82 関ヶ原 異聞3 家康の関東大返し
関ヶ原異聞の3回目です。謎の多すぎる関ヶ原、どうなってるんでしょう。伏見城1800人が捨て駒って酷いんじゃないですか?家康さん。
家康の関東大返し
歴史上、秀吉の中国大返しが有名である。7日間で200キロを走破したと言われる。
ところが徳川家康は10日間で370キロを走破している。近年、秀吉の大返しは船舶が使われた説が話題になっているが、江戸から名古屋までの海路は黒潮と風向きのため危険である。
関ヶ原の戦いの前哨戦の伏見城の戦いは、1600年8月26日から1600年9月8日まで行われ鳥居元忠 松平家忠 鵜殿氏次 内藤家長 佐野綱正 松平近正 安藤定次ら家康の家臣1800名が全滅している。
徳川家康の江戸出立は9月2日、この資料と家康の肖像画を分析すると「一つの仮説」が想定される。
さらには家康の負け戦(三方ヶ原の戦い)
と奇跡的に勝ちを収さめしも天正地震で九死に一生を得た(小牧・長久手の戦い)などが「一つの仮説」を後押しする。
「一つの仮説」
・家康は清須城での(天下取りの関ヶ原)の戦いではなく、伏見城を救うべく、死物狂いで馬を変え、近習の騎馬隊のみで京都・大坂を目指した。ただし勝算が有った訳ではない。家康は慎重で石橋を叩いて渡る男ではなく、むしろ激情的に後先考えずに行動するタイプであると肖像画より推定できる。
・蟄居していた石田三成が数万の兵を集められると家康は想定していなかった。家康は大坂城西の丸に入城した時点で北政所の了解を取り付け(第一回クーデター)天下人になったと思い油断していた。
・北政所が西軍の敗北を知って裸足で御所の勧修寺に逃げたのは、家康に政権移譲した事への敗軍残党の報復を恐れてと考えられる。
・秀忠遅参は関ヶ原が戦場になるとも、1日で決着がつくとも、全く想定の範囲外であり、家康が天下取りの戦をする事さえ想定外だったかも知れない。むしろ徳川滅亡の危機と考えていたと思える。
東海道と中山道に別れて進軍したが連絡が取れない距離ではない。家康と秀忠は確固とした勝算が有って自軍を動かした訳では無いのだろう。
・有名な小山評定は史実か定かで無いが、大坂城に人質を取られ、さらには掌中の珠である秀頼を確保した西軍は政府軍であり通常は勝ち目がない。
・小山評定から江戸に迂回し1ヶ月と7日の月日を無為に過ごしている。挙兵の一報があれば即刻引き返えすべきであり、伏見城の1800人の将兵を見殺しにするなど戦略的に有り得ない。足利尊氏の浄光明寺での謹慎を思い出す。
・関ヶ原の戦いは中央政府軍(豊臣)と朝敵(徳川)との、日本史上、幾度か繰り返えされて来た戦いと同類かも知れない。
平将門の乱、足利尊氏と後醍醐天皇、承久の乱の北条義時と後鳥羽上皇。
再度の第二回クーデターにより秀頼と朝廷を掌中の珠とした石田三成一党の、徳川抹殺の戦いだったが、毛利一族の及び腰と武断派の離反により石田三成一党は敗れ去る。三成は史実にのっとり徳川家康追討の勅許を朝廷より受けるべきだったが簡単では無い。朝廷も度重なる裏目に慎重にならざるえないし調停が最善である。
穿った見方だが毛利一族は徳川家康に多額の借金が有ったかもしれない。豊臣秀次が死んで徳川家康くらいしか借入れ先がない。
(後書き)
関ヶ原合戦については謎が多すぎる。毛利、上杉が生き残った事や武断派や朝廷の動向など数えればきりがない。
家康の遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
遺訓とは自らの人生の反省文である。堪忍出来ずに怒りと悲しみにて激情に走り、負け戦ばかりだが、一度の勝ち戦で天下人になった家康は15年後の(負け戦)の1年後に生涯を閉じる。
※筆者は大坂の陣を家康vs秀忠と徳川家臣団との戦いとして逆説的に描く方針である。