第十八話 青い狼②
ながい
男は、見知らぬ女が伏せているのとは反対側のベッドサイドに回り込み、その場に膝をついた。
伸ばした右手で頬に触れ、不意に漆黒の瞳を大きく見開いた。
「なぜ……っ! 尽きるには、まだ……、……っ、……すまない。本当に、すまない……」
くしゃりと顔を泣きそうに歪めて、男は頬に触れていた手を鋭い犬歯で噛みちぎった。
滴る血を口に含み、眠っているカーヤに顔を近づける。
首の後ろに手を回して僅かに上体を起こす。小さく喉が動いたのを確認して男は祈るように呟いた。
「どうか、もう少し自分を大事にしてくれ、カーヤ」
赤く濡れた唇を舐めとり、男はそっと彼女を横たわらせて布団を整える。
「……か……、…………い……じゅうの……、……いが……」
唐突に、消え入りそうなほど弱々しい声に男はびくりと肩を震わせた。
僅かに瞼が押し上げられ、澄んだ湖のように綺麗な瞳が覗く。
起きることは想定していなかった男は、逃げることもできずただその場に硬直することしかできない。
――不意に、室内であると言うのに風が吹いた。
肌を撫でる程度の弱々しい風が、屋根や壁という障害に妨げられることなく天高く吹き上がる。
その風は、人間には伝わっていないはずの魔法に終止符が打たれたがための余波だ。
顔にかかる漆黒の髪を手で払いのけ、険しい顔で周囲の状況を探った男は、眉間に深い皺を刻む。
辺りに残る魔法の残滓は二つ。
ひとつは雨を呼ぶ禁呪の。
もうひとつは、雨を遠ざける禁呪の。
「――だれだ、禁呪を教えた奴は」
苦々しい声で呻いた男は、青緑の瞳に映る己の姿を隠すように、彼女の目元を手のひらで覆った。
手のひら越しに伝わる、敬愛してやまない恩人の温もりに男はふと表情を緩めた。
「カーヤ。どうか、もっと自分を大切にしてくれ」
祈るように呟いて額に唇を当てた。
新たに刻み込まれた守護の刻印に、男は安堵の笑みを零す。
「できれば、もう魔力枯渇状態で倒れないでくれ。心臓がいくつあっても足りない」
そう語りかける男の手のひらの下で淡い光が弾けた。
男はそっと手を頬へと滑らせ、指先でつまんだ。
「…………軟らかい」
今しがた行使した安眠魔法の効果もあって深い眠りに落ちているカーヤの頬を無心で揉んでいると、ひとりでに開かれた窓から疑問が投げかけられた。
「その娘のただならぬ気配は貴方様のものでしたか。――お言葉ですが、この世界の幻獣の頂きにある貴方様が、なぜその人間の娘を構うのですか」
ぴたりと手を止めて、何ごともなかったかのような顔で手を離す。
今更隠さなくても、とセアナトは呆れた視線を向けた。バンルーカクは突如として現れた気配に恐れをなしてセアナトの毛に身を潜めて息を殺している。
「――少し前に、世話になった。それだけだ」
「それだけ、というわりにはお気に召しているようですが」
男がぐっと言葉に詰まった。
言葉を探すように男の漆黒の瞳が宙を彷徨う。
「こ、此度のことについて……どうせ一部の愚かな人間が同朋に手を出して禁呪を使わざるを得なかったのだろう。その禁呪を禁呪で相殺すべくこの娘が魔法を同朋から聞き出して行使した、といったところか」
「ご明察ですね。肩入れされるほどのことはあります」
男が再び言葉に詰まる。
あまりにもわかりやすい様子にセアナトは嘆息を隠せなかった。
「嫁にでもとるおつもりですか」
「っ……、……よ、用事を思い出したので失礼するっ」
焦りを隠せない声で宣言した男の姿が消えた。
室内をふたつの穏やかな寝息が支配する。
一方的に話を打ち切られたセアナトは、尻尾でぺしんと地面を叩いた。
「大事なら大事だと、早々に触れ回れば良いものを……。確かに、幻獣の中には大の人間嫌いもいます。それを憂えてのこととは想像はつきますが。それにしたって、おかげで入らぬ警戒を……いえ、あの娘については警戒しておくに超したことはありませんね」
なにせ、言動が正気の沙汰ではない。
恐る恐るセアナトの毛から顔を出したバンルーカクは小さな首をせわしく動かしておっかない存在がいないことを確認すると、軽快に窓枠に飛び移った。
身体を左右に揺らしながら振り返ったバンルーカクにセアナトは視線を近づけるように身体を伏せた。
「気は変わらぬのか」
「きゅいっ」
「お前が気に入った人間はともかく、一緒にいる恐ろしい人間がいれば、また先程の恐ろしい奴に遭遇する可能性はある」
「き、きゅう……きゅ!」
怖じ気づいたように毛を逆立てたバンルーカクは、けれども意を決した顔で鳴き、室内に飛び降りた。
眠るロナの足に飛びついて器用に肩の上までよじ登る。
「――わかりました。同族には私から伝えましょう。ただし、緑の髪の娘には気をつけなさい。不用意に近づいてはなりませんよ」
ぺこりと頭を下げるバンルーカクに柔らかく笑い、セアナトは腰を上げた。
向かいの屋根に向けて地面を蹴り、宙を駆ける。幻獣の王が現れたあたりから様子を窺っていたグゥの横に降り立つ。
今もなお殺伐とした空気を醸し出しているグゥにセアナトは苦笑した。
「あの娘だけ助かったのが許せませんか」
「…………別に」
投げやりな荒々しい口調が、その言葉とは裏腹にグゥの本心を如実に物語っていた。
だがセアナトはそんなものは興味がないと言うように素気なく告げた。
「ならばさっさと各々の住処へ戻りましょう。――あの人間は、近づいてはならぬと、正しく伝えねばなりません」
「幻獣の王のお気に入りという、良いご身分だしな」
「いえ。普通に言動が気持ち悪いのでうちの子らに近づけたくありません」
両者の間に沈黙が降りた。長い長い沈黙の後で、グゥはようようと口を開く。
「……それもそうか」
羽を大きく広げてグゥは空高く舞い上がる。
セアナトも宵闇を疾風の如く駆け抜けて街を後にした。
窓を照らす明るい光が瞼の裏を刺激する。
瞼を震わせてゆっくりと目を開いたカーヤは、ゆっくりと身体を起こす。
痛む節々に顔をしかめながら室内を見渡し、かくりとうな垂れた。
「珍しい幻獣に会った夢は、相変わらず夢だった……」
なぜ夢は現実ではないのだろう。どうにかして見た夢を現実で再現できないだろうか。
珍しい幻獣、というのがなんの幻獣なのかは覚えていない。正体を知らない。とても端正な面立ちの人の形をした、人ではない存在。
昔から、魔法を使い続けて魔力枯渇でぶっ倒れる度に見る夢に出てくる幻獣がいる。その正体を知りたいがためにあえて魔力が枯渇するまで使い続けた時期もあったが、倒れている間はまともに動けず意識も朦朧として正体を確認するどころじゃない。――という至極当たり前の事に気が付いてからは、積極的に枯渇させることはしなくなった。
学園でそんなことをすれば流石に叱責が飛んでくるため、あの幻獣を見かけたのは三年ぶりだ。
不意に、軋んだ音を立てて扉が開いた。
ふと顔を上げると、今まさに部屋に入ろうとしていたロナと視線が交わる。
「…………カーヤ?」
「あ、おはよう、ロナ」
カーヤはからりとした笑顔を向けた。
だが、予想に反して返答はなく、入り口で茫然とするロナに首を傾けた。
町娘のような簡素な格好で、桶を両手に持っている。
遠目でも分かるほどどこかくたびれているように見えた。
「あれ、なんかやつれた?」
不思議そうに首を傾けるカーヤに、ロナは表情をかき消してベッドサイドに移動する。
サイドテーブルに桶を置いて、そして凍てつきそうなほど冷たい視線でカーヤを見下した。
ロナの態度の理由も分からず、絶対零度の視線に首をすくめたカーヤは、へらへらと笑みを浮かべながら尋ねた。
「えーっと、ロナ……ロザンナ様?」
「――三ヶ月」
「ほへ?」
「教会地下に存在していた幻獣売買組織の拠点に突入してから、三ヶ月はゆうに過ぎましたの」
盛んに目を瞬かせたカーヤは視線を上に向けた。
最後の記憶は、洞窟で魔法を唱えたとき。つまり、ロナたちが拠点に突入したとき。そこから三ヶ月。
――つまり、今、自分は生きている。
カーヤは首を傾けた。
そういえば、なぜ生きているのだろう。術者の命と引き換えに発動する類の、幻獣の魔法だと推測していたのだが違ったのだろうか。
条件を満たさなかったから、魔法としては不完全だった?
それとも、誰かが代わりに……はありえない。あの四つ目の梟はそんなことで命を差し出すような幻獣ではない。
埒の明かない疑問を脇によけて、カーヤは素直に感心の声を上げた。
「魔力枯渇でぶっ倒れて三ヶ月とは、最長記録更新だねえ」
「言うことはそれだけですか?」
底冷えしそうなほど静かな怒気を孕んだ声が放たれる。
だが、カーヤは何食わぬ顔で疑問を投げかけた。
「キオラモンはどうなった?」
ロナの目が、カーヤの態度を叱責するようにすぅっと細められた。
「……未練はご遺体ではなかったようで、他人に見られる前にセアナト様が燃やしてくださいましたのでその点はご安心を。キオラモンの生前の方……ルート様はやはりあの廃墟のご住人だったようです。もう少しで絵が完成する、という直前で襲われてなくなってしまったそうで、絵を完成できなかったことが心残りだったとか。幻獣の違法取引だけではなく窃盗も行っていたようで、盗品に書きかけの絵がございました。無事に完成し、すでに風の神の御許に還られています」
キオラモンから聞いたにしては、やけに詳しい。幻獣は成長とともに人間の言葉を操れるようになるそうだ。理解しないと身に危険が及ぶ可能性があるために覚えるのか、あるいは幻獣特有の魔法で言語翻訳が可能なのか。詳細は不明だが、幻獣が人間と意思疎通が可能になるまで、ある程度成長期間が必要になる。
「キオラモン、話せるようになったの?」
「いえ、生前、ルート様に取り憑いて生命をいただく代わりに、芸術における才を貸し与えていたと仰る美しい女性の幻獣様が」
「リャーナシン!? リャーナシンいたの? ほんとに!? 私会ってないよ!? 会える!?」
「すでにこの街から立ち去られていますので不可能です」
「なんてことだ……あ、じゃあセアナトは? ほかの珍しい幻獣さんたちは!?」
食い気味に問いを投げかけるカーヤに冷めた視線を向けながら、それでもロナは律儀に返答を続けた。
「ほかの、と言われましても、キオラモンとともにいた幻獣はその方だけですので、存じ上げません」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ眠ってる間に全部終わってるぅぅぅぅぅぅぅぅ」
両手で顔を覆ってカーヤはベッドに転がり回った。
お礼に軽く囓って貰おうと思ったのに、といつもと変わらぬ奇声を発する相方に、ロナは深々とため息を吐きだした。
「そこまで元気ならば、ギルドへ行って事情聴取も可能ですわね。カーヤが単独行動していたときの話や倒れた時のを聞きたいそうです」
ぴたりとカーヤの動きが止まった。
避けられた両手の下から出てきた表情は、酷く不満げに歪められている。
「わたくしも、倒れていた件についてはきちんと説明していただかねば気が済みません」
「んー……、……悪いけど、それはなし」
「ふざけているのですか」
「面倒っていうのも確かにあるけど」
ロナの口元にすっと笑みが浮かぶ。けれどもその青い瞳はカーヤの言い分に対する不快を滲ませている。
カーヤはその目をまっすぐに見つめ返し、抑揚のない声で告げた。
「あれは闇に葬り去るべきもの。それについて一切口外するつもりはないよ」
どういう事象を引き起こすかだけ知っている、幻獣特有の魔法。
音を覚えて暗唱して、それで人間が使えるかどうかは一つの賭けだった。
その賭けに勝ったのは、窓の外を見れば一目瞭然だ。
それが善良でない人間の耳に噂としてでも入れば、害獣を捕まえて聞き出そうとする輩は必ず出てくる。そういう輩は、聞き出すことに成功したら悪用するのが世の常だ。善行として利用することがほぼ不可能な魔法だからこそ、天災を引き起こす魔法を人間も使えることは、黙秘すべき事実。
――カーヤはギルド長をよく知らない。会ったばかりで当然だが、そこまで信用していない。だから、魔法の誓約を前提とした話をするつもりはないのだ。
ロナに告げないのは、今回の件で勘のいい人は辿り着くかもしれないため、それによるリスクを背負わせないためだ。
それ以外で話せることは、幻獣に導かれて洞窟に辿り着いたということだけ。キオラモン――ルートという絵師の男の遺体については話せるわけもない。
強いて言うなら、麻痺作用のある薬草で敵を無効化した、という話はできるだろうが、詳しい作用を知っている理由を問い詰められるのは困る。幻獣に効く薬草も一般的には知られていないのだ。カーヤの一存で離すことはできない。
揺らがぬ強い意志を灯した瞳に根負けして、ロナは諦めたように額を押さえた。
「分かりました。ギルドには私から話を伝えておきます。医師を呼ぶのでそれまで安静にすること。いいですね?」
「はーい」
元気よく返事をしたカーヤは腕だけ上げて手を振る。
だが、予想に反してふと足音が止まった。カーヤは肘を突いて上半身を起こし、扉を見つめる。
「ロナ?」
「――あなたにとっては数日前のことでしょうけれど、わたくしにとっては三ヶ月前のことですの」
唐突に語り出した意図を掴めず、カーヤは訝しげな顔をしながらロナの背中を見つめる。
「この三ヶ月で、わたくしはわたくしなりに調べて、聞いて、活動したつもりです。その上で――今後とも、よろしくお願いしますわ、カーヤ」
ゆっくりと言われた言葉を噛み砕く。
思い出したのは、狩人として一緒に活動する前にした約束だ。
一ヶ月間、狩人として活動してロナが身を立てられるかどうか試してみる。
たしかに、ロナの言うようにカーヤにとっては数日前のことで。
けれども、ケールピ退治の直後とは異なり、毅然とした姿に自然と笑みがこぼれた。
結局自分はなにもできていないが、公爵令嬢であったロザンナは、ロナとして身を立てる術を選んだ。
眠っていた三ヶ月で何があったのかはわからないが、それはロナにとってはいい変化なのだろう。
その思いを拒絶する理由はないが、自分にそれほどの価値があるのだろうか。前を向き始めた彼女のそばに、自分がいても良いのだろうか。
三ヶ月も活動したのならば独立できる、あるいは他にパーティーを組むことも可能だろう。
なぜ、わざわざ自分の所にいるのだろうか。
頭をよぎった疑問を貼り付けた笑顔で覆い隠した。
それは、聞いてはいけない質問だ。いらぬ諍いを招く言葉。それは全て飲み込んで、相手の望む言葉を述べればいい。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それはそれとして、リムに手を出したら容赦なく報復致しますので覚悟しておいてくださいませ」
「え? リム?」
カーヤの疑問を余所に、ロナは部屋を退室した。
よく分からない言葉とともに放置されることとなったカーヤは、頭を占める疑問に静かに思考を巡らせる。
身を立てる術が見つかったら離れるものだと思っていた。見ていられなかったから無理矢理連れ出しただけ。そのまま放置するには下町を知らなさすぎたからあれこれ手を焼いただけ。
カーヤとて一応貴族の端くれだった。だから、平民の生活で知らぬことはある。だからこそ余計な提案はせず、平民の生活を学びつつ実力次第で身を立てることも可能な狩人を押した。
生計を立てられるほどの実力があるならば、ロナはロナの人生を行くのだろうと思っていたのに、まさかそこに自分という存在があるとは想像したこともなかった。
だから単独行動をした。だから死ぬであろう魔法を行使することに忌避感もなかった。
幼い頃にあった幻獣に会いたくて始めた狩人業だが、志半ばで倒れるならそれが自分の人生だったとさえ受け入れていた。
そんな自分といることを選ぶ理由がまず理解できない。だが、ロナが『それがいい』と言うならば、頑なに固辞する理由もない。
どうせ、いつかはなにかが理由で離れる日が来る。それまでは彼女の希望に応えたところで不都合なことはなにもない。これも一つの人生経験と思えばいい。
カーヤはそう自身を納得させ、ベッドに四肢を投げ出した。
――後日。ロナがリムと呼んだものの正体がバンルーカクと知り、けれども一切の接触を拒絶され、私は何もしていないのに、とカーヤが意気銷沈するのはまた別の話である。
読んでいただきありがとうございます。