85 関ヶ原 異聞4 逆賊・徳川家康
大変だ、移転戦国世界と異説:関ケ原が同時進行している。実生活の確定申告も済ませなければならない。少し小説はお休みしたいが思いついたら、忘れないように書かないと安心できない。
家康の関東大返し
関が原西軍
関が原東軍
前話にて伏見城の戦いを8月26日~9月8日(新暦) としていましたが
新暦と旧暦の違いによる誤りでした。伏見城の戦いは7月18日~8月1日(旧暦)として、
深くお詫びし訂正します。今後、関が原に関しては旧暦に統一します。
関が原の戦いは慶長5年9月15日(新暦1600年10月21日)なので9月15日(旧暦)にします。
(82 関ヶ原 異聞3 家康の関東大返し)
家康は清須城での(天下取りの関ヶ原)の戦いではなく、伏見城を救うべく、死物狂いで馬を変え、近習の騎馬隊のみで京都・大坂を目指した。
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これも取消しますが削除は今暫くの猶予をお願いしたい。筆者の歴史シュミレーションの一つとして大目に見ていただきたい。
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上の3つの図を見て筆者が不思議に思うのは、8月10日石田三成が大垣城に入る、8月14日東軍先発隊着、9月2日徳川家康が江戸を出発、9月15日関ヶ原の戦、、、これは通常の戦術では有り得ない話である。
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小山評定に出た豊臣系の武将
浅野幸長、福島正則、黒田長政、蜂須賀至鎮、池田輝政、細川忠興、生駒一正、中村一忠、堀尾忠氏、加藤嘉明、田中吉政、筒井定次、藤堂高虎、寺沢広高、山内一豊、小出秀家、富田信高、一柳直盛、金森長近
普通、西軍は個別撃破しか勝ち目は無い。まず東軍先発隊約4万、次に徳川家康約4万、最後に徳川秀忠約4万の順である。さらには東軍先発隊4万と1カ月以上の睨み合いというか、この呉越同舟は信じられない。
後世、司馬遼太郎が小山評定を執筆している。素晴らしい作品である。
さらには東軍先発隊が西軍を攻撃したら、自分も出陣するという家康の伝承も残っている。
また、石田三成が決戦を前に兵力を温存したとか、秀頼や輝元の到着を待ったとか、諸説があるが今一つシックリしない。
東軍先発隊が家康の戦功とすべく家康の到着を待っていたとかもだが、西軍が敵の総司令官が着任するのを待つほど戦国時代は律義者ばかりだったのか?、しかも家康は野戦のスペシャリストである。
近年、司馬遼太郎の執筆のような小山評定が疑問視されているが、それは歴史家の仕事である。
「一つの仮説」に続いて「二つ目の仮説」を紹介する。まさしく朝令暮改であるがご勘弁願いたい。
「二つ目の仮説」
・東軍先発隊約4万は中立というより政府軍であり、西軍・東軍、いずれに与するとも決めかねていた。いや西軍や東軍の認識は後世のものである。
・石田三成は東軍先発隊約4万を政府軍と考え、徳川家康討伐隊として総攻撃の準備をしていた。
総兵力は15万以上で小田原征伐に匹敵する20万近くを目論んでいた。家康の総兵力は7万である。
・総大将は豊臣秀頼、副大将は毛利輝元。絶対に負けられない戦であり、負けるはずのない戦である。
東軍先発隊(武断派)は石田三成は好きではないが、政府軍の参謀なら逆らう訳にもいかない。しかも妻子は大坂城にいる。
ここまでは、ある程度考えられる歴史認識であり、下記は筆者の完全な推測である。しかるに上記の徳川家康、絶体絶命の状況を覆す想定が浮かばないから、笑って読んで欲しい。
・しかるに待機していた東軍先発隊約4万(この時点では東軍ではない)に驚くべき使いが来た。北政所の口頭伝令である。書面ではない。また書面が残る筈もない。石田三成を参謀とする第二次クーデター政府軍に書面が渡れば北政所といえ死罪どころではない。
ここで(65話 69話 関ヶ原 異聞)から抜粋する
「こうこおいしかも つきのせには露と消えにし。」
豊臣秀次の辞世の句として紹介したが、秀次よりの口頭伝令を北政所が忘れぬように書き留めたものである。口頭伝令は即座に切り殺されている。
北政所が秀次と伝令の命を賭した最後の言葉として5年間の永きに亘り呟いてきた句である。
こうこおいしかも → 小西 宇喜多 小早川 大谷 石田 島津 加藤 毛利 の頭文字
つきのせには露と消えにし。 → 次の銭は露と消えにし。
これは文禄・慶長の役の際、豊臣秀次が毛利輝元らに貸した巨額の金銀の事である。
(後述)
どうやら話の筋が繋がりましたが、1600年まで飛ぶわけに行かないので、転移小説の1592年の10月に戻ります。と言いますか、関ヶ原の事はまだ考えていません。素人の思い付き小説とご理解下さい。