間話:慶長の役 異聞
嘉藤治五郎と茶々の行く末が判らない。豊臣秀次と眷属はどうなるのか?考えると眠れなくなるから、今回は短い間話とします。
1593年12月、露梁海戦が李舜臣率いる朝鮮水軍の勝利に終わった。翌1594年にかけて秀吉軍、明軍、ヌルハチ軍が撤退した。そして戦乱に荒れ果てた雪と氷に閉ざされた荒野に370万人の朝鮮の民が残されていたのである。
現代日本の西暦2037年冬から、在日朝鮮人や帰化者など半島に系譜を持つ100万人に異変が起きていた。
老衰死である。2037年の冬から2038年の秋にかけて、この奇病が蔓延した。いや、老衰死は病ではない。自然死であるから、あらゆる治療法は全く意味をなさない。
ただ死んでいくばかりである。この時期の1年間に80歳以下の老衰死は20万人に昇った。
原因を探るべくプロジェクトが発足した。原因は誰の目にも明らかだったが、新たな歴史の改変を恐れて現代日本政府は一時的な現象にて終息すると発表した。歴史の修復力に期待したのである。
西暦2041年 慶長2年7月、遂に現代日本が戦国時代への直接介入をせざるをえなくなった。この時点で半島系譜の人口は60万人、さらに色覚異常を訴える人達が、その60万人の3分の1の20万人になっていた。虹彩のメラミン色素が薄くなった人達は琥珀色の瞳に変わっていた。
ただし、現代日本は歴史不介入政策を議決した。すなわち朝鮮民族の行く末は朝鮮民族で決めろとの法律である。
15万人の朝鮮半島系の人々が民族存亡の危機と自己防衛に立ち上がったのである。
無論、釜山上陸は何の抵抗も無かった。進軍を止める者も居なかった。無人の荒れ果てた荒野を現代日本のジープがトレーラーハウスを引っ張って進む。慶長の役と同じコースを通る様に歴史学者とSF作家から指示を受けている。
対して、現代日本の科学者は何の役にもたたない。
アインシュタインの相対性理論で時空の歪がナンチャラ、特異点がカンチャラとか言っている間に、老衰死が増えて行くだけだった。
はたして後世、慶長の役の上陸部隊が特権階級の新たな両班になったのだろうか?
19世紀末に朝鮮を訪れた女性は、その紀行文に両班と一般朝鮮人の体格の違いに驚く。身長差で7センチ程度、そして両班は美しい顔立であったとの記載がある。故に彼女は違う民族かと思ったかも知れないが、そちらの記載は無い。