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豊臣秀次事件 異聞 1

少し転移世界から離れて豊臣秀次事件の話をする。僅かな手掛かりからの

推論で証拠は少ない。しかるに証拠がないのが一番の証拠という事もある。

全ては推測であるが精神科医の考察として読んで頂きたい。

挿絵(By みてみん)

豊臣秀次


3人の肖像画が残されている。

豊臣秀吉 豊臣秀次 毛利輝元 である。

この肖像画を精神科医として分析する。


【豊臣秀吉】

・自己愛性パーソナル障害 卑屈 劣等感 縄張り意識


【毛利輝元】

・共依存 イエスマン 自分で考えない その場しのぎ


【豊臣秀次】

・凶暴性 残忍 虚栄心 自傷癖 突発的な行動

― ― ― ―


次に1595年当時の経済情勢を分析する。


【大規模な対外戦争】

・戦国時代の領土獲得で無く、明と李氏朝鮮に勝利しての戦利品や賠償金は不可能。


【聚楽第】

・貸付金融業や信託投資を営んでいた。秀次事件後、完全に破壊される。


【豊臣秀次】

・戦役を逃れた事や、叔父の豊臣秀長からの蓄財が莫大。さらに当時の富裕層からの信託投資にて、

秀吉や諸大名に多額の軍資金を融資していた。


【毛利輝元】

・戦役で豊臣秀次より莫大な借金。さらに領土は少なくなったが家臣は変わらず。経済的に困窮。

― ― ― ―


(Wikipediaより抜粋)

秀次は朝鮮出兵や築城普請などで莫大な赤字を抱えた諸大名に対して聚楽第の金蔵(かねぐら)から多額の貸し付けを行っていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れたとする説[144]、この借財で特に毛利輝元に対して秀次はかなりの額を貸し付けており、秀次と秀吉の関係悪化を見て、輝元は秀次派として処分されるのを恐れ自衛のために秀次からの借金の誓書を謀反の誓約書として偽って秀吉に差し出し、秀吉が秀次謀反と判断したとする説もある。

― ― ― ―

これらの資料から豊臣秀次切腹・眷族惨殺事件の全貌を推測する事が出来る。

この手法は歴史学者の古文書を元にした丹念な実証とは異なる事をお断りしておく。

― ― ― ―


(1595年4月:広島城)

毛利輝元は窮していた。朝鮮出兵による膨大な借財の期限が迫っていいたからである。


毛利輝元:「叔父上、如何が致しましょう。新たな税を作りましょうか。」


小早川隆景:「馬鹿を申すな。近頃の寒さや日照りにての不作にて農民は困っておる。」


毛利輝元:「判り申した。石田三成殿や豊臣秀次殿に相談いたす。」


小早川隆景:「豊臣秀次?、そなたも、あの者から借りておるのか。いくらじゃ」


毛利輝元:「かほどに御座います。〇〇貫にて候。」


輝元は借用書の束を叔父の隆景に見せた。


小早川隆景:「なんと!、我もあの者には借りておるが、桁が2つ違う。」


毛利輝元:「さように御座います。叔父上にもで御座るか?」


小早川隆景:「細川忠興殿も秀次に黄金百枚を借り受けて苦難しておると聞く。さらに高い金利にて取り立ても厳しい。」


毛利輝元:「もはや如何ともし難き事かと。イスパニアにでも逐電(ちくでん)致そうかと思っております。」


小早川隆景:「早まるでない。儂が一計案(いっけいあん)ずるがゆえ、しばし辛抱せよ。」


(1595年5月:京都聚楽第(じゅらくだい))

豊臣秀次:「して、貸付金の取り立ては如何になっておる。こんな事が叔父上(秀吉)に知られたら儂の首が飛ぶわ。」


勘定方:「どうやら、返す気が無いと思われます。金利さえ入れません。西国大名が心を一つにしておるものと思われます。」


豊臣秀次:「さに有ろう。聚楽第の金は公のものにて返さねば首が飛ぶわ。さらに儂が豪商より借りし銭も貸し付けておる。まったく叔父上の戦好きにも困った物じゃ。」


勘定方:「秀吉様に貸した金も莫大で御座います。次には毛利輝元殿、小西行長殿、加藤清正殿、島津義弘殿、石田三成殿・・・・。」


豊臣秀次:「おのれ!!石田治部少輔!!あ奴は(出世払い)と申しおった。あ奴が束ねておるのか。」


勘定方:「いえ、石田治部殿は武将に嫌われておりますゆえ、どうやら武将どもの合議にてかと推察致します。」


-----

(1595年6月:某所にて)

石田治部少輔と小早川隆景が密談している。


小早川隆景:「治部殿、だいぶ難儀(なんぎ)されておられるようじゃな。」


石田三成:「生来の融通の利かぬ性格ゆえ、難儀しております。」


小早川隆景:「治部殿は真っ直ぐ過ぎるのが難点であるな。儂は好きだがな。」


石田三成:「本日は、毛利輝元殿の事に御座いまするか。」


小早川隆景:「ああ、しかと相違ないが諸将の方々もお困りであろう。」


石田三成:「重々承知しております。先の朝鮮出兵は得る物が御座いませなんだゆえ。」


小早川隆景:「銭も領地も無くば、負け戦に違いないがな。ちと(まず)かったな。」


石田三成:「左様に御座います。」


小早川隆景:「して、、治部殿に相談なのだが・・・」


小早川隆景は毛利元就の三男である。長男・隆元は実直、次男・元春は剛勇、そして三男・隆景は

元就の謀略を受け継いでいた。権謀術策においては当代並ぶ者はなかった。

比して徳川家康は赤子の様な者である。いや、徳川家康が後の天下人になったのは人徳によるものと推察できる。すなわち豊臣家臣の武断派を取り込んだのが関ヶ原の勝因となったのである。家康の器の大きさ故の勝利である。無論、石田三成にはマネの出来ぬ事であった。

話が逸れたが、小早川隆景から三成に与えられし策は驚くべき物だった。真っ直ぐな石田三成は一度激怒し、その場を立とうとしたが思い直して隆景の策を受け入れる事となった。










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