97 1594年1月12日 名護屋城攻城戦5
名護屋城攻城戦も5話となった。全100話までに納まるのだろうか?
1594年1月12日
織田信長に明国皇帝・万暦帝より勅書が届く。と言っても遼東半島の旅順要塞からのメールにて書面はPDFである。ただし手書きをスキャナーした物であり。プリントアウトすると花押までしてある。
「拝見 信長殿 、未だに秀吉軍が解散してないは如何なる事、これでは講和が出来ないではないか。しかも儂が貸した金、400万貫(2000億円)にて20万の軍兵を養うとは如何なる事か。そなたも銭を関白秀次を通して出資しておろう。焦げ付いたら何とする。 万暦帝。」
織田信長:「万暦帝!恐るべし!」
信長は関白秀次を通して、秀吉の朝鮮・明国への攻撃軍の解散の関白直令を出させた。
すぐさま、秀吉から関白直令が諸将に伝達された。今月中の名護屋城陣屋の撤去が正式に決まった。20万の大軍の解散命令である。
無論、唐津商工座にも衝撃が走る。座は現在の組合にあたる。
「現金以外お断り」「掛売り禁止」「金払えボケェ」
殺伐とした張り紙が店頭を賑わす。新暦だか旧暦だか判らないから1月30日が唐津最後の日だと誠しやかな噂が飛び交う。
米10キロが60文(3000円)だったのが100文に跳ね上がる。
――――――
1594年1月15日
鹿ノ島建設の作業員への弁当の配達で、「料亭花菱」「鰻竹屋」「ステーキ蜂」が毎日・各店30食納品で唐津も落ち着きを取り戻す。
ただし弁当の価格は40文(2000円)であり、両方から高い安いで文句が出る。
――――――
1594年1月18日
鹿ノ島建設の作業員が荷物を抱えて名護屋城の急な階段を上がり下りしている最中に二〜三人が転げ落ちる。幸いにも運搬中の電子機器には問題なく作業員が労災にしてくれと騒ぐが、戦国時代にはそんなモンはない。
――――――
1594年1月21日
瀬戸内海クルーザーが唐津に来る。観光目的で玄界灘から壱岐を周るルートであり、大名が名護屋から乗込む。リゾート開発の試乗にて意見を聞くのが目的である。秀吉も試乗しており。先の撤去命令を大名に笑いながら再度確認する。実際に撤退してもらうと戦争準備が台無しになる。
――――――
1594年1月24日
鹿ノ島建設の外壁改修の足場がほぼ組み終わり、電子機器が足場の最上部に取り付けられる。風で揺れるから斜材にて補強を入れる。筋交いは大事である。
――――――
1594年1月27日
八咫烏の再度チェック、シュミレーションが開始される。条件を変えて毎日、数回行われている。
※(八咫烏)自衛隊の熱線・可視近赤外線映像装置と射撃の連動システム、神武東征神話の3本脚のカラスから命名されている。(32話 鞆幕府 5 鞆の浦 八咫烏 参照)
――――――
1594年1月30日AM10時
(名護屋城の東の入江を挟んだ大友氏の屯所の西の湾岸)
天候は下り坂、夕方から小雨、夜半からは大降りになり、風速は10メートル程度の予測なので作戦が決行される。
麻奈・可奈「それでは、これより(玄界灘壱岐観光船)の進水式を執り行います。」
相も変わらず奇麗にハモっている。出席者は主だった武将、小西行長、加藤清正、島津義弘、小早川隆景、小早川秀包、小早川秀秋、宋義智、黒田長政、そして大友義統と大友義乗親子である。
他にも有力な諸将が顔を連ねている。ただし毛利輝元はいない。
どうやら早々と安芸の領国に帰った様だ。輝元は肝心な時に逐電するが、それなりに運の良い男である。
更に鞆幕府から、織田信孝兵部卿中将が出席しているから、諸将が刮目する。栗林詩乃陸曹もいるが普段は小柄なので目立たない可愛い女性である。
豊臣秀吉:「本日は( 玄界灘壱岐観光船 )の進水式に、御臨席頂き誠に有難う御座いまする。」
入江に面して仮設の陣所が作られ諸将ら50数人が着座している。普通は床几か木製長椅子であるがパイプ椅子なので座りやすい。ただし刀が邪魔なので若干の配慮が必要である。
四方縄張りの祭壇で神主さんが祈祷して四方にお酒と、洗い米、塩 紙吹雪を巻く。
玉串奉納して二礼二拍手一礼して鎮め物をして終了であるが、
今回は念入りにルイス・フロイス司祭が聖書の一節を読む
-----
マタイによる福音書27章 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。
-----
※イエス・キリストのゾンビ説の箇所であるが長くなるので割愛する。ルイス・フロイスがこの一節を読んだ理由は不明である。
更に麻奈・可奈が讃美歌を歌う
----
主よ 御許みもとに 近づかん
昇のぼる道は 十字架に
ありともなど 悲しむべき
主よ 御許に 近づかん
(・・2番以降は略・・)
----
キリスト教の進水式はまるで葬式である。
----
1594年1月30日AM10時40分 進水式々場 式典終了・歓談時
豊臣秀吉:「ところで大友義統殿、この場にては不釣り合いであるが、先日、「先の文禄の役における戦の仕儀について、問い合わせたき事有るゆえ登城せよ。」との通達は届いておらなんだか。
大友義統:「はは、某、一度拝謁いたしたく、登城いたしましたが留守にて帰参いたしました。」
豊臣秀吉:「はて、余はその様な事を小姓より聞いておらぬが、まぁ些事とて報告を怠ったやも知れぬ。取次の小姓には、余から厳重に注意致しておく。すまなんだの。」
-----
豊後府内改易
文禄2年(1593年)、平壌城の戦いで明の大軍に包囲されていた小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという家臣からの誤報を信じて撤退し、鳳山城も放棄した。ところが行長は自力で脱出したことから、吉統は結果的に窮地の味方を見捨てた格好になった。これが秀吉の逆鱗に触れ、軍目付の熊谷直盛、福原直高が派遣されて詰問されて名護屋城に召還を命じられる。(Wikipediaより抜粋)
-----
文禄の役における小西行長の撤退戦の件である。
小西行長:「おのれ!!大友義統!!、我、いや日本軍1万5千をを見殺しにするとは如何なる所業じゃ。しかも自分だけ逃げるとは・・・!!」
大友義統:「いや、あれなるは当方も兵糧も乏しきゆえ致し方なく。」
当然であるが、平壌の戦で小西行長と共に辛酸を嘗め、多くの部下を失った宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄、が激怒した。
退却戦での防波堤となった黒田長政、石田三成、小早川隆景も怒りが納まらない。もはや進水式どころの話では無くなった。
石田三成:「大友義統!!そなたの戦線離脱が朝鮮での負け戦の原因じゃ!!我では無い!!」
また、石田三成が禁句(負け戦)を発したが咎める者は居なかった。
-----
そろそろ、戦闘だ!!、が、時間切れとなった。申し訳ない。