【第2章】6.望まない人生
図書室は校舎の地下に位置しており、地下一階を入り口として地上一階までの二階建ての構成だった。
生徒たちの読書兼勉強スペース以外はほとんどが本棚で埋め尽くされており、数えきれないほどの本が収められている。ところどころで本が鳥のように飛び回っており、それを追いかける生徒も見えたが、全体的には静かで穏やかな雰囲気に包まれている。
「えっと、いつもは二階の奥のテーブルで本を読んでいるんです」
メルアに案内され二階にあがる。一階が吹き抜けになっているため、一階よりは二階は本棚が少なくなっている。その奥を迷路のように抜けた先にいくつかのテーブルと椅子が用意されていた。その一つ、一番端のテーブルのさらに角の椅子にポツンと一人、本を読んでいる生徒を見つけた。
「いた」
ノエルは本棚に隠れながら彼の様子を遠目に観察する。
「うーん。話しかけてもいいものか……」
「わたしが声をかけて来ましょうか?」
「え、ほんと?それならお願いしようかな」
「わかりました」
すると、メルアはどこか嬉しそうにリアンセに駆け寄って行った。リアンセは本から顔を上げてメルアを見ると、彼もふわっと笑顔を浮かべた。
「仲がいいんだね」
本棚の陰からリラがそっと顔を出しながら言った。ノエルも頷く。
「ああ、そうみたいだな」
そして、メルアたちはいくつか言葉を交わしたあと、本棚の陰にいるノエルたちの方を指差した。それに気づいた二人はリアンセたちの元に近づいた。
「さっきのお兄さんたち……」
リアンセが少し驚いた表情をする。ノエルは申し訳なさそうな顔をした。
「どうしても心配だったんだ。すまないな、こんなところまで押しかけちゃって」
リアンセは驚いた様子だったが、ゆっくりと口元に微笑みを浮かべた。
「わざわざ気にかけてくださってすみません。でも、少し嬉しいです……」
最後の呟きは本心から溢れた言葉のように聞こえた。ノエルは少しだけその言葉にホッとする。
「リアンセは図書室が好きなんだな。メルアから聞いたよ」
「えっ、あ、そうですね」
「ちなみに、いつもどんな本を読んでいるんだ?」
それに応えたのはメルアだった。
「リアンセはいつも、この本を読んでるんですよ」
そうしてリアンセから本を、ヒョイっと取り上げる。
「あ、ちょっと、メルア!」
「ふふ。別にいいでしょ?素敵な本なんだから」
「でも……!」
リアンセの制止を振り切ってメルアは二人に本の表紙を見せた。『満月に歌う』というタイトルの、ファンタジー作品のようだ。
「これ、美しい歌声を持つ歌姫が出てくるんですよ。リアンセはその子に恋してるんです」
「もう、メルア!デタラメ言わないでくれよ。恋なんてしてないって」
「えぇ、でもリアンセ、いつもこの本を読むたびにヒロインの子が〜って言ってくるじゃない」
「そ、それは――」
リアンセが口ごもるとメルアは可愛らしく笑った。先ほどの人見知りな雰囲気とはまるで違う、リアンセにだけ見せる可憐なその表情に、ノエルもリラも口元が綻ぶ。リアンセはというと、恥ずかしさからか顔を赤らめていた。ノエルはクスッと笑うと、リアンセの向かいの椅子に腰をかけた。
「リアンセは本を読むのが好きなんだね」
メルアがノエルに本を差し出す。ノエルはリアンセに「読んでもいい?」と聞き、リアンセが頷くと本を受け取ってパラパラとページをめくった。
「ん?」
ふと、ノエルはある文字で視線を止める。リアンセとメルアは二人で話しているようでその様子に気がついていない。ノエルは誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「ヒロインの名前、メルアって言うのか……」
一方、リラは話に混ざらずに、リアンセの座る席の後ろの壁に飾られている絵画たちを眺めていた。
「ふむ。知らない絵ばかりだ……」
薔薇の一輪挿しの絵や、昼の湖を描いた絵、どこかを愛おしそうに見つめる女の絵など、有名なのかもしれないけれど、それらはリラの知らない絵ばかりだった。
「おーい、リラ」
ノエルの呼ぶ声にリラは振り返る。
「今からリアンセと剣の特訓をするんだ。リラも一緒に行こう」
「ええ」
ノエルの腕でどこまで特訓ができるか、という野暮なことはあえて口にせず、リラは三人とその場を離れた。
「ほら、まず剣はこう握るんだ」
「こう……ですか?」
「そうそう。構えて」
「えっと……こ、こう?」
「もっと背筋を伸ばして」
ノエルはリアンセにまずは基礎の基礎を教えていた。
四人は人のいなくなったグラウンドの一画、模擬戦ができる屋根付きの舞台にいた。
リラとメルアは少し離れた観客席から二人の様子を見ている。
「リアンセ、大丈夫かな」
メルアが心配する隣で、リラは皮肉混じりに言った。
「ま、腕前の披露ってところまでは行かなそうだからノエルにとっては良かったんじゃない?」
「なぜですか?」
メルアが首を傾げる。リラは、ふふふ、と笑った。
「彼はまだまだ未熟だからね」
「えぇ、そうなんですか」
「わたしも剣術は習ったけれど、彼はなんだかもう一歩のところで惜しいんだよね」
「リラさん、剣も扱うんですか?」
「稀にね。本職は魔法使いだけど、一応他の技術もかじってるの」
「へぇ。すごいなぁ、リラさんは。……わたしとは全然違う」
その小さな呟きをリラは聞き逃さなかった。
「メルアは、弓術コース所属なんだっけ」
「あ、はい。でも、全然力がなくて、弓を引けないんです」
「どうして、弓だったの?肉体的な力を使わないとしたら魔法使いが一番だと思うのだけど」
その問いにメルアは少し悩むように唸った。
「そういうことがしたかったんじゃないかなと」
「そういうこと?」
「なんでしょうね?」
メルア自身もよくわかっていないようだった。メルアは、自身の細くて傷一つない手のひらを見つめる。
「でも練習しても全然筋肉つかないんです」
「そっか。自分のやっていることが上手くいかないって言うのはリアンセと似たところがあるかもね」
「そうですね」
「よければ、彼との出会いを聞きたいな」
メルアはその言葉に少しだけ頬を赤らめる。
「その……リアンセと初めて会ったのも図書室だったんです。最初は自分の好きな本の話しをした程度で、そのうちにお互いの選んだコースの話しや、その日起こった他愛のない話しをするようになって。外で話すのは恥ずかしいので、いつも図書室の、あの場所だったんですけどね」
声はだんだん恥ずかしさで小さくなっていく。リラは優しく微笑んだ。
「素敵だね」
メルアは膝に顔を半分埋める。
「は、はい。リアンセは、優しくて、わたしにも気づいてくれた」
「気づいてくれた?」
「わたし、影が薄いですし、身体も弱くてよく授業を休んでしまったりで、友だちもなかなかできなくて……。弓の扱いが下手で馬鹿にされたりする中、リアンセだけはわたしの気持ちをわかってくれたんです」
「そうなんだね」
すると、メルアは少しだけ声を低くして言った。
「こんなわたしじゃなければ、もっと彼と仲良くなれたはずなのに。……こんな、わたしなんて」
「どういうこと?」
不穏な空気を感じ取ると、リラは心配そうな顔で聞いた。メルアはハッと顔を赤らめる。
「い、いえ!違うんです、全然、彼のことを独り占めしたいとかそんなんじゃなくて!……あっ」
まるで暴露してしまったかと言わんばかりに、メルアの顔はりんごのように真っ赤になった。メルアは両手で顔を隠す。リラは納得したように笑った。
一方、ノエルはリアンセに剣の振り方を教えていた。
「いいか、剣の柄はしっかり握ること。振り回しても絶対に離さないようにしっかりな。学院の剣は初心者用の剣だから、通常より軽くて扱いやすいだろうけど……」
そこでノエルは言葉を止める。リアンセの華奢な腕では安定した素振りをすることが難しいように見える。
「くっ……ふっ……このっ……くそっ」
その様子から、必死さやヤケになっているように見える。そして、ついに耐えきれずに手を離してしまうと、剣は音を立てて地面に落ちた。
「リアンセ、大丈夫か?」
肩で息をするリアンセは心配するノエルを辛そうな顔で見上げた。
「は、はい……」
「今日はここまでにしようか」
「えっ、でも……」
「なぁ、リアンセ」
ノエルはなるべく重い雰囲気にならないように明るい声で話しかける。
「君は将来、どんな人間になりたいか教えてくれないか」
「将来ですか」
「俺は、すべての人を守れる人間になりたいんだ。守り方はいろいろあるけど、その中でも剣を使って。まぁ、リアンセにも言ったけど剣術の腕はそれほどなんだけどさ」
「図書室で話してくれましたよね。でも、武器が上手く使えないと嫌になりませんか?」
ノエルは「そうだな」と言いながらその場に腰を置く。そして、ほんのりと群青に色を変えていく空を見上げた。
「すごく嫌だった。成績表が出るたびに、模擬戦が行われるたびに。『お前は人より劣っている』『騎士にならない方がいい』って、言われてる気分になったよ。直接誰かに言われたことはなかったのにな。誰かの声で、自分の心にずっと響くんだよな」
「わかります……」
リアンセはほんの少しだけ苦笑し、ノエルの隣に腰を下ろす。
「でもさ、俺の父親も騎士で、生まれた時から剣がある生活を送って、俺もそうなるしかなかった。……いや、そうなる道しか想像できなかったんだ」
「ノエルさんは、お父さんに騎士になるよう言われたんですか?」
「ああ、そうだよ。父は無愛想で無口で礼儀を重んじる人で、厳しくて、怖いと思った時もあった。逆らえないと思ってた。養成所にいる時は、父の呪縛が身体に絡みついて、無理やり動かされているように感じる日が多かったな」
リアンセはその言葉を聞いて少し驚いたように言う。
「なんだか意外です。ノエルさんは明るい方なので、そんなことがあったなんて」
ノエルは笑う。
「そうだよな。でも、前はそうだったんだけどさ、いろいろあって今では父をちゃんと本心で尊敬できるようになったんだ。そして、たとえ腕が立たなくても俺は剣を握って誰かを守りたいと思うようになった」
「羨ましいです」
リアンセは両膝を抱えて少しうつむき加減に呟く。ノエルはリアンセを見た。
「間違っているかもしれないけど、リアンセは他にやりたいことがあるんじゃないか?」
リアンセは少しだけ顔を上げる。
「わかるんですか?」
「なんとなくな。リアンセはさ、授業中も今も、ちゃんと練習を真剣に取り組んでくれていた。図書室で話した時も思ったけど、誠実なんだろうなって。だから俺と一緒で、剣士になりたいけど努力がついてこないタイプかと思ったりもしたんたけど、たぶん、違うよね」
ノエルは剣の練習をするリアンセを近くで見ていて気づいたことがある。彼は、剣を見ていなかったのだ。いつも剣先の、その向こうを見ていた。別のことを考えているように見えた。誠実な彼のその仕草はおそらく無意識だったのだろうが。
「気づいたんですね、ノエルさんも」
「俺も?」
「僕、剣の練習中、どうしても気持ちがどこかに行っちゃって。メルアに言われて、気づいたんです。先生にはずっと筋力が足りないから集中力が続かないんだって怒られていたんですけど。……ほ、本当は僕、別のことがしたいんです」
思い切ったように言ったリアンセに、ノエルは優しく言う。
「良ければ、聞かせてくれないか?」
リアンセは小さく頷いた。
「本当は、『王立律政学院』に通いたかったんです」
王立律政学院は、魔技学院と同じく、このテルノアにある学校だ。
魔技学院が魔術・武術という、いわゆる『力』を身につけるための学校だとすると、律政学院は『知識』を身につける学校で、文官や法律家、行政官、王族補佐官など、筆一本で国を支える力を育てる学府だ。
そして、テルノアで魔技学院に続く二番目に大きな学校で、対となる存在として知られている。
「律政学院となると、法律家とか補佐官とか?」
「はい。本当は僕、王様の補佐官になれたらいいなって思ってて」
「すごいな!素敵な夢じゃないか」
ノエルは明るく褒めるが、対してリアンセは顔を暗くした。
「でも、父が許してくれなかったんです」
「リアンセの親父さんも騎士団にいるって言っていたな」
「はい。父は、僕に騎士になってほしいと思っているんです。だから、昔から本を読むことよりも、外で身体を鍛えることを強要されてきました。魔技学院の入学前に王族補佐官になりたいと言った時は『お前なんかが無理だ』とはっきり言われて。知識が足りないのは父が本を読ませてくれなかったせいなのに、まるで僕は頭が悪いから、騎士になるしかないと言われているようです」
話す言葉には、父親に対する反発心を孕んでいるように感じた。それはきっと当然の反応だ。
子どもはやがて親から離れて一人で生きていく。それが生物に与えられた本能だ。そして、それはきっと親が思っているよりも早く訪れるのだろう。ノエルもそうだった。
自身の力で立てないもどかしさ、息苦しさ。しかし、親もまた子を守る責任がある。それは時に、愛情とは言い難い代物かもしれない。未熟な心を、不本意に傷つけてしまうことは事実、あるのだ。親もまた、我が子を守りたいがために、まるで子どものようにわがままになってしまうのかもしれない。
ノエルは、リアンセを過去の自分と重ね合わせた。そして、彼が今どれだけ苦しんでいるのかが痛いほど感じられた。
「その気持ち、痛いほどわかるよ」
ノエルは続けて言った。
「君の本音を親父さんにぶつけてみたらいい」
しかし、リアンセは首を横に振る。
「何度もぶつけました。でも、何度も否定されてきました。うちの父は、ノエルさんのお父さんとは違うんですよ……」
泣きそうな、震え声だった。そしてハッとしてノエルに謝る。
「す、すみません。ノエルさんのお父さんのことを悪く言うつもりはなくて」
「わかってるよ。謝らなくていい。それが今のリアンセの思いなんだから。自分の気持ちを否定しちゃいけないよ」
「はい……」
「リアンセ、君はきっと才能ある人物だよ。今、やりたいことを伝えないと、いずれ大人になった時にやりたいことがない人間になってしまうかもしれない。君はずっと誰かに謝っている。それが当たり前になってきてしまっている。それは、自分の心を自分で否定して、何もない自分を肯定することになってしまうんだよ。たとえ殴られても、自分のやりたいことを声に出し続けるんだ。聞き分けのない親なら、そう言ってやればいい。親は子どもが思ってるほど完璧な人間じゃないんだろうからさ、親を叱りつける勢いで行けばいいよ」
それに対してリアンセはクスッと小さく笑った。
「さすがに殴ることはしませんよ、うちの親は」
「そうか。じゃあうちの親より理性があるな」
「えっ、殴られたんですか?」
「そうだよ。養成所に行きたくないって喧嘩した時に。まったく、酷いよな?暴力で言うことを聞かすなんて、子どもは親の奴隷じゃないのに。なぁ、そう思うだろ?」
「あはは……。そうですね、でもさすがに言い過ぎですよ。きっとノエルさんのお父さんにも何か考えがあったんじゃないんですか?」
リアンセがそう言った時、ノエルはニヤリと笑った。
「もちろん、ちゃんと向き合って話したから、父さんが何を思っていたのかわかったよ。だからきっと、リアンセも知ることができるよ」
「え……」
「ちゃんと向き合おうとすれば、親父さんも向き合ってくれる。少なくとも、手が出ない親は手が出る親よりマトモだ。それに、リアンセの親父さんも騎士団所属なんだろう?」
ノエルはリアンセの背中を強めに叩いて明るく言う。
「騎士はな、何があっても理由なしに人を傷つけたりしないもんなんだ。話し続ければ、絶対にわかってくれるさ」
その言葉は少しだけリアンセの心をほぐしたようだった。
「ありがとうございます。ノエルさん」
まだ完全には不安や心配を取り除けてはいないが、ノエルは微笑んだ。
「やっと、『ありがとう』って言ってくれたな」
謝ってばかりだったリアンセは、小さくハッとすると、ノエルを見てぎこちない笑顔を返した。
「おーい、リアンセ!」
遠くからぱっと明るい声が響く。振り返ると、リラとメルアがこちらに来ていた。リラは少し呆れたように言う。
「練習しないで何しているの。もう日が落ちたよ」
「わたしお腹すいちゃった。ねぇ、リアンセ、ご飯食べに行こう?」
メルアはリアンセの手を引っ張る。
「ちょ、ちょっと待ってよ、メルア」
「ノエル、わたしたちも行こう」
「ああ」
ノエルとリアンセは立ち上がった。メルアがリラに尋ねる。
「お二人も食堂へ?」
「いいえ、わたしたちはまだやることがあるの」
「そうですか」
リアンセはノエルに向いた。
「ノエルさん、ありがとうございました」
「こちらこそ」
リアンセとメルアは二人にお辞儀をすると、その場を去っていった。
「行こうか」
ノエルとリラは反対方向、校舎に向かって歩き出した。