88 1593年12月5日 加藤清正 切腹
ようやく1593年の名護屋城に戻りました。
1593年12月5日、肥前名護屋城 1階の大広間 戦評定 論功行賞
上座 豊臣秀吉 豊臣秀頼 茶々
中座 石田三成 森蘭丸 評定奉行
下座 文禄の役に出陣した武将30名余 小西行長 加藤清正 小早川秀包 島津義弘など。
戦国時代の論功行賞は無論、所領である。文禄の役では所領が無い。困った事になった。
四半刻(30分)前、石田三成に向けて諸将が襲いかかり、秀吉が投げ飛ばすという前代未聞の事件が有った。
普通は、これでお開きとなるが、秀吉が30分の後、再開を告げたので、再度集合した。
席順は石田三成を一段下がらせ、上座に茶々が生れて4ヶ月の秀頼を抱いて座った。
秀吉:「皆の衆、よくぞ再び集められた。先程は某、咄嗟の事とはいえ、あのような無礼を働いてしもうた。小西、加藤、身体に障りないか。」
石田三成の無礼が有るとも、先に手を出して来たのは加藤や小西である。しかも秀吉の前での軍議の冒頭である。
小西行長:「もっ、申し訳ござりません。」
小西行長はそれ以上言えずに、ひたすら平伏している。加藤清正も勿論、同等である。
秀吉:「加藤・小西、少しは落ち着いたか。して、先程の件じゃが、加藤清正!、ソチに言い渡す事がある。最初に手を出したのは加藤清正、ソチに相違ないな。」
加藤清正:「し、しかと相違御座いません。」
普通は斬首、良くて切腹である。どちらにしろ死罪は免れない。秀吉は加藤清正1人の処分で他の者は穏便に済ませる積りかも知れない。小西や島津は仲裁に入ったと言えばそれまでである。
秀吉:「加藤清正に申し伝える!」
座が静まり変える。切腹か斬首、領地は取り上げに違いない。加藤清正の領地が誰に与えるられるか、先んじて算盤を弾く輩もいる。
秀吉:「加藤清正!、ソチを京都総合病院 唐津分院にて5日間の入院蟄居とする。」
加藤清正:「えっ、何と申されますか?某、切腹をも覚悟しての所業、三成殿と刺し違える覚悟にて、せめて一太刀、武士の情け、今一太刀、肥後北半国19万5,000石を引き換えにても・・・・・」
秀吉:「何の話だ?、まぁ、三成には儂からもキツく注意しておく。しばし許されよ。
されど、清正殿、先ずは、寄生虫、唐瘡(梅毒)、マラリア、結核、血糖値、中性脂質、ついでに水虫と歯槽膿漏と虫歯も直せ。」
加藤清正:「ハァ?」
秀吉:「まぁ、良い。診療所には蘭丸より紹介状を送っておく。ただし半額は自己負担じゃが値切るでないぞ。だいたい、ソチに立ち寝技など致して儂も気持ち悪かったわ。発疹だらけではないか。」
加藤清正:「いゃ、これなるは、朝鮮にて受けし、矢傷にて名誉の負傷に御座います。」
秀吉:「なるほどな、遊び女ならいざ知らず、朝鮮の婦女に受けし矢傷かな。大したものだ。」
加藤清正:「ハァ・・・・。」
秀吉:「まぁ、良い。ソチは1番後ろにて他の者と離れて座れ。それと消毒をしとく。いゃ、怪しい者全員残らずじゃ。消毒が終わるまで四半刻の休憩と致す。」
※なかなか先に進まない。
(後日、京都総合病院 唐津分院)
医師A「わっ、コリャ酷いなぁ。発疹だらけじゃないか。」
加藤清正:「め、名誉の負傷に御座いますれば、なにとぞお手柔らかに願いたい。」
医師A:「お手柔らかにって言われてもなぁ。」
看護師B:「やっぱり、全部、切った方がいいですよ。ガーゼ変える雑用係も嫌がってますし。」
雑用係とは現地調達の下働きである。戦国時代だから医療行為をさせても問題はない。
医師A:「じゃ、そうしよう。切り刻んでいいよ。どうせ戦国時代だし。切腹、じゃない手術の用意して。」
※近頃では手術はカテーテルで行われ開腹手術は少なくなったが、手術を切腹という医者はいる。
加藤清正:「なんと、やっぱり切腹に御座るか。辞世の句をしたためまするゆえ、暫しの猶予を。」
看護師B:「それで、麻酔はしますか?」
医師A:「えっ、そんなの要らないよ。治療費だってキチンと貰えるか判んない。、まぁ、局部麻酔でいいかな。」
医師はアルコールスプレーを看護師Bに指示して、忙しく次の患者に当たった。戦国時代では消毒用アルコールも貴重品である。麻酔効果があるか定かでないが少しはマシである。
加藤清正:「グオーーー、痛い~~~、やめてくれー、いっそ殺してくれ~~。」
処置室で清正の悲鳴が木霊する。考えてみると清正等が朝鮮半島で行った残虐行為に比べれば如何ほどでも無い。殺せと言われれば、百回殺されても文句は言えない所業であり、430年以上経った現在でも秀吉の朝鮮出兵は、20世紀の日本侵攻以上に反日の憎悪の対象になっている。
2回の中断の後、戦評定はまだまだ続く。肝心な話には中々到達しない。肝心な話とは勿論、【銭】である。倒産寸前の会社の社長に就任するモノではない。嘉藤治五郎・新秀吉の真骨頂が就任早々、いきなり試されるのである。