影武者 豊臣秀吉 1
秀吉の話をしていると年号がドンドン進む。困ったものである。信長や家康は何してんだろう。そう言えば伊達政宗や上杉景勝を忘れていた。北条氏はどうしたもんか?
(影武者 豊臣秀吉)
かなり突拍子もない話になる。「影武者 徳川家康」「影武者 武田信玄」など戦国時代での影武者は至極当然の話である。
だが最も可能性の高いのが、豊臣秀吉であると筆者は断言する。すなわち状況証拠が揃い過ぎているからだ。
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1590年(天正18年)
茶々が秀吉の側室として肥前名護屋に来てから2年が過ぎた。史実では小田原征伐が行われている筈だが秀吉は名護屋に来ている。1587年より続くジャパネットタカタのMSCベリッシマによるイスパニアへのクルーズは4回目で終了した。流石に奴隷貿易だと九州の民衆が騒ぎ出したのであるが、秀吉は子飼いの加藤清正、黒田長政、小西行長によって騒ぎを鎮めた。
小西行長:「君たちの御子息達は新天地において、デウスの見計らいによって幸せに暮らしておる。子息に会いたい方はMSCベリッシマによって南海のパライソに送ってしんぜよう。」
民衆にはイエス・キリストの血となるワイン、肉となるフライド・チキンが与えられ乗船した。
民衆A:「なんとパライソの食いもんは美味い。きっと息子達も幸せに暮らしとるべぇ。」
MSCベリッシマは先発の4回のクルーズの家族を乗せて台湾沖に停泊し曵船とハシケによって、(使えない商品)を降ろした。
※(使えない商品)=騙されずに抵抗する者、年をとったり病弱で使えない者達。
(肥前・名護屋城)
石田三成:「殿、南蛮渡来のバナナに御座います。なんと新種にて種が御座いません。」
豊臣秀吉:「これは美味いのぉ、それに歯がなくとも食える。」
茶々:「旦那様、茶々は南蛮のDVD、韓流ドラマが欲しゅうございまする。」
豊臣秀吉:「あっ、この前のは違うのか?けっこう高かったぞ。」
茶々:「あれは(愛の不時着)にて今回は(トッケビ~君がくれた愛しい日々~)でございます。」
豊臣秀吉:「なるほどの〜、色々あるのじゃのう。南蛮人が朝鮮のデーブイデーを持っておるのが解せぬがのう。」
茶々:「旦那様、デーブイデーじゃなくてディーブイディーですよ。後、このポータブルDVD、CDも聞けて800文ですよ。」
豊臣秀吉:「シーデー?それって安いのか?」
茶々:「これだけの機能がついて7インチで800文はやっすい〜。」
豊臣秀吉:「好きにいたせ。儂は疲れた。寝る。」
秀吉の死因には梅毒、脚気、糖尿病、結核など諸説あるが、赤痢や結核などの感染症では無かったと思われる。
なぜなら、茶々が秀吉の傍にいたからである。
現代日本の医学の知識が有る茶々が伝染性の有る病の秀吉を近付けるわけはない。
豊臣秀吉:「そういえば鶴松殿は如何が致しておる。」
石田三成:「鶴松殿は今回も病気が癒えてお達者であらせます。」
豊臣秀吉:「治部小輔、妙な言い方じゃのう。」
石田三成:「ははぁ、御子は天主様からの授かり物ゆえ、天使様に御座いますゆえ。」
三成は軽く舌打ちをした。
石田三成:「殿、眠たい時は刻限にかかわらず寝所にてお休み下さいませ。」
豊臣秀吉:「おおっ、そうで有った。今日の寝所には真奈と佳奈を使わせ。」
真奈と佳奈は秀吉の妾であるが、秀吉は300名近くの名前を全て覚えていた。茶々によるとサヴァン症候群ではないかとの診断である。そしてこれが秀吉の人誑しの特技で有るが、反面、発達障害や精神障害・知的障害にも通じている。
石田三成:「茶々様、近頃、銭の使いようが酷うございます。鶴松殿にも高価なモノを与え過ぎです。」
茶々:「良いではないか、鶴松は未だ預かり物、妾が腹を痛めて産んだ子であるが、来年までの命やも知れぬ。病弱ゆえ(覆せぬ)やもしれぬ。」
石田三成:「茶々殿、お気を強うお持ちなされ。」
茶々はイスパニアとの南蛮貿易で高価な品々を買っている。だが、それは東夷国(現代日本)からの迂回でかなり高くなる。イスパニアは銀以外には通貨と認めないので、銀の産出しない九州では代わりに売る物が無い。
フィリピンの現地人は働かない。鞭を振るって働かせようにもサボタージュするか反抗してくる。マゼランの様に殺されたくもない。
当然の様に奴隷貿易が始まるのだが、豊臣秀吉はその事を知らされていない。石田三成と豊臣秀長の対立は奴隷貿易が原因である。
豊臣秀長:「なりませぬ。本邦の人々を奴隷として異国に売り渡すとは以ての他、兄上に直談判いたしたい。」
石田三成:「まぁ、落ち着かれよ。民共はイスパニアの進んだ農業を学ぶため送りこんだに過ぎん。
それに上様の銭の使いようも酷すぎる。致し方ないではないか。筑前の守、太宰府の守も名前ばかりで実入りは少なく火の車なのじゃ。」
豊臣秀長:「されど、九州から民がいなくなりまする。ただでさえ田畑の実りの少ない土地にござりまする。」
石田三成:「そうよのう、考えねばなるまい。」
三成はなぜ秀吉が名護屋を選んだか不思議に思った。普通なら博多か太宰府に城を構える。そして自分の口から漏れた(約束の地)という言葉にも訝しく思うのであった。
年号は長く続いた天正から文禄に変わろうとしていた。