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影武者 豊臣秀吉 23 家康vs治五郎 6

話が少し江戸に移りますが、再び唐津に戻る予定です。影武者・嘉藤治五郎と徳川家康、森蘭丸の三つ巴の戦いが繰り広げられます。

挿絵(By みてみん)


「平安海進」

聞き慣れぬ言葉だと思われる。平安時代に関東地方で起きた大規模な海水の浸水による集落の消滅や荒廃化である。徳川家康が関東移封された時、江戸は湿地帯の寒村だったと伝わる。

後北条氏の年貢は4公6民で、徳川家康もその低税率を引き継いだと言われるが、後北条、徳川共、善政を()いて民を(やす)んじたという記録は無い。

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1581年 天正 9年12月 西暦2025年 日本国転移。

1583年 天正11年 2月 西暦2027年 NPKリサイクル法否決。NPK:(窒素・リン酸・カリ)

1583年 天正11年 3月 西暦2027年 徳川財団専務理事が品川に来る。

1586年 天正14年 4月 西暦2030年 徳川宗家19代当主の徳川家仁 戦国日本に来る。

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1592年(天正20年)西暦2036年10月14日 江戸 品川湊

整備された埠頭に日本国からのコンテナ船が着岸する。現代日本の新潟港よりの直通便である。

積載荷物は現代日本からは人糞を熱処理したもの、戦国日本からは配合飼料である。

西暦2027年、現代日本のNPKリサイクル法否決により急遽、関東に人糞の輸出が行われた。

1585年より帰りの便で配合飼料の現代日本への還流がなされたのである。

日本は綱渡り的な輸出入によって、酪農・畜産の崩壊を食い止める事が出来た。


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佳志子皇太子:「徳川さん、作物の出来は順調ですか。」


徳川家仁:「はい、佳志子皇太子様、この時代は小氷河期にて、麦、芋、豆、など寒さに強い種類を栽培しています。」


佳志子皇太子:「徳川さん、呼び名は佳志子(よしこ)でいいです。」


徳川家仁:「わかりました。佳志子様。」


品川湊から鉄道で皇居に向かう。この移転世界では最初に皇居が出来てから、その敷地内に江戸城が出来る。街づくりは皇居を中心とした螺旋状に進められた。京都のような碁盤状にしようとの意見もあったが歴史改変は最小限にすべきとの考えで、江戸時代の古地図を参考に進められた。どうも、関東では時系列が逆転しているようだ。


佳志子様:「それで、徳川家康殿は、どちらにおられる。是非とも会ってみたい。家仁殿に似ておられるか。」


徳川家仁:「徳川家康様は(よわい)49歳、私より随分とお若いが凛々(りり)しき戦国の武将にて、どことなく似ている程度です。なんせ19代も前のお人ですので。それに私は71歳です。今は九州での戦にて苦労しておられます。」


徳川宗家も時系列が逆転しているようだ。


佳志子様:「秀吉の朝鮮出兵か。酷い侵略戦争だったようですね。心が痛みます。」


徳川家仁:「家康殿も、さぞかしご苦労と存じます。」

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1592年(天正20年)西暦2036年10月14日 ほぼ同時刻

家康は 肥前名護屋の旅館・大望閣のロビーにいる。時刻はちょうど正午である。クシャミはしていない。


茶々:「ステーキハウス(はち)のテンダーロインステーキ(250g)弁当を買って来たぞ。一緒に食べよう。」

----(以下同文)----74話・75話参照


皇居・御仮寓所(ごかぐうしょ)


佳志子様:「家仁さん、明暦の大火は大丈夫ですか。」


徳川家仁:「現在、防火区画を検案中です。」


佳志子様:「え゛、何時の時代の古地図を参考にしたんですか?」


徳川家仁:「史実に基づきまして、寛永年間の物を使いました。なるべく史実改変をしないように言われましたので。」


佳志子様:「え゛、誰に言われた?」


徳川家仁:「はい、徳◯◯天皇に御座います。」


佳志子様:「はぁ、叔父上か。阿呆か。」


徳川家仁:「歴史上、今上(きんじょう)天皇を阿呆呼ばわりした皇太子は居ませんが。」


佳志子様:「今は私が摂政です。至急、明暦後の地図にて都市計画をやり直しなさい。」


徳川家仁:「佳志子様、それでは私の立場が御座いません。」


佳志子様:「なんですか?立場とは?」


徳川家仁:「某(それがし)、徳川秀忠の子息、保科正之から数えて、えーと、19−2で17代の子孫に御座いますれば、明暦の大火が無かり申さねば、保科正之の手柄が消えもうして、某、この世に生を受けぬ事になり、更には徳川宗家の存続が危うくなれば、宗家を受け継ぎし、父・恒孝、祖父・家正、曽祖父・家達、高祖父・慶喜、(略)、に申し開きが出来申さん。」


佳志子様:「何を(たわ)けた事を申す。ソチの家系はみんな養子とかではないか。それに慶喜(よしのぶ)はどうでも良かろう。しかるに我が家系は万世一系の男系継承なるぞ。頭が高い控えおろう。」


皇太子・摂政の佳志子様と、徳川宗家19代徳川家仁は、いつもこんな調子のようだ。先が思いやられるが、お互いの系統の後継者の話ではない。

明暦の大火は、明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日-4日)までに江戸の大半を焼いた大火である。保科正之が火災後の炊き出しなど救民に尽力する。


佳志子様:「冗談はさて置き、私達の行動が歴史に影響を与えて、変な事したら、いきなりパッと消えたりするのかしら。」


徳川家仁:「それは大丈夫だと思われます。」


佳志子様:「なぜ大丈夫と思いますか?」


徳川家仁:「今まで大丈夫だったからです。」


現代日本を震撼させた、文禄の役による半島由来者の大量老衰死は約1年後の事である。


佳志子様:「そうだ、家仁さん、今度、実験してみたらどうでしょう。お江与様に徳川秀忠の隠し女の事をチクったら、どうなるか興味があります。」


徳川家仁:「興味本位で、そんなに軽く言わないでください。下手すれば消えます消えます消えますよ。ユーホー。」

徳川家仁はピンクレディーの年代である。


徳川家仁の祖、保科正之は秀忠と側室・浄光院(おしずの方)の庶子であるが、正室のお江与の方が嫉妬深かったため本人と秀忠の死後、側室となった。


(後述)

幕末、公武合体がされたが和宮降嫁だけではない。皇室と徳川家は江戸開府以来、明治に至っても姻戚関係が途切れる事はない。



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