険は去ったおホッとし、優しく頭を撫でた。
その様子を見てノエルも胸を撫で下ろす。
ズキン――!
「ぐっ――!?」
刹那、ノエルの左胸に激しい鈍痛がした。それは、左胸の心臓部。反射的に左胸を押さえる。
「アザが……?」
国王から勇者の紋章と教えられたあの黒いアザが熱を帯びてドクンドクンと脈打っているのを感じる。
「なんだ、突然……?今までなんともなかったのに……」
そう呟いた突如、ノエルは背後から強い殺気を感じ取った。
「――!!?」
咄嗟にノエルは振り返りながら剣を構えた。瞬間、剣は黒く鋭い何かを弾き返し、ガキン!と金属音が響いた。リアンセとメルアも驚いて顔を上げる。ノエルは左胸の痛みを堪えながら、二人を背後に隠すように立ち上がった。
「ほう。今のを受けるとはな。反射神経はいいのか」
低く静かな声が夜風に乗って聞こえてくる。雲間から満月が顔を出す。月明かりを背に、その者は上空から音もなく現れ、地に着いた。
その頬は痩せこけ、骨が浮き出ており、落ちくぼんだその目は光を一切通さない深い闇に覆われている。ボロ切れのような布を引きずるように身に纏い、その者が立つその場の草は生気を失ったように枯れている。
ドクン……ドクン……と脈打つアザは、目の前のそいつに反応しているとノエルは身体で感じ取った。ゴクリと息を呑む。ノエルは、そいつからあふれ出る殺気に怯まないよう、しっかりと大地を踏み締め、その者をまっすぐ見据えた。
「魔族だな」
その魔族の男は表情ひとつ変えず、漆黒の目を向ける。リアンセは驚いて小さく声を上げる。
「な、なんで魔族が結界の中に……!?」
魔族の男はリアンセに視線を向ける。ヒッ、と息を呑むリアンセに男は応える。
「古い術式だ。壊すなど、造作もない」
「そ、そんな……」
ノエルは男に剣を向ける。
「お前の目的はなんだ」
男は質問には応えず、三人をじっと見る。
「ふむ。ここにはいないようだな」
「いない……?なんのことだ?」
ノエルは問うが男はノエルにまったく反応を示さず、代わりに別の者に視線を向けた。
「ほう。どうやら面白いのがいるようだな」
魔族の男はゆっくりと、布からやせ細った腕をのぞかせ、薄汚れた指でメルアを指差した。
「貴様『鍵』だな」
「!!」
メルアは衝撃と恐怖で身体を硬直させた。青ざめた顔のメルアにリアンセが気づく。
「メルア?大丈夫か?メルア!」
その時、魔族の男はところどころ抜け落ちた歯を見せて、初めて笑うような表情を見せた。
「やはり、ここだったか。鍵がいるのは予定外だが、ちょうどいい」
そして、男は反対の左手から錆びついた天秤をメルアに向ける。その天秤の右側には腐ったパンのようなものが乗っている。異様な雰囲気を感じ取り、ノエルは警戒した。男はメルアを真っ直ぐ見据えて口を開く。
「貴様、死にたいようだな。ならば、その望み、我が叶えてやろう……!」
漆黒の目が赤黒い光を宿す。天秤がガタガタと動き出し、それに合わせてメルアの胸が赤黒く光りだす。
「うぐ……ぁあ……!」
「メルア!?」
メルアは苦しそうな呻き声を上げた。リアンセはメルアを呼びかけ続けながら、ひたすら身体を強く抱き締める。男は呪文を唱えるように言った。
「さぁ、その願い、我が天秤に授けよ……!」
「二人とも下がれ!!」
瞬間、ノエルは魔族の男に斬りかかった。
ギン!!と金属音が響く。ノエルの剣は弾き返されるが、即座に体勢を立て直し、剣を構える。
メルアの胸の光は消え、彼女はそのままリアンセの腕の中で気絶する。
魔族の男はノエルを真っ直ぐ睨んだ。
「何をする」
ノエルは剣を向けて精一杯凄んだ。
「お前にメルアを殺させたりはしない!お前の相手は俺だ!」
男はカッと目を見開く。瞬間、天秤からブワッと黒く鋭い刃が無数にノエルに向けて襲いかかった。
「!?」
ノエルは反射的にそれらを受け流す。男は苛立った様子で言った。
「邪魔な虫だ。先に死にたいならば、その望み、叶えてやろう」
「リアンセ!!」
ノエルは叫んだ。
「メルアを連れて逃げろ!」
「そんな、そしたらノエルさんが……!」
リアンセが言おうとした時、ノエルは大声で言った。
「応援を呼んできてくれ!」
リアンセはハッとする。
そして、ノエルの背を見つめると、メルアの手を強く引っ張って走り出した。
「はい!!」
魔族の男はその様子を見て嘲笑うように言った。
「早々に敵わないと踏んだか。弱者め。だが」
「うわぁ!?」
ノエルの背後からリアンセが声を上げる。リアンセの視線の先には魔物が立ちはだかっていた。
「破られた結界から入ってきたのか……!」
リアンセは念の為と携えてきた剣を抜いて、震える剣先を魔物に向けた。幸いなことに魔物はまだ襲ってくる気配はなく、森の奥から様子を伺っているようだ。しかし、それも時間の問題だ。魔物は魔族の一声でいつでも襲いかかって来られるのだから。
「さぁ、貴様から始末してやろう」
魔族の男は天秤をノエルに向ける。術式がかけられるその一瞬の隙を逃さなかったノエルは勢いよく斬りかかる。
「はぁ!!」
しかし、剣は空を切り、魔族の男はひらりと後ろへ飛んだ。そんなノエルの行動に、男はさらに苛立ちを見せる。
「目障りだな」
男は天秤を軽く横に振った。瞬間、天秤から黒い刃が襲ってくる。ノエルは剣を構え、受け流す。しかし、攻撃を交わしたのも束の間、魔族の男は右手を伸ばすと、立て続けに黒く太い闇の棘を無数に出して襲いかかる。
「くっ……!」
「どうした。我の相手をしてくれるのだろう?」
挑発するように男は言った。ノエルは、身体中に切り傷を負うが、弱気になることもなく、はっきりとした口調で返した。
「様子見だよ。お前の弱点はもうわかったんでね」
「何?」
ピクリ、と男の眉が反応する。ノエルはあえて口角を上げて笑いを含ませた。
「天秤は相手の目を見ないと使えないんだろう?」
ノエルは先ほどのメルアの様子からすでに男の天秤の術の抜け穴を見抜いていたのだ。
「わかりやすすぎるな、それ」
ノエルが皮肉を言った瞬間、男から強い一撃が飛んできた。
「うぐッ!?」
咄嗟に剣で防いだが、ノエルの身体は大きく吹き飛び、地面に叩き落ちた。
「ぐぁッ――!」
衝撃でノエルはうめき声を上げる。魔族の男は目を見開きながら、ゆっくりと上空へ浮上した。
「貴様に天秤を使うのは惜しい。この手で殺してやる」
男の標的は完全にノエルへ向いた。
――こいつは強い。ノエルは、やつの攻撃を受けてそう確信した。以前トルン村で対決した魔族とは段違いに。だが、リアンセたちだけでもなんとか逃さないといけない。ノエルは身体を起こすと、しっかりと剣を握った。
たとえ倒せなくても、時間を稼いで二人を逃がす――。
「俺が、守るんだ」
ノエルは覚悟を決めたように、上空にいる男を真っ直ぐ見上げた。
「えっ――?」
刹那、その光景にノエルはハッとした。魔族の男にではなく、視界に広がるその光景。
夜空に浮かぶ満月と月を反射する池。風に吹く木々の様子。ノエルは最初にここへ来た時に見覚えがあると思ったが、今、はっきりとわかった。
この風景は、あの時、あの場所で見た――。
また読んでくださってありがとうございます