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関ヶ原 異聞2 北政所

北政所と徳川家康のやりとりを書いていて涙が出てきました。本編の移転小説の番外編です。

(ちょいと長い引用です)

その年の八月十八日秀吉が没すと、大坂城西ノ丸にあった北政所は落飾して高台院と称し、翌四年徳川家康に西ノ丸を明け渡して京都三本木の邸に隠棲した。ついで同十年秀吉の冥福を祈るため徳川家康にはかって京都東山に高台寺を建立し、ここを終焉の地として禅床三昧の日々を送り、寛永元年(一六二四)九月六日七十六歳(『寛政重修諸家譜』三〇九では八十三歳とある)で没した。


[参考文献]

『高台寺文書』、渡辺世祐『豊太閤の私的生活』

(今井 林太郎)


― ― ― ―

北政所(寧々)は大坂城の西の丸にいた。それを徳川家康に譲って京都東山に高台寺を建立し(つい)の棲家としている。

― ― ― ―


豊臣一族及び五大老・五奉行からしたら、「なんじゃ、そりゃ?」と言う事になる。当時の豊臣家の実権を誰が握っていたか知らないが、天下の政庁の内閣府を徳川家康に譲渡したのも同じである。


大坂城西の丸入場は徳川家康の無血クーデターであり、関ヶ原合戦勃発は当然の帰結となる。

さらなる当然にて、筆者の推測は滑稽無糖となるが、今暫くお付き合い頂きたい。

筆者の推測では、豊臣家(北政所と淀君)と家臣団(武断派と文治派)の分裂の起因は豊臣秀次切腹事件まで遡る。

ただし、あくまでも推測であり、物的証拠はほぼ無い。

これは実証主義の歴史解釈からすれば一笑に付して余りある。


1599(慶長4)年、家康は本丸の秀頼を訪問したあと、そのまま西の丸に滞在、4層の天守まで建てた。当然、秀吉の直臣たちは憤慨した。それが関ヶ原の戦いの大きな引き金になった。(たびよみ・より)

― ― ― ―


(ようやく小説の本分)


1599年某日某所


北政所:「家康殿、豊臣の(あだ)をとって下され。」


徳川家康:「はぁ、なんと申されますか?豊臣は秀頼公の元、安泰に御座います。しかも秀頼公の利発な事、とても数え7歳の方とは思えません。」


北政所:「さにあろう。なんせ織田信長殿の血を受け継ぎし者じゃ。我ら下賤の者とは血筋が違うわ。」


徳川家康:「淀君様の教育も熱心であり、いずれ日ノ本ならず唐、天竺までお治めになる器と存じます。」


北政所:「唐・天竺は知らぬが、イスパニアやイングランドの情勢は如何じゃ、秀吉も死ぬまで心配しておった。」


徳川家康:「イングランドとイスパニアの戦争はイングランドが勝ちました。これから両方の敵と戦わねばなりません。彼ら南蛮の民、いやヨーロッパ人は世界を一周りしフィリピン、インド、中東、新大陸のアメリカまで征服しております。命知らずにて壊血病で死にしもパライソなるところで平和に暮らせる申します。」


北政所:「そうじゃ、さらにキリスト教なるもの、神の教えと申して人の心に入り込む術、尋常ならず。我も聖母マリアと言われて、あやうく入信しかけた。まぁ、学ぶ事も多いがのう。さらには唐瘡(とうそう)(梅毒)という尖兵も恐ろしい。」


徳川家康:「亡くならた太閤様が、大東亜共栄圏を作りて、あの者どもに対抗しようとされましたが、明国の万暦帝が愚者成りてかような事となり申した。」


驚くべき事に、第二次世界大戦に先立つ事、300年前に大東亜共栄圏構想による戦争がなされていた。


北政所:「万暦帝に落ち度はない。あの者の力の及ばぬ事じゃった。」


徳川家康:「して、本日の用事は如何なる事にて?」


北政所:「豊臣、いや、木下の家、秀次の恨みを果たしてくれまいか?」


徳川家康:「また、その話に御座いますか。」


北政所:「そうじゃ、徳川家康殿、お願いに申す。(あだ)を打って下され。」


徳川家康:「イエス・キリストは(汝を迫害する敵を愛せ)と申しましたぞ。(あだ)、仇ではキリがないですぞ。」


北政所:「判っておる。判っておるが、そなたにしか、我が胸の内を明かせぬ。いや、そなたの言う通りじゃ。すまなんだなの。」


徳川家康:「寧々(おね)様の心中、この家康、重々承知しております。身内を失う苦しみ、さらに我が手にかけた事、いゃ、ちと違いまするが、妻と子を守れなんだ事、我も同じに御座います。」


徳川家康と北政所が手に手をとって涙を流し震えた。

― ― ― ―


北政所:「ささっ、茶漬けを作ったゆえ、召し上がって行かれよ。白飯に京都の漬物を乗せて茶をかけ、サラサラとかき込んで食うのじゃ。沢庵を我が方では(こうこ)と呼んでおる。」


家康は北政所の作りし、茶漬けを食った。(いささ)か涙の塩けがしたような気がした。


臥薪嘗胆という故事成語があるが、北政所にとっては(こうこ茶漬け)がそれに当たった。


徳川家康が床の間に飾られた1尺2寸の短冊を見た。


「こうこおいしかも つきのせには露と消えにし。」


関ヶ原合戦は約1年半後に迫っていた。

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