豊臣秀次事件 異聞 3
「三木の干殺し鳥取の渇え殺し」、豊臣秀吉が行った凄惨な城落としである。戦国時代では当たり前だったかも知れないが、豊臣秀次事件は身内に対する秀吉の自爆テロみたいな物である。だが真実は如何なるものだったのか?謎が多すぎる。
天下人への年貢の流れ
(Wikipediaより抜粋)
輝元は(略)自衛のために秀次からの借金の誓書を謀反の誓約書として偽って秀吉に差し出し、
秀吉が秀次謀反と判断したとする説もある。
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60話の(Wikipediaより抜粋)を更に抜粋して上記に載せる。そして抜粋の抜粋をする。
【借金の誓書を謀反の誓約書として偽って】
の部分である。
重箱の隅をつつくような話で申し訳ないが、これは有り得ない。不可能である。
余りにも危険すぎるし、秀吉が文盲で無い限り騙せる訳がない。
もっとも可能性が有るのは
【謀反の誤解を招きかねない借金の誓約書】である。
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(1595年7月3日)
聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近などの奉行衆が訪れた。巷の謀反の噂の諮問であるが最初から罪状は死罪と決まっていた。
ただし、毛利輝元らの借金踏み倒しのための謀反捏造などとは絶対に知られる訳にはいかない。
豊臣秀次:「これは何とした事、儂が謀反などと片腹痛し、理由を述べよ。」
石田三成:「秀次殿、ここに揺るがぬ証拠が御座る。」
三成は、毛利輝元らの西国大名に宛てた借り換えの約定書を近習に持たせた行李より出して秀次の前に差し出した。
豊臣秀次:「はて?これは我が貸出しし金子の約定書にて、西国武将の窮状を思いて12支に分けて御返し願った物なれど如何がしたかな?三成殿にも送りし物なるが?」
石田三成:「借りた金は返せぬわ。この約定は謀反の証なるぞ。」
豊臣秀次:「それを何となさるか?なに故か申されよ。」
石田三成:「書面には(年貢の1割)と記載有りき。そちの花押も疑いはない。なれど年貢は太閤様にお納めする物であろうが!そちが掠め取ろうとは、謀反以外に無かろう。」
豊臣秀次:「なんと!これは叔父上、いや、太閤秀吉様もお聞き及びの事と、某は、かねて小早川隆景殿より聞き及んでおります。」
石田三成:「小早川隆景殿が何と申された?、(上様)と言われたであろう。小早川殿の主君は毛利輝元公なるぞ。」
いきなり(上様)が石田三成の口から出てくる。自ら(おぬし罠に嵌まったな!)と言っているのと変わらない。
豊臣秀次:「小早川隆景殿の策略だったのか!しくじったわ!」
石田三成:「抜かったな秀次!潔く腹を切れ!」
当時は権謀術数で相手を謀かっても、謀り事多きは勝ち、謀り事少なきは負けである。
相手を騙すのは兵法であり、褒められこそすれ恥いる事では無い。
豊臣秀次:「うぬら!卑怯千万、それでも武士か!」
戦国時代には武士道は無い。それは江戸時代まで待たねばならない。勝つか負けるか、殺すか殺されるかが全てである。殺されて卑怯千万などと宣うなど、それこそ笑止千万である。
石田三成:「秀次殿、武士の情け、潔く腹を切れば罪1等を減じて謀反人の磔は免れるやもしれない。さすれば一族に類は及ばぬ。太閤殿下のお身内なるしな。」
武士道は無いが武士の情け。罪1等減じても死罪は死罪。
落城したら一族郎党皆殺し。腹を切っても骸を磔か晒し首。
16世紀当時の世界はそんな時代かもしれないが、当時の戦国日本は群を抜いて凄惨だったようだ。
かくして豊臣秀次は家臣4人の切腹の介錯を務めた後、自らも無事に切腹した。それに先立ち家老等一同も切腹。
更には晒し首となった豊臣秀次が見守る中、乳児を含む眷属39人が公にて4時間かけて嬲り殺しとなったのである。
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(秀次事件の後書き)
様々な考察をしてきたが、筆者の結論は、豊臣秀次は借金を踏み倒されて一族郎党、難癖つけて殺されたとの、身も蓋もない考察である。
豊臣秀吉に関しては、この件に関しては、深く関わっておらず後程、報告を受けて卒倒したと思える。文禄・慶長の役においても明との和平交渉は小西行長にひたすら騙され続けたのは史実にて明白である。
すなわち周囲に舐めらて、都合よく悪人や性格異常者に仕立てあげらていたようだ。ルイス・フロイスはその事を知らずに秀吉の酷評をしたのかも知れない。
精神科医の心理描写を期待した方もおられたが、かなりしんどくなるので辞めにした。
精神科医が患者の精神状態に深入りするとダメージを食らうので程々にすべきである。
石田三成については肖像画から推察して、日頃のストレスが凄まじく、一度切れると相手が引いたらトコトン痛ぶるタイプで間違いないだろう。
それゆえ致命的な失言が多々見受けられる。