影武者 豊臣秀吉 15 茶々日本に行く
すみません。前話の年を1年訂正しました。
今回は茶々の新婚旅行の話ですから軽く読んでください。
1592年(天正20年)。9月5日
茶々が影武者・嘉藤治五郎と結婚した。
結婚式の出席者は、北政所、お市、森蘭丸、村上景子とその子供が2人(花束贈呈)、そして元祖・豊臣秀吉だった。
立会人はルイス・フロイスである。ルイス・フロイスが紀行文に記載していたかは不明である。
元祖・豊臣秀吉が涙を流して喜んだが、鼻水だったとの話もある。さらに顔を皺苦茶にして喜んだが、もとより皺苦茶だったとの話もある。そもそも出席するのも、喜ぶのも変だが、戦国時代だから、そんなモンだろう。
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新婚旅行は現代日本になった。旅行会社JTBが全てのチケットを取ってくれた。
坂本龍馬の日本最初の新婚旅行に先立つ274年前の話だが記録には残っていない。
9月6日、唐津発の瀬戸内海クルーザーが出発した。よせばいいのに、北政所とお市が神戸まで同行した。それと村上景子の子供2人が備後の鞆幕府まで送り届けられた。
鉄道で神戸から京都、安土を通り名古屋の津島港に来た時、何故か織田信長がいた。
織田信長:「我も連れていけ。」
嘉藤治五郎:「嫌じゃ。」
次の瞬間、襲い掛かりし魔王・信長を嘉藤必殺の背負投げで信長の身体が一回転したが、やんわりと無事に着地した。
魔王・信長が影武者・秀吉に子供扱いされた。が、素人と有段者なら当たり前の話である。
津島港から現代日本の博多までは船旅である。飛行機は移転世界では(分不相応)との信長の裁定があり新旧日本航路は旅客船だけである。
9月10日、新日本海フェリーらべんだー(定員600名)が博多に向かう。月に1往復だけなので茶々夫婦はラッキーであるが、茶々の場合それが当たり前の強運である。
旅行会社JTB等に押されて、歴史干渉の恐れがある現代日本から戦国日本への渡航が、なし崩しに解禁された。
ただし人数制限や疫病対策など、いろいろな制約が厳しい。
経済格差のため戦国日本からの渡航はまずない。無論、茶々夫婦は例外である。
茶々夫婦は船室をデラックスAツインを取ったが割と安い。2人で66000円なのでビックリする。戦国日本の唐津の大望閣の値段が異世界ゆえのボッタクリだとわかる。というか新旧日本の経済格差によるものだ。
1日半で博多に着く、冗談みたいに巨大な建造物が並ぶ。
9月11日、博多のホテルに泊まる。
茶々:「なんか、夢みたい。まるで日本じゃないみたい。」
嘉藤治五郎:「なかなか難しい表現です。返す言葉も御座らん。
」
嘉藤治五郎は現代日本人だが戦国日本の言葉がシックリしてしまった。そういえば転移前の日本に居た時の話を茶々はまだ聞いてない。だが慌てて聞く必要も無い。この時を楽しみたい。
夕食は博多の屋台で治五郎と豚骨ラーメンと焼き鳥を食べた。
なんとなく、凄く、不思議に、その場面が後々まで茶々の記憶に大切に保管された。
(これは、女心の妙なる物で今後の物語の伏線ではない。)
新幹線を利用しで京都2泊、名古屋1泊してから東京に行った。東京ディズニーランドで治五郎とアトラクションを楽しんだ。東京で2泊したら9月18日になった。
茶々はお土産と、色々な準備の買い物をした。ベビー用品店の西松屋で哺乳瓶やベビー服、おむつカバーを買い揃えたが、おしめは自分で縫う事にした。来年生まれる秀頼のためである。それは女性にとって最も幸福な時間であろう。
だたし秀頼は未だ受胎すらしていない。さらに秀頼を待つ運命を考えると恐ろしくなる。
茶々:「徳川家康・・・・・・。」
茶々は知らずに知らずに、あの男の名を呟いていた。
彼女の幸福な時間は急速に遠退いていった。
9月25日、船便のスケジュールでようやく名護屋城に帰って来た。山積みの懸案が有ったが、森蘭丸が適当に処理してくれた。
元祖・豊臣秀吉は進行性アルツハイマーと診断され、一切の政務から退き、名護屋城から離れて豊後の別府にて静養する事になったが、歴史への再登場は未知数だった。