戦国三都物語:永楽通宝で日本統一 7 豊臣秀吉 2
話がアッチコッチに跳んで申し訳ない。確定申告が済んだら整理します。
確定申告がいらない信長の戦国時代に行きたい。
(秀吉軍団、玄界灘へ)
いきなり話が変わる。ジャパネットタカタのクルーズ船、MSCベリッシマ 33話の鞆幕府 6 YANMAR密輸事件を御参照戴きたい。ジャパネットと来島水軍の取引で船外機発動機がイスパニア総督府に渡った事件である。
それと前回の秀吉の筑前と肥前の一部への国替えの件である。察しの良い読者ならお判りになると思うがこの二つの要素が重なり合う事になる。
肥前玄海の丘陵地に秀吉一行は茫然として佇ずんでいた。
豊臣秀吉:「なんと、ここが約束の地とやらか。何もないではないか。」
石田三成:「左様に御座います。我ら新天地にて新しき都を築きたいと存じます。」
1,587年(天正15年)の早春の話である。玄界灘から大陸の潮風が渡ってくる。近くに壱岐、その先90キロに対馬が霞んで見える。朝鮮半島は見えない。『太閤が睨みし海の霞かな』だが地元の人に言わせると即答で対馬は見えないと返答がある。秀吉が見たのは雲の切れ目だったかも知れない。
秀吉の作った家臣軍団は戦闘民族である。サイヤ人でも半農半民ではない。信長が作り秀吉が踏襲した。すなわち戦闘以外に生きる糧を得る術を持たない。信長も播磨に居ては気が休まらない。だが秀吉軍団を九州に国替えした事はまさしく、(虎を野に放つ)行為だったのである。
ところで読者の中には森蘭丸や石田三成を奇異に思われる方も居られると推測する。筆者も今は彼らの素性が判らないので明言は出来ない。
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この39話のみ1589年(天正17年)まで話が跳ぶ。
豊臣秀吉:「三成。。。あのジパングタカタのクルズ船は、その後の音沙汰は無きか。」
石田三成:「はい、どうやら去年(天正16年)の航海で台湾沖で沈没したと思われます。」
豊臣秀吉:「やはりそうか、、あの様な見上げる城の如き船が海に浮かぶなど道理に合わぬ。して、何人乗っておった。」
石田三成:「ははぁ、乗客が5000名、乗組員は500名ほどにございます。」
ベリッシマの乗組員は運航に必要なだけに削減されていた。従来の3分の1である。乗客は選別されていた。労働力となりえる10歳から30歳までの男が3000名、女性が2000名である。10日間のクルーズであるが、旅費は1000文=1貫=5万円と格安なため応募が殺到した。もっともこの当時の九州の百姓の年収は年20万円にも満たず更に大半を地侍に取り上げられていたので大金というより、大半は無い袖は振れぬであった。しかしいつの時代も富裕層はいるものだ。選抜された乗客や児童の親に、高田社長の魔法の呟きが乗船をその気にさせた。
高田社長:「いつもの販売価格は銭6貫ですが、特別に1貫としておりますが、さらに此処だけ、貴方だけに限定です。銭500文、銭500文、銭500文............」ですよ・・・
この一回のクルーズでの売り上げは2億であったが戦国日本の貨幣など意味をなさなかった。高田社長はリベートとして石田三成に半分の一億円を惜しげもなく渡した。
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1588年(天正16年10月)クルーズ船、MSCベリッシマは5000人の乗客を乗せてフィリピンに向かう。無料のオプショナルツアーで行き先が決まる。ルソン島に1000名、ブルネイに1000名、ミンダナオ島に1000名、マニラに2000名といった具合である。特筆すべきはマイニラ総督府に比較的スタイルの整った300名の女性が降ろされて(検査)を受け100名ほどが総督府用に選抜された。
(検査)の内容は無論、身体検査である。詳しく内容を報告したいが物凄く長くなるので今回の話では止めておこう。
このような経緯でジャパネット、YANMAR発動機、イスパニア、豊臣秀吉(石田三成)は事実上の同盟関係になった。
この年の7月から8月にかけて英仏海峡においてアルマダの海戦が有ったが、この時点では戦果はイスパニア総督府のフランシスコ総督には伝わっていない。
フランシスコ総督にとっての報告事項は(勝敗)でなく、あくまでも(戦果)である。
フランシスコ:「今度こそ負ける訳がない、我が無敵艦隊の相手は未開民族のイングランドだ。こちらから送った船外発動機が有れば負ける訳がない。」
フランシスコ総統の傍らの机の上には「角川まんが学習シリーズ・世界の歴史」が有ったが日本語なので通訳を介さないと理解し難かった。