悩みの除草剤
「そこを何とか……どうしてもダメですか? お願いします、何卒、何卒……」
ふと顔を上げると、小学生の集団が、横断歩道を横切って行くところだった。僕は歩道の片隅で、端に追いやられるみたいに肩身を狭くして、彼らが通り過ぎるのをジッと待った。何て元気な奴らなんだろう。そのエネルギーは何処から生まれるのか。はち切れんばかりの笑顔と、悲鳴にも似た歓声が曲がり角の向こうに消えて行った後は、辺りが急にお通夜みたいに静まり返ったような気がした。
通話は切れていた。ゲリラテロみたいな電話営業に、先方もさぞかし嫌気が差したのだろう、もう一度掛け直すと、案の定通話拒否されていた。いつの間にか信号は赤に変わり、痺れを切らしたトラックからクラクションを鳴らされる。僕は慌てて向こうに走った。
「はぁ……」
自然とため息が出る。路の向こうからは、また別の小学生の集団がやってくるところだった。ちょうど下校の時刻と被ったようだ。一体何がそんなに面白いのか、まるで台風みたいな騒がしさである。
良いなぁ彼らは……悩みがなさそうで。
横目で彼らを見ながら、僕は再びため息を漏らした。僕にも幼かった頃はあったはずだが、そんな時期はとうの昔に過ぎ去ってしまった。あの頃はまさか、自分がサラリーマンになるなんて想像もしていなかった。それに、営業のノルマで毎日毎日、こんなに苦しむことになるなんて。
いや、仕事だけじゃない。恋の悩みに、お金の心配、健康面、それに何より人間関係……大人になって、とにかく一筋縄じゃ行かないことが多くなり過ぎて、何かと悩みの種が尽きなくなった。
怒られたことや、ミスを引きずって、眠れない日々も増えて行った。藁にも縋る思いで、高尚な仕事術やら人気の自己啓発本を覗くと、『切り替えが大事』なんて、小学生にも言えそうなことが書いてある。そんなことはこっちだって分かっている。ただ、思い出したくなくても思い浮かべちゃうし、延々と悩みを引きずっちゃうから苦労してるんじゃないか。
あーあ。あの頃はもっと、単純だったのに……悩みなんて、スイッチを押すみたいに綺麗さっぱり忘れて、切り替えられたらどんなに楽だろう……。
「もし……」
そんなことを考えながら道を歩いていると、ふと側から嗄れた声をかけられた。顔を上げると、露天商らしき男が、路に座り込んでこちらを見上げていた。日に焼けた、浅黒い肌の、濁った白い眼をした老人だった。
見知らぬ露天商は、オリエンタルな絨毯の上に色々なガラクタ……もとい商品を広げ、ニタニタと不気味な笑みを浮かべていた。
「もし、お兄さん、どうされました? 今にも隕石が降ってきて、世界が滅亡しそうな顔をして歩いて……」
「え? いや……別に」
「悩みでもあるんですかな? なら、お兄さんにぴったりの商品がありますよ……ヒヒッ」
老人が目を光らせた。押し売りか。僕は戸惑った。どうしよう。自分でも飛び込み営業みたいな仕事をしているので、こうして同じことをやられると、少し同情してしまう。
しかし……どう見ても怪しい。
こんな通学路に、今時露天商がいるだけでも違和感しかない。
老人はニタニタ笑っている。僕は訝しんだ。
まさか、危ない薬か何か売りつけるつもりじゃないだろうな?
「この『悩みの除草剤』があれば……」
「……何だって?」
僕が警戒していると、老人は草臥れたスーツケース……ところどころ破けて穴が空いていた……から、霧吹きスプレーのようなものを取り出した。
「『悩みの除草剤』ですよ。これを悩みの種に吹き掛ければ、たちどころに悩みが消えてしまう」
「…………」
「効果は抜群。半永久的。これでもうお兄さんは死ぬまで、何にも悩むことがなくなりますよ。今ならお安くしときますよぉ……ヒヒヒ」
ミルク色に濁った瞳は、焦点が合っているのかいないのか、とにかく直視し続けるには忍耐のいる不気味さだった。背後がまた騒がしくなる。小学生の集団が無邪気に近づいてきているのが分かった。悩みの除草剤? ……バカバカしい!
「……いくらですか?」
……気がつくと僕は財布に手を伸ばしていた。
※
「ありがとうございます!」
数日後。僕は意気揚々と声を張り上げ、通話を切った。契約成立。これで今月は七件連続だ。早々にノルマも達成し、僕は鼻高々だった。あれほど悩んでいたかつての自分が、嘘みたいだった。
「何や、お前、最近調子良いのぉ」
出社すると、同僚が驚いたような、羨むような目で僕をジロジロと見た。
「何か秘訣でもあるんか?」
「別に……何でもないよ」
僕はそそくさと席を立った。言える訳ない。まさか、魔法の除草剤を使っているなんて……。
先日謎の露天商から購入した『悩みの除草剤』。
安かったから、騙されても良いやと思って買ったけれど、まさかの本物だった。
一体どんな仕掛けなのか、はたまた神の仕業なのか知らないが、悩みの種にスプレーするだけで、悩みが立ちどころになくなってしまう。驚いたのは、直接相手に振りかけなくても効果がある点だ。たとえば電話越しに、飛んでくる相手の声に『除草剤』を撒けば、立ちどころに『購入の悩み』が消えてしまう。
まさに魔法だ。あまりにも便利すぎて、正直誰にも教えたくなかった。
あれ以来、僕の人生は上り調子で良くなっている。仕事だけでなく、好きな人と良い感じになり、宝くじが当たり、健康診断にも引っ掛からなくなった。何より悩みの種が無くなった。種が花開かなくなったのだ。おかげで夜は何の心配もなく、朝までぐっすり眠れる。
嗚呼、悩みがない人生って、なんて素晴らしいんだろう!
僕は1人ニヤニヤ笑いながら、『悩みの除草剤』を、魔法を手にした己の幸運を喜んだ。
※
「え? 解約ですか?」
それからしばらくして。上司に呼び出されて、僕は戸惑っていた。どうやら僕の契約者たちが、「話が違う」と、解約手続きが相次いでいるらしいのだ。中には詐欺被害で訴えると激怒している顧客もいると言う。
「お前が責任持って説得してくれよ」
分かりました、と頷いて僕は会社を飛び出した。ははぁ。どうやら『購入の悩み』は消えたけど、商品の『使用の悩み』は消えなかったらしい。先方に電話する前に、僕はカバンの中から、こっそり例のスプレーを取り出した。
「あとちょっとしかない……」
悩みを枯らしまくっていたせいか、容器は空になりかけていた。買い足しておこうと思って、僕はまず通学路に向かった。
「いらっしゃい」
夕方、露天商はいつもの場所で店を開いていた。絨毯の上には望遠鏡やら地球儀やら、何やら怪しげなガラクタが所狭しと並んでいる。一体何に使うのか、果たしてどんな効果があるのか……いや、それよりも今はあの『除草剤』だ。
「何かお探しかね?」
「あのスプレー、また頼むよ」
「ああ、あれね……」
老人が勿体ぶって咳き込んだ。
「毎度あり。10万円だよ」
「……は!?」
10万!? こないだ買った時は、300円だったのに……僕が呆気に取られていると、老人は例の濁った目を細め、ニタニタ笑った。
「何せ最近物価高でねえ。原材料が手に入らないのよ」
……このやろう、足元見やがって。
何が物価高だ。全然関係ないだろ、お前んとこの商品は!
思わずそう叫びたかったが、必死に抑えて、僕は近くのコンビニに駆け込んだ。大丈夫。お金ならある。この間宝くじが当選したのだ。だが、ATMの前で僕は愕然とした。
「あれっ!?」
僕の見間違いだろうか。預金残高がすっかりなくなっている。
『サイバー攻撃です』
「はぁ!?」
『誠に申し訳ございません。お客様の預金は、サイバー攻撃により0になりました』
「そんな……!」
そんな無茶苦茶なサイバー攻撃があるかよ!?
だけどATMは、機械は同じ文句をひたすら繰り返すのみだった。ふと周りを見渡すと、頭を抱えているのは僕だけではなかった。道端の彼方此方で阿鼻叫喚が沸き起こっている。どうやらサイバー攻撃は本当で、全国的な事件になっているらしい。銀行は電話がパンクして繋がらなかった。
そんなバカな。僕は頭が真っ白になった。こんなことが、現実に……呆然と立ち尽くしていると、彼女から電話がかかってきた。
『ちょっと!』
出るなり、金切り声で捲し立てられる。
『どう言うこと!? 貴方、浮気してたのね!?』
「ち、違う……誤解だよ! それについては、この間話し合ったばかりじゃないか……!」
『最っ低!』
「とっとにかく! 今仕事中だから、また後で……」
今はそれどころではない。何で悪いことって、こう立て続けに起こるんだ。何だか今まで押さえ込んでいた悩みの種が、一斉に花開いて、咲き乱れたような感じだった。
「イタタ……!」
頭が痛い。お腹も痛くなってきた。どうしよう……どうすれば。冷や汗が止まらない。お腹を抱えて蹲ると、カバンから、あのスプレーが転がり落ちてきた。
そうだ!
簡単なことじゃないか。僕自身の悩みを、これで消してやれば良いんだ。僕は急いで、残った液を全て自分自身に振りかけた。たちまち薬品の臭いが鼻を刺激した。
あ〜良かった。これで、僕の悩みは綺麗さっぱり消えるはずだ。
ホッと胸を撫で下ろし、ふらふらと僕が立ち上がると、そこに脇から、突然トラックが突っ込んできて……。