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99 1594年1月30日 名護屋城攻城戦7

1594年1月30日 1594年1月30日AM11時30分 進水式々場 式典後の大友義統との銃撃戦


陣幕を挟んでの銃撃戦は1分間で勝敗が決した。6000人の大友隊は僅か6名の鞆幕府隊に屈したのである。死者は100名なので、計算上は1時間で全滅させる事が出来る。

しかし、大友隊は未だ反撃の武器がある。10門に及ぶ大砲(フランキー砲)である。それと大友義統は豊後国を改易と決まった。すなわち収入源が無くなる。いま少し不労所得者を削減する方が良い。


護衛艦(イージス)「まや」型がコッソリ停泊している。自衛隊のイージス艦としては最小であるが全長170m全幅21メートル、唐津の北方の加部島の東の田島神社の入江に巨体を隠している。


62口径5インチ砲のタンタンタンと言う小気味よい発射音が3秒間隔で10発鳴る。こちらではそれだけの話であるが、3キロ南方の大友義統の陣地は大騒ぎになっている。


大友軍兵卒:ズガーン、「うわ~~、大砲が爆発した~~、破片が刺さった。助けてくれ~~」


10門のフランキー砲が爆発する。巻き添えになった兵が50人くらい吹き飛ばされる。


さらに、大友義統軍の伏兵が10人ばかり射殺される。横合いから槍で挑み掛かったが赤外線センサーにて警告音が発せられている。鞆幕府兵が、それらを始末するのは造作もない。


銃殺された100名ばかりの(しかばね)を越えて来る者はいない。総計約160名の戦死で6000名の大友義統軍が(ひる)むとも思えないが、現代兵器の威力は絶大である。何も出来ずに殺戮される不条理が恐怖を通り越した虚無感に変わる。戦闘意欲など無関係に命を奪われる。


大友義統:「これは何とした事、我が軍は虫けら以下か?かようなる殺戮(さつりく)(おそれ)れ多き。」


織田信孝:「大友義統殿、そちが仕掛けた戦にて我らが(こう)したまで。勘違いなさるな。」


大友義統:「なんと我が仕掛けたとは聞き捨てならん。なにゆえ、そう申される。」


織田信孝は右手の指を3本立てた。中指、薬指、人差し指である。これが動かぬ証拠となる。戦国時代は弁明を聞く必要は無い。


銀河ぎんがは全長52.0m、全幅9.4m、定員 450名の遊覧船である。瀬戸内海や玄界灘を航行予定にて先日、鹿ノ島(しかのしま)建設が買い受けた。大手ゼネコンがリゾート開発に積極的に乗り出したのである。

戦国日本にとっては巨額の資金が流入している。(豊臣商事)や(みんなで家主さん)だけでは無い。あのジャポンネットも食指(しょくし)を動かしている。クルーズ船、MSCベリッシマ もリニューアルして奴隷船の面影はない。


その遊覧船・銀河に諸侯30人と大友義統、義乗親子も乗船している。

織田信孝と栗林詩乃陸曹は、次の仕事が有るので乗船して対岸の名護屋城側で降船する。

豊臣秀吉は降船予定だったが、そのまま船に留まる。自衛隊員2名が降船して2名が警備に残る。

無論、20式5.56mm小銃(HOWA5.56)を銃口を降ろしてだが携行している。


小西行長:「これは何とした事、我々も陣屋に戻りとう御座います。」


豊臣秀吉:「いや、それはならん。これより昼食会じゃ。いささか刻限が過ぎたが致し方ない。」


小西行長が自分の手巻き腕時計を見ると午後1時になっている。クオーツでは無い。


銀河3階の展望デッキから諸将が2階のレストランに移りフレンチバイキングを楽しむ。さすがに諸将は帰国して2ヶ月となり、唐津で贅沢三昧をしているので、バイキング料理に目の色を変える事は無い。


島津義弘:「それで船はどこに向かっておる。」


麻奈・可奈:「石見(いわみ)銀山の積出港の温泉津(ゆのつ)でございます。ごゆっくり湯治を楽しんで頂きます。」


島津義弘:「なんと、我らを石見の地に導くのか。それは如何なる仕儀(しぎ)と相成るや。」


豊臣秀吉:「軟禁じゃ。我らは虜囚(りょしゅう)となったのだ。もはや如何ともし難い。諦めなされ。」


島津義弘:「虜囚とは如何に!!、秀吉殿、これはそなたの策謀か?」


諸将がランチのトレイを持ったまま詰め寄る。


加藤清正:「これは、モグモグ、なんと相成る。モグモグ、温泉津で湯治とは、パクパク。」


加藤清正は山盛りのフライドチキンを(かじ)りながら(わめ)くから、辺りに食べカスが飛び散る。

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1594年1月30日 1594年1月30日PM6時00分


遊覧船・銀河が温泉津(ゆのつ)沖泊(おきどまり)港に着岸する。温泉津は古くからの温泉地であるが、石見銀山の銀の積出港になってから栄えている。北前船も頻繁に寄港している。

老舗旅館の「のがわや」に2〜3日逗留(とうりゅう)すると、秀吉から諸侯に告げられる。


ひとっ風呂浴びて宴会場に案内されると秀吉が開宴の挨拶をする。


秀吉:「本日は進水式が、かようなる仕儀になり、諸将には大変申し訳ない。大友義統(よしひろ)の謀反にて致し方ない。名護屋城の手勢にて鎮圧するまで、(しばし)し温泉につかってごゆるりとして頂きたい。」


島津義弘:「軟禁とか虜囚(りょしゅう)とか言われていたが、如何になっておるか検討がつきませぬが?」


秀吉:「あっ、それなるは我ら、ここなる大友義乗(よしのり)なる謀反人の(とりこ)になったとの事じゃ。」


大友義乗は秀吉の小姓を勤めており、お気に入りである。父の義統(よしひろ)を処断すれば義乗にも類が及ぶが、何故か秀吉の隣でにこやかに笑っている。もしかして大物かもしれない。父の義統は末席にいる。家臣が討伐されているが気にならないのか不思議である。


余談ながら、麻奈が裸にエプロン、可奈がメイド服で接待している。旅館の中居から苦情が来たが19歳の萌々(もえもえ)娘には(かな)わないようだ。

麻奈・可奈の胸の谷間に200文札(一万円)が差し入れられるが、露出度の高い麻奈の圧勝である。

― ― ― ― ―


1594年1月30日 1594年1月30日PM6時00分 名護屋城周辺の諸将の屯所


織田信孝より関白秀次の直令の最終通達がなされた。「3日以内に立ち退かない場合は実力行使にて排除致す。」

各屯所に動揺が走るが、諸将や大名が居ないので退去したら戦線離脱となりかねない。兵卒たちは諸将の帰りを待つしかない。


壊滅状態の大友義統隊は塹壕(ざんごう)に死者を埋めて呆然としていた。ひとまず豊後(ぶんご)に帰りたいが、所領は召し上げとの話である。「いまいちど(いくさ)致す。」と意気盛んな輩もいるが殺戮(さつりく)の現場から離れていた兵卒である。

小雨が降ってきた。兵卒は板張り石置き屋根の粗末な陣所で芋粥をすする。兵糧米も少なくなってきた。





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