第十話 宝石の栗鼠②
「きゅいぃぃぃぃぃっ!」
威嚇音を立てながらバンルーカクが指を掴んでかぶりついた。肉を断ち、骨を削るように前歯が何度も小指を噛む。
カーヤは眉根を寄せながら指をさらに奥へ押し込んだ。
苦かったのか、大暴れして指に何度も歯を立て爪でかいて抗議するバンルーカク。
カーヤは慎重に指を引き抜いて、即座に浮かばせた不定形の水球に手を入れた。水の塊の中に赤い筋がいくつもできる。
「カーヤ、指が……!」
「そのまま抑えてて。左足固定してしまうから」
自分の怪我なんて些細なものだ。
カーヤは水球から右手を出して、小指の痛みに眉をわずかにひそめながら拾ってきた枝を小さく削る。
そして鞄の中から新たな布を取り出し、短剣でそれを細く裂いた。
「きゅい、っ、ぎゅぎゅぅぅぅぅ!」
「お、落ち着いて。この子は確かにちょっと変なところはあるけれど、傷つけようという意図はないわ」
「ぎゅぎゅぎゅぎゅぐ、ぎゅいっ!!」
「囓られないように気をつけて持っててね、ロナ」
「ま、待ってくださ――」
カーヤは、ロナの手の中で暴れているバンルーカクの左の後ろ足に容赦なく触れた。
幸い、あの即席の丸薬はきちんと飲み込んでくれていたようで、バンルーカクの暴れように大きな変化はない。
幻獣にのみ有効な即席の消炎鎮痛薬が、無事に即効性を発揮したことにカーヤは口元に笑みを浮かべて手早く手を動かす。
裂いた布でぐるぐる巻きにして固定する。ついでに、あちこちにあった傷口を濡らした。粉末状に砕いたヒケイに少量の水を加えて固め、傷口にぺとぺとと貼り付ける。
「きゅ……?」
バンルーカクが鼻をひくつかせながら、訝しげに鳴いた。
爪を立ててひっかこうとしていた手がゆっくりと下ろされる。
薬を塗りたくったカーヤは手当てを終えて、両手をぱっとバンルーカクから離した。
くるりとした丸く赤い瞳に見つめられて、カーヤは目元を和めた。
「痛みを和らげただけだから、薬が切れたらまた痛むし、聖獣と言っても治るまでには時間がかかるんだから無理に動かないこと」
注意点を一通りのべてカーヤは一度言葉を切った。
欲に満ちた笑みを深めて左手の小指を差し出す。
「お礼なら是非もう一回、小指を囓ってください」
「いいかげんになさいませ」
ロナがカーヤの手をはたき落とした。
眦を釣り上げて、濃紺の瞳には不快を滲ませて、無言で威圧するロナからカーヤはすっと視線を逸らした。
叩かれた手の甲を撫でながら唇を尖らせる。
「バンルーカクなら、小指の先くらいなら差し上げてもいいじゃないですか」
「よくありません。自分の身体を大事になさいと何度言えばわかるのです!」
「自分の身体より幻獣です。だって見てくださいのこの愛らしいつぶらな瞳を」
カーヤは左手でバンルーカクを示した。
「紅色に輝く額の宝石もさることながら、宝石と同じく美しい赤い瞳、軟らかな胸毛、艶やかな体毛。そして手のひらに収まるほどの小さな身体に、ふさっとした尻尾。どれをとっても秀美かつかわいらしい容姿であることは周知の事実……! そんな一言では表現しきれない数多の神秘的生物の血肉になれる、それ以上の喜びはありません!」
「…………以前は確か、幻獣に囓られる体験は貴重だから、と仰っていませんでした?」
その話を聞いたのもつい最近なのだが、ここ何日かで価値観が変わった、にしては少々思考が過激な方へ傾いている。
引きつった顔をしているロナに気づかず、カーヤは浮ついた声で告げた。
「シャルルさんのお話を聞いて思ったの。彼の価値観とは相容れないけど、彼が幻獣の首を集めることを好むならば、私だって、私の養分の一つを幻獣に捧げても許されると思いませんか!?」
「まったく少しも欠片ほども思いませんわ」
「えへへへへ。ならこの喜びは私だけのものということですね!」
両手で自らの頬を包み、陶然とした笑みを浮かべて、カーヤが身体をくねらせる。
反論を五万と飲み込んで、ロナは深く肩を落とした。
「絶対に会わせてはならない人を、出会わせてしまったようですね……」
ぼやいて遠くを見つめるロナの手をふさふさした毛が労うように叩く。
その赤い眼には同情の色が宿っており、ロナは小さく口元を綻ばせた。
「わかってくださいますのね。本当に、彼女がごめんなさい。悪い子ではないんですのよ。少々、いえ、結構、かなり、幻獣に関しては常軌を逸脱しているだけで」
依頼を受けたのは今回が二件目だというのに、すでに散々振り回されている気がする。主に精神面で。
疲労を滲ませた顔でロナはバンルーカクの頭を撫でた。
「いいですか。確かに密猟や売買をするあくどい人間もいますが、あのように幻獣のこととなると常識の範囲を超えてなにをしでかすかわからない奇人変人もいますの。今後はどうか、どうか人間には捕まらないように安全な場所でお過ごしください」
「きゅいっ!」
「はい、どうしました! 囓ってくれる気になりました!?」
鳴き声を上げたバンルーカクに反応して、カーヤが意気揚々と顔を近づける。
それを押しのけてロナは数歩下がった。
「こちらの話です。カーヤ、この後はどうするのです?」
「まずは左の指を囓ってもらって」
「それは相方権限で却下致しますわ。まずは囓られた右手を手当てなさい」
カーヤが右手を持ちあげてじっと見つめる。
次第に緑青色の瞳が涙に潤んだ。
「痛い…………」
ものすごく痛い。
今思い出したけど、囓られたから当然痛い。痛くないわけがない。
ぽろぽろと涙を流しながらカーヤは鞄から応急用の救急動具を取り出した。
「痛いねぇ。痛いけど、聖獣バンルーカクに囓られた痛みと思えば、嬉しさのあまり別の涙が出てくる」
「…………手遅れですわね」
「きゅいぃぃ……」
妙に連帯感のあるロナとバンルーカクに一抹の嫉妬を抱きつつ、カーヤは軟膏を塗布して上から布で巻く。
「さ、手当ては終わりましたので是非バンルーカク様にはせめて甘噛みをお願いしたく!」
「諦めませんわね!?」
庇うように胸に抱きしめて後退るロナにカーヤはじりじりと距離を詰める。
「だって世にも珍しいバンルーカクですよ。今後で会えるとは限らないので記念にもう一回くらい噛まれて徳を得なければ!」
「きゅきゅっ!」
ロナの手の中でバンルーカクが首を小さく横に振る。
「大丈夫です、私にとっては噛まれることそのものが徳なので!」
「カーヤ。たしかセアナトの所に向かうのでしたよね。どうやらご準備する気がないようなので、わたくしは先に参りますね」
踵を返したロナに、カーヤはいつもより不自由な右手に苦戦しながら荷物をまとめる。
「わー、待って、待って、ロナだけ先にセアナトのとこに行くなんて、そんな羨ましいこと独り占めさせないから!」
「きゅぅきゅぅ……」
「あんな変態さんは置いておいて、早くセアナトのもとに生きましょう。同じ聖獣ならば、きっと悪いようにはしないはずですから」
「きゅい!」
バンルーカクの機嫌の良い声が聞こえる。
カーヤは鞄を背負い、ロナの後を追って小走りに走った。
「ねぇねぇバンルーカク様、街中にいたのって、捕まって閉じ込められた場所から逃げ出したからですよね」
「…………ぎゅい」
威嚇混じりの返答にカーヤはロナを見上げた。
「どっちでしょう、これ」
「この子、あなたに近づいて欲しくなさそうなので二歩ほど下がって頂けます?」
「ロナまでそんなこと言わないで」
「自業自得ですわ」
ぴしゃりとはね除けられてカーヤはロナの斜め後方へ下がる。
「その子を連れて行く気はないけど、どうにか入り口が分かれば良いなぁって」
「どうにかって、どうするんです? こちらの言うことは伝わっているようですけれど……はいといいえはなんとなく理解できますが、それ以上となると」
「きゅいっ、きゅぅぅ、きゅ!」
人の言葉を話す聖獣は存在する。
今向かっているセアナトもその一匹だ。とはいえ、翻訳してくれと言う身勝手なお願いを受け入れてくれるとは到底思えない。
頭を悩ませながら街道脇の森を抜けた。
大きな街道の北には街の門が小さく見える。
その反対。
聞いていたよりも街に近い位置に、それはいた。
空のように青いたてがみが風に揺れる。白銀の毛は泥や暗赤色のもので汚れているにもかかわらず、気高きたたずまいは汚れることなく、そこにあった。
怒りと警戒が見え隠れする深い青の瞳を見上げてカーヤは浮かべた笑みを蕩けさせた。
「セアナト様だ……!」
「ぐるぅぅ……!」
牙を剥いて頭を低く下げながら、セアナトが低く唸った。