影武者 豊臣秀吉 18 家康vs治五郎
家康と治五郎の対面です。影武者とバレそうなんで心配です。
1592年(天正20年)10月5日
信長と秀吉のWeb会議が行われた。
となれば、もう一人の重要な人物を紹介しなければならない。言わずと知れた。三英傑の1人、徳川家康である。
本多正信:「殿は渡海なされますか」
徳川家康:「箱根を誰に守らせるか」
常山紀談の一説のエピソードである。
徳川家康49歳、本多正信54歳、本多忠勝44歳であるが
本田平八郎忠勝が武勇の者とて名高きゆえ、家康の近習として登場していただく事にする。
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1592年(天正20年)10月7日
本多忠勝:「いゃー、殿、唐津は賑やかに御座いますな。」
徳川家康:「忠勝、そなた路銀は如何ほど持って来た。」
本多忠勝:「有り金を両替して参りましたゆえ、10貫(50万円)にて御座います。」
徳川家康:「さようか。だが忠勝、心しておけ。そこに在りし料亭「花菱」なるところで飯でも食ったら〜」
本多忠勝:「殿、かくなる館で飯ですか?」
徳川家康:「阿呆、あないなトコで飯を食ったら、お主の10貫など軽く飛んでしまうわ。そこなる店に致す。」
(吉野家・唐津店)
本多忠勝:「あっ、コレは美味そうな絵図ですな。なんに致しましょう。」
徳川家康:「牛丼並と特盛、どっちも汁ダク。」
本多忠勝は特盛りをかき込んだ。箸が止まらなかった。勘定は2人で150文(7500円)だった。忠勝の給金の5日分だったが、家康が払ったので事無きを得た。
徳川家康:「判るか忠勝、ココは異世界の端くれじゃ、10年前に東の果より異世界が現れたが、我らにとって分不相応な物ばかりじゃ。鉄道、人力車、クルーザー、何れも過ぎたる物じゃ。さらには異世界には新幹線、飛行機、自家用車なるものが有る。」
本多忠勝:「殿は行っておいでですか?」
徳川家康:「2度ほどな。」
本多忠勝:「なんと、素晴らしい事にて、まるで天上界か竜宮城の如きとの話に御座いますれば、我も行ってみたいと思っております。」
流石に本多忠勝くらいの身分だと聞き及んでいるし、東夷国からの貨物船も目撃している。知り合いには密航しようとして獄に繋がれた者や、現代日本でなく八丈島に流された者もいる。
徳川家康:「さもあらん、だがな忠勝、決して惑わされるでないぞ。我らは所詮、百姓じゃ、田畑を耕し天恵によって神仏に生かされておる。カノ国の者共は銭をもって銭を増やし働いておる。それは本分にそぐわぬ行いじゃ。」
本多忠勝:「銭が銭を生むのですか。それは良き事に御座いますな。」
家康は忠勝の言葉にため息をついて、徳川の宿舎に戻った。宿舎にはトイレ(簡易水洗)も風呂(ポリバス・薪焚き循環式金剛釜)も有る。さらには水道(水だけ)、驚くべき事にテレビ(32型、何故かBSだけで地上波は無し)が有る。これでも人には過ぎたる事と家康は思う。
宿舎には上杉景勝、伊達政宗が家康の帰りを待っていた。
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秀吉には、自腹で出兵をしている西国大名や東国から後詰で来ている家康などには、絶対に知られてならない驚くべき事実がある。
名護屋城の1階、豊臣秀吉の影武者=嘉藤治五郎と茶々が入る住居スペースの仕様である。
トイレ TOTOネオレストEX、風呂 TOTOサザナ
洗面 TOTOエスクア、システムキッチン TOTOザ・クラッソ、テレビSONYブラビア85型 8K対応
ベッドや調度品については、茶々の自腹だったのでニトリの型落ち版を更にトコトン買い叩いて送料設置費無料で納めたと言われる。
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1592年(天正20年)10月7日
名護屋城の2階で影武者・豊臣秀吉と徳川家康が対面している。無論、徳川家康は秀吉を知っている。死地を共に切り抜けて来た仲である。満にひとつも見間違える訳が無い。
両者が距離5メートルにて向かい合っている。豊臣秀吉の傍らには茶々が寄り添う。以前では考えられない事であるが、茶々には勝算が有るのだろう。
家康の斜め左下手には本多忠勝が控えている。両者の目線が飛び交う。無論、家康が秀吉の(品定め)をしているのだが目線は微動だにしない。かと言って睨み付ける訳でも無い。
徳川家康:「秀吉様にはご機嫌麗しく、家康、恐悦至極に御座います。」
豊臣秀吉:「家康殿、堅苦しい挨拶は無しじゃ。」
徳川家康:「ははぁ、それにては?」
豊臣秀吉:「して、朝鮮への船出は何時じゃ。兵は如何ほどか?船の手配はしておるのか?」
秀吉が柔道の組手争いする前に、いきなり家康の奥襟を摑んだ様な物である。家康は身動きひとつ出来ない場面となった。
徳川家康:「いや、某は本日、後詰めの段取りにて、何分、領国も関東と遠く、我が身ひとつで推参した次第にて。」
流石は家康である。奥襟を切って自分の組手に持ち替えようとする。
豊臣秀吉:「さにあるか、済まなんだの。ちと急ぎ過ぎたようじゃ。」
ひとまず、(待った)が掛かった格好である。あっさり、秀吉が引き下がる。
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茶々:「家康殿、後詰めも大切で御座います。して、唐津は家康殿にとって如何な街でしょうかな?」
徳川家康:「はあ、まるで天子様のおわします京都と見紛うばかりにて賑やかなる事、驚きに絶えません。」
豊臣秀吉:「さもありなん、どうじゃ、今宵は唐津で夕餉なと共にせぬか?」
徳川家康:「唐津で夕餉に御座りまするか。いや本日はすでに賄が用意されておるゆえ。」
豊臣秀吉:「いや、されば致し方ないが、そこなる伴の本多正信殿は如何じゃ。」
本多忠勝:「某は本多忠勝と申します。」
豊臣秀吉:「ありゃー、コリャ抜かったわい。本多忠勝殿であったな。正信殿は如何が致しておる。」
人誑しの秀吉の特技である。だいたい、家臣のそのまた家臣の名前など覚えている訳がないが、これが秀吉を(天下人)たらしめた驚異的な記憶力である。
(移転世界では家康も忠勝も家臣ではない。家康は信長の命で秀吉に協力するため名護屋に来ただけである。)
本多忠勝:「しっ、失礼致しました。正信は関東にて息災です。」
豊臣秀吉:「そいじゃー、本多殿、儂と行かぬか。「花菱」ちゅー料亭じゃ。もちろん、儂の奢りじゃ。」
本多忠勝:「行きます。主命に背いても行きます。宜しくお頼み申す。」
徳川家康:「・・・・・儂も行っても良いか?」
徳川家康は豊臣秀吉の人誑しの術にアッサリ籠絡されたのである。