【第2章】7.違和感の調査
校舎にはほとんど生徒はおらず、昼とは違いとても静かだった。特に、図書室は数人の生徒が読書をしているだけで、歩くたびに服の擦れる音が聞こえてくるほどだ。
「学院長からの依頼は、この図書室のことだったな」
ノエルは、数時間前のテオルダンから頼まれた依頼を思い出す。
どうやら、最近この図書室で『ある違和感』が生まれたらしい。その正体を探ってほしいそうだ。ある違和感とは『何かが変わってしまった』ような感覚らしいが、誰も何が変わったのか言葉にできないという。
ある生徒は『書棚の配置が違う』と感じたり、またある生徒は『見覚えのない本があった』と述べたり、さらにある生徒は『誰かがいなくなっている』とまで言っていたそうだ。
「ある違和感ってなんなんだろうな。俺たちが図書室へ入った時、そんな感じしなかったし、今もしないけどな……。もしかして、魔法使いにだけわかるとか?」
ノエルが図書室をぐるりと見渡しながら言った。リラは小さく唸る。
「うーん……。わたしにも違和感はないから、おそらく『以前の図書室』を知ってる人にだけ感じられるんだと思う。考えられるのは、以前の図書室と比べて魔力の流れが変わったか……」
「流れ?」
「ええ。この空間にもともとあった魔力の一部が消失したのかも」
「どういうこと?」
「魔力と言うのは基本的に人間が持つエネルギーが源になるのだけど、たとえば本に魔法をかければ、その本にも魔力が流れるようになるんだよ」
「それじゃあ、つまり、この図書室にかけられていた魔法が解けたってこと?」
「一部ね。図書室自体にはかけられてないと思う。おそらく魔法の本がどこかに行ったか……でも、それなりに多くの生徒が違和感を持っているってことは、もう少し大きな力……?」
ノエルが本棚に近づいて、綺麗に並ぶ本を見て言う。
「シリーズ物の魔法の本が一気に全部なくなったとか」
リラは反対側の本棚から本を取り出して言った。
「あるいは古書?学院創設時からあるような古い本は、長い時間をかけて空間に馴染んでいくからね。なくなればわかる、のかな」
「でも、どんな可能性にしろ探すのは手間だな」
「そうだね。魔力の痕跡を辿る魔法はあるけど、不特定多数が行き交う場所だと痕跡が絡み合いすぎて役に立たないし」
「うーん。過去を見る方法か……」
「見る……。いや、聞くことなら……」
「え?」
ノエルがリラを見た。リラは杖を握りながら、図書室の中心に進むと、ノエルに向く。
「これは古くからある魔法で、魔力の痕跡を見て探すんじゃなくて、聞いて探すものなの。その時の想いが強いほど音は大きくなって聞こえてくる。犯罪捜査でも使われてる魔法なんだよ」
「なるほど。生徒たちが違和感を覚えるほどの変化なら、きっと」
「なにが起きたのか聞こえるはず」
二人は視線を合わせると頷いた。
リラは、辺りを見渡して、残っていた生徒たちがみな図書室からいなくなっていることを確認すると、杖を図書室の地面に、トン、とついた。
「残響聴取」
瞬間、杖の先端の水晶玉を起点として、空気が波紋のように波打つと図書室に広がった。それは、二、三度繰り返されると、やがて静かだった図書室にザワザワとさまざまな声が聞こえてきた。
「うわ。なんか、すごい人混みの中にいるようだ」
ノエルは思わず顔をしかめる。リラは苦笑いをした。
「まぁ、何しろ100年分の音が詰め込まれてるからね。あなたが今立っている場所、その場所で何があったのか聞けるんだよ」
「そうは言っても、なんかガヤガヤしてて逆に全然聞こえないな……」
ノエルは耳をそばだてる。誰かが話している声やその後ろでページをめくる音などまで聞こえてくる気がする。
「うーん……。とりあえず、探してみるか」
「ふふ。そうだね。じゃあ、わたしは二階を」
そうして二人は調査を始めた。しばらく、図書室を歩き回る。対話する声、一人で呟く声、誰かが魔法を使ったのか、本が暴走する声などさまざまな声が聞こえてくる。
「想いが強いほど音が強くなるって言ってたけど……」
ノエルは歩き回りながら耳を澄ましてみるが、どうにも、聞こえてくるのは雑談ばかりだ。中には確かに、作家に対する想いを熱く語る声や、勉学を必死でする声なども聞こえてくるが、音の大きさは雑談より少し大きいくらいで、気になる音は聞こえてこない。
「うーん……」
しばらく歩き回っていると、不意に、窓際の隅の方で、誰かの声が雑音を超えて聞こえてきた。
「なんだ……?」
ノエルは立ち止まって耳を澄ます。
「……歌、か?」
その声は一定のリズムと音程を持っているように聞こえる。ノエルはそっと、声の方を辿った。声がだんだんとはっきり聞こえてくる。
そして、ノエルはある場所で足を止めた。何もないその場所をじっと見つめる。声はそこから聞こえてくる。
「そこに、いるのか?」
鈴のように透明で澄んだ歌声が、まるで祈るように、繰り返し歌っていた。
一方、二階にいるリラも手がかりとなる音をつかめないまま、歩き回っていた。
「誰、こんなうるさい魔法を創ったのは。全然聞こえない……。……ん?」
ふと、その時、音ではないものに気がついて足を止めた。そこは、昼間リアンセとメルアと話した場所だった。リラは、その奥の、壁にかけられた絵画に目を留める。
「なんだか、違和感が……」
昼間と何か変わっている気がする。昼間の絵画を思い出そうとする。
「あれ、そう言えばこの絵画」
リラは一つの風景画の前で足を止めた。その絵画は、満月が輝く夜の湖の風景の絵だった。
「この絵は、昼間は昼の風景だったな。なるほど、昼と夜で変わる絵か――」
「ハ……テ……」
「――?」
その時、リラの周りから特定の声が強く聴こえてきた。何を喋っているのかはわからないが、リラは口を閉じると耳に手を当てて、その声に耳を澄ました。
「……シ……ア……ク………」
「何……?」
リラは、ゆっくりと声の出所を辿る。しかし、他の声が雑音となってその声の邪魔をする。リラは、目を閉じて感覚を研ぎ澄ますように、その声に集中する。
しばらくの沈黙が続く。リラの頬に汗が一筋流れた。
「……ラ……!……リラ!」
「!」
突然、呼びかけられ、リラは驚いて目を開けた。目の前にはノエルが立っていた。
「なんだ、あなたか……」
リラは、緊張が解けたように息を吐いた。
「大丈夫か?一階から声をかけたんだけど、雑音がひどくて届きそうにもなかったから。もしかして、何か聴こえたのか?」
「ううん。何も」
リラは再度、耳に手を当てた。しかし、魔法の持続効果が切れたのか、次第に雑音は遠のいていき、やがて静寂に包まれた図書室が戻ってきた。
「あ、静かになった」
「この魔法は10分間しか続かないからね」
その言葉にノエルはホッと胸を撫でおろす。
「よかった。ずっとザワザワしてたから。……でも、なんだか、まだ耳に残ってる気がする……」
「それで、一階から声をかけたって、何か気になることでもあったの?」
リラがそう聞くと、ノエルは頷いて手に持っていた紙を渡した。
「一階を調べている時、歌が聞こえてきたんだ」
「歌?」
「そう。繰り返し繰り返し歌ってるから、テーブルに置いてあった紙とペンを借りてそこにメモしたんだ。この歌はどの声よりもはっきりと聞こえた」
「つまり、それだけ思い入れの強い歌ってことだね」
「たぶんな」
リラは二つ折りにされたメモを開く。そこには短い歌詞がノエルによって走り書きされていた。
“あぁ、満ちたる月よ。どうか我が祈りを聞いておくれ。夜を彩る調べが聞こえる時、眠る大地は目を覚ます。生命が流れ、風は唄う。あぁ、我が胸に秘めるは炎の如く強き決意。生きとし生けるすべてのものに救いの光を。我が手に、どうか、希望の力を”
「これが、その歌の歌詞?」
「ああ。ただ俺はこの歌を聞いたことがないんだ。リラならもしかしたら知ってると思って」
リラは片手を顎に当てて考え込む。
「うーん。歌詞を見る感じ、わたしも知らない歌だと思う。ただ……」
「ただ?」
リラは、あるワードに目を留める。
大地、生命、流れ、風、炎――。
「まさか、ね」
リラは脳裏によぎった記憶を振り払うように首を横に振った。
「リラ?」
ノエルが心配そうに顔を覗き込む。
「なんでもない。たぶん、何かを示す歌だろうけど、わたしにもわからないな」
「そうか」
ノエルは、リラの顔が少しだけ曇るのを見逃さなかった。しかし、あえてそのことは触れずに話を続ける。
「それで、リラの方は何か進展はあった?」
「え?いいえ、さっきも言ったけど音は何も。何か変わってると言えば絵画くらい」
「絵画?昼間に見ていた?」
「ええ」
リラは絵画の一つを指差した。
「あの絵画、昼と夜で風景画の時間も変わってるみたいなの」
「そうなんだ。でも」
ノエルの言わんとしていることをリラも察して頷く。
「よくある魔法だから、別に大したことじゃないんだけどね」
絵画や本の挿絵が動くことは、この世界ではよくあることだ。もちろん、静止している絵もあるが、専用の筆で描けば魔法使いではなくても静止画を動かすことができる。
「それじゃあ収穫はなしか」
「たぶん、違和感は一階なんだと思う。もしかしたら、その歌が関係しているのかもしれないから、明日テオルダンに聞いてみようか」
「そうだな。……あれ?」
ふと、ノエルは昼間、リアンセと話していたテーブルに本が置いてあることに気づく。
「これ、リアンセが読んでいた本だな」
リアンセがお気に入りだという『満月に歌う』というタイトルのファンタジー小説だ。その本を手に取った時、ノエルはあることを思い出した。
「そういえば、ここに登場するヒロインの名前、メルアっていうんだよな」
「え、そうなの?」
「ああ」
ノエルは本をリラに手渡す。リラは本をパラパラとめくった。ノエルはそれを見ながら言う。
「ただ、メルアって名前は珍しい名前じゃないし、別段違和感はないけどな」
文字を指でなぞりながら文章を追っていたリラの指がふと、とある文章に止まる。リラは小さく口を開くと、静かにそれを読み上げた。
「長く艶のある茶髪は腰まで伸び、目尻の垂れた瞳は、どこか眠たげな雰囲気を感じさせる。人形を思わせるような、陶器のような白い肌に、小さな鈴が鳴るような高くて透き通った歌声の彼女は、名をメルアと言う――」
ノエルとリラは目を合わせた。それは、ノエルがメルアを見て思った容姿の印象とそっくりだった。
「いや、まさかな」
「ええ、まさかね」
二人は沈黙する。同じことを考えているであろうことは二人ともわかっていた。ノエルが、思い出したように口を開く。
「そうだ、挿絵は?本のメルアを示す挿絵があれば信憑性が……」
リラは、ゆっくりとノエルに先ほどの文章が書いてあるページを見せた。下部分に白黒で描かれた少女がいた。生身の人間とは描き方はまったく違うけれど、画風を省けばその特徴は人間のメルアと同じだった。
「信憑性が、増してしまった……」
ノエルは頬をひきつらせた。リラは困ったように言う。
「もし、このメルアとあのメルアが同一人物であれば、それが違和感の正体になるのかもしれないけど……。本の人物が本の世界から抜け出した事例なんて聞いたことないな」
「何か魔法がかけられているとか?」
「それが、この本からは魔力は感じられないの」
「じゃあ、一時的に魔法をかけて本の人物を人間に変えたとか」
「うーん。そんな魔法あったかな。いや、魔法はあくまでイメージ。その気になればそういうことも……。うーん……」
リラはこの状況を理解できないでいるようだった。その時、一階から女性の声が聞こえた。
「二階に誰かいらっしゃる?」
ノエルが手すり越しに下を見ると、そこに一人の老婆が立っていた。
「あ、はい!います!」
ノエルが声を上げると、老婆はノエルを見上げた。そして、驚いたように言う。
「あら、まだ生徒がいたのね。一体何時だと思っているの?もう締めますよ」
「あ、えっと、生徒じゃないけど……わ、わかりました!すぐに出ます!」
「急いでね!……まったく、今どきの若い人は時間もわからないのかしらねぇ」
おそらく図書室の先生であろう老婆は、文句を言いながら図書室を出て行った。
「調査はここまでだね」
リラが言った。ノエルも頷く。
「そうだな。とりあえず、その本は置いて行ってまた明日にしよう。気は進まないけど、念のためメルアの周りも調べた方がいいかもな」
「何もないといいけどね」
二人は一抹の不安を抱えたまま、その場を後にするのだった。