第一話 水辺の魔獣①
二人の少女が森を歩いていた。
馬のような顔と前足、胴体は魚のようにな幻獣にせっつかれて、少女たちは苔むした根を乗り越える。枝から下がる蔦を手で払いのけ、背丈ほどの草木をかき分けて前に進む。
開けた場所が出た。陽の光を反射して煌めく水面がある。木漏れ日に囲まれた小さな湖が揺れる。
後頭部の上の方で一つにくくられた、背中まである金色の髪が靡く。
吹き抜ける爽やかな風に心が遠くへと運ばれていくような開放感に、顔にかかる髪を手で押さえながら金髪の少女は陶然と息を零した。
「綺麗な場所ですわね」
その傍ら。後ろにいる馬の大きさほどの馬のような、けれども馬ではない生き物と湖を見比べていた緑髪の少女はしたり顔で頷いた。
「やっぱり」
「カーヤ、わたくしにも教えていただけますか。この子はなんという幻獣なのです?」
カーヤは手のひらを上に向けてその幻獣を指し示し、淡い緑青の瞳に溢れんばかりの愛をのせて微笑んだ。
「ロナ、この子は水辺に住まう幻獣です。こうして人間をおび寄せて水の中に引きずり込んで溺死させます。つまり、今回の討伐対象である魔獣ケールピですね」
沈黙が降りた。
金色の睫毛をぱちりと上下させたロナがくっと濃紺色の目を見開く。
「今の状況、かなりよろしくないのではありませんこと⁉」
「はい!」
気色に満ちた声で頷きながら、カーヤは背負っていた荷物を下ろして湖の方へ退く。
「嬉しそうな表情で頷かないでくださいましっ! 命の危機ですのよ⁉」
叫びながらロナは腰に佩いた剣を引き抜いて片手で構えた。
その敵意を受けてケールピが咆哮を上げる。
痺れが二人の少女をその場に縫い止めた。
指もまともに動かせない中、カーヤは恍惚とした表情を浮かべた。
「やはり幻獣様はすごいです」
この世界に存在する幻獣。その善なる幻獣を聖獣、悪なる幻獣を魔獣と呼ぶ。
聖獣は四方の王と中央の大山に聖獣を統べる王が存在すると言われているが、その昔、聖獣狩りが横行し、報復として国が多数滅亡していこう、不可侵の掟が定められている。その一大事件から数百年、聖獣たちが聖地から出てくることはほぼない。
だが、魔獣はどこにでも存在している。人間の命を啜り自らの糧にするため、人間を守るべく専従の狩人が生業として成り立つほど、その存在は認知されている。
一部の上流貴族を除いて。
「風神よ、その御手に――っ」
額を前に出して馬が突進を始め、顔を引きつらせたロナの詠唱が止まった。
カーヤは今まで金縛りにあっていたのが嘘のような速さでロナを横から突き飛ばした。
ロナに向けた手のひらが淡く白光を放つ。
「カーヤ!」
焦ったようなロナの声が、どぷんと水にかき消えた。
馬の頭を抱えるように腕を回して相好を崩していたカーヤは手を離した。
水が四肢に絡みつくように拘束し、湖底へと誘う。
嘲笑うケールピにカーヤは微笑を向けた。手のひらを魔獣に向け、ゆっくりと握りしめる。
余裕綽々と泳いでいたケールピは、しかしその余裕をかき消して身を捩った。
湖底へ引き込む力が弱まった隙に拘束を振りほどき、緩やかに手を振る。
直後、ぷちん、とケールピが潰れた。
魔獣の血が赤く広がっていく。
カーヤは息苦しさに眉根を寄せ、水面へ向かって上昇した。
水面から顔を出したカーヤは大きく息を継ぐ。
水辺で無表情に佇んでいる相方に親指を立てた。
「始末完了です」
「…………まず、湖から上がったらいかが? 風邪を引きますわよ」
凍てついた視線に物怖じすることなくカーヤはへらりと笑った。
赤い水面をかき分けて岸辺に寄り、水の中から左手を持ち上げる。
「ケールピの前足も無事に確保しましたよ」
「……討伐証明として必要とは言え、よく持てますわね」
「言ったじゃないですか。狩人業は慣れてるって」
岸に上がったカーヤは差し出された袋に前足を入れた。
「自らを危険にさらすことも厭わず水中遊泳を楽しんでおられたので、てっきりお遊びなのかと」
口調は淡々としているが、その目には僅かな怒りが宿っている。
そのロナの後ろで、魔獣がいなくなってできた湖の宿主たちが怒りの形相で浮かんでいた。
カーヤは頬が緩むのを止められなかった。
「そんなロナに朗報です」
全身から水を滴らせながら立ち上がり、ロナの背後にいるやや身体の透けた幼い男女を手のひらで示した。
振り返ったロナが小さく息を飲む。
「そちらは水の事故で死んだ女性の無念が固まり生まれた精霊をルルサーカ、男性の場合ならばジャノイーヴォと言います」
にこやかな笑顔でカーヤが告げた。
怒りの形相をしている精霊たちからゆっくりと目をそらし、ロナはカーヤに尋ねる。
「精霊、ということは人に仇なす者ではないでしたわよね? 皆様、とても怒っていらっしゃるような気がするのですが……?」
「暴言を吐いたり水を汚したり、乱したり、怒らせれば溺死させられます」
敵意に満ちた目の、腕の長さほどの小人がカーヤを取り囲む。
「ケールピ退治のためとはいえ、水を、彼らの住処を汚したことに変わりはない、ということなのでしょう」
朗らかに推測を口にして、カーヤは湖に手のひらを向けた。
赤い血が漂う水をごっそりと引き抜いて宙に浮かべた。その中にはケールピの胴体も入っている。
「精霊様方。あなた方の住処を奪ったこちらの魔獣、刺身に加工して皆様に献上したく思うのですが、いかがでしょう? 倒したてほやほたなので今しか味わえない代物と具申致します」
一触即発のような空気を醸し出していた精霊たちが顔を見合わせた。
ひそひそと聞き取れない言語で囁く。
ロナはカーヤに詰め寄った。
「食べられるんですの? というか、幻獣を食べるつもりなのです⁉」
「え、食べますよ、普通に。食材は無駄にしたらダメなんですよ」
「……世界は、こんなにも広かったのですね……」
ロナは天を仰いだ。
ちょうど、精霊たちも議論を終えたらしく、二人に向き直った。二人を囲む輪を広げて、空いたスペースをジャノイーヴォが指し示す。
カーヤは右の手のひらを胸に当て、左手の甲を腰におき、左脚を引いて膝を曲げて礼をとった。
「承知致しました。まずはあそこの荷物を取りに行ってもよろしいでしょうか。あのなかに、作業に必要なものが入っておりますので」
すっと道を開いた精霊たちの間を通って、カーヤは投げ捨てた自分の荷物を拾い上げる。
背負い鞄の中から小さな作業台とまな板、そして短剣を取り出して広げた。
宙に浮かせていた水球からケールピの胴体を引き出してまな板にのせながら地面に座る。
残りの水は許可を得て森のほうへ捨てた。
じっと見つめてくるロナに微笑み返し、カーヤは慣れた手つきでケールピの胴体をさっと三枚に下ろす。
精霊たちの気はあまり長い方ではない。彼らにとって二人は住処への侵入者であるため、見た目よりも速度重視で丸い高坏に切り身を並べる。
入りきらなかった物は上に重ね、とにかく彼らの気が変わらないうちに作業を終えるべくひたすら手を動かした。
不格好ではあるが、切り身を全て高坏にのせたカーヤは相方を振り返った。
「ロナ、一緒に供物を捧げる言葉をお願いしてもいいですか」
「愚問ですわ」
四方か中央にある聖地ではなく、彼らの様に人の近くで生きる者たちも大雑把に魔獣と括られている。だが、礼を失さなければ好んで牙を剥くことはしないため、善し悪しだけで区別するならば、彼ら精霊は聖獣の範疇だ。――人の形をしている彼らを獣として扱うのはあくまで人間たちの便宜上のものである。
カーヤとロナは供物を前に膝をつき、右の手のひらを胸に当てて視線を下げた。
「「創世の女神イェールノリスの名の下に、聖なる者への供物を捧げ奉る」」
定型句を奏上した直後、精霊たちが我先にと高坏へ飛びついた。
破顔してそれを見守るカーヤに反し、ロナは僅かに口元を引きつらせている。
高坏にあった切り身の山は瞬く間に三分の一程に減る。
満足して散開する精霊たちにカーヤは手を振り、高坏をロナに手渡した。
荷物を鞄に収めて背負い、困惑の空気を纏うロナを振り返る。
「こんなこともあろうかと、魚醤も用意してますので、森を出る前に二人で分けましょう」
「……………………本当に召し上がりますの?」
「食べられる魔獣は多くないので、貴重な珍味ですよ」
高坏をロナから受け取り、カーヤは足取り軽やかに森に戻る。
無表情と余計なことを言わないよう沈黙を貫いていたロナは、ゆっくりと彼女を追いかける。
口元を左手で覆い隠し、小さく呟いた。
「わたくし、狩人という職を侮っておりましたわ……」
血を見たことがない訳ではない。だが、剣術の訓練で見たそれと、いま見た現実は異なる。先程まで生きていたものが肉塊に成り果て食されるなど、ロナが今まで過ごしてきた世界からは到底考えられないものだ。
倒れるという失態だけは犯さないように。
その気力だけでロナは覚束ない足を動かした。