鞆幕府 6 YANMAR密輸事件
現代日本からの技術流出が止まらない。織田信長軍団の独占は何時まで続くのか。今回ジャパネットタカタの高田前社長が登場。なんとなく懐かしい。
鞆幕府を襲った渋川党・備前本願寺の包囲事件は終了した。そして瀬戸内海地域での織田信孝の権威を不動の物とした。以後(兵部卿中将・織田信孝)と呼ばれる。
兵部の卿は朝廷の役職名、新たに作られた令外の官:征夷中将軍とを併せ持った呼名である。
包囲軍の2000名の兵士は、いつの間にか霧散した。報酬に預かれないなら居ても仕方ない。
天正13年(1585年)5月、瀬戸内海を揺るがす大事件が発覚した。世に言う(天正YANMAR発動機事件)である。
事件の概要は、YANMAR発動機の船外機が来島村上水軍に渡ってしまった事に始まる。
兵部卿中将・織田信孝:「何だと、それは誠か?」
蜂屋頼隆:「来島村上氏に既に30台の船外機が渡っています。」
絵図面が広げられる。四国伊予の先端に位置する小さな周囲850メートルの小島が来島村上水軍の本拠地である。
事件の概要を続ける。現代日本の家電量販店・ジャパネットが10日間のクルーズ販売をしていた。秋の日本一周+済州島で窓無しなら1人239,800円である。
ボッタクって1人99万9900円取ったが時節柄仕方ないし、富裕層には痛くも痒くもない。
その済州島の代わりに松山が寄港地に選ばれた。当時、現代日本では戦国日本への接触を厳しく制限していた。歴史改竄が現代日本に及ぼす影響を危惧しての事である。
1582年6月に本能寺の変が史実通りに起こったが、信長の圧勝に終わった。なのに現代日本に変化は無く、岸田政権の歴史介入禁止のタガが緩んだ。
信長も現代日本との接触を厳しく制限していたが、伊予の河野氏も来島村上水軍も御触れを聞く必要は無い。伊予は信長の勢力外で毛利の影響下だった。
※ちなみに織田信孝が首領として大抜擢された天正10年の四国征伐は中止されている。
高田前社長:「本日はジャパネットタカタのクルーズ船、MSCベリッシマに御乗船、誠に有難う御座います。戦国時代の済州島は未開でして、伊予松山への寄港とさせて頂きました。」
この時、来島村上水軍と河野氏は微妙な関係にあり、河野氏を通じて話が成っていたと思われたが、さにあらずにで、ジャパネットと来島村上水軍の間で小競り合いがあり、いくつかの物品が来島村上水軍に渡された。
これより何度かの取引が始まり、僅かな銀と現代日本の物品交流がなされた。ジャパネットとしては先行投資以外の何者でも無く、得るものはほとんど無かった。
村上水軍には、因島、来島、能島が有り、来島村上水軍のみに現代日本物品が流れたのは3派の均衡を乱し、さらには、風と潮流を読んで海運業を営んできた水軍に由々しき問題を起こしかねない事態となった。
と、回りくどい概要説明だったが、実は戦国日本では些かのトラブルも発生していなかった。船外発動機は直ぐに混合油を使い切り、速やかに外された。それなのに後世に「天正YANMAR発動機事件」と言われる大問題になったか。
すなわち超重大軍事機密がイスパニアに回収され、織田信長と在日米軍の激怒を食らったからである。
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久々の登場のマイニラのイスパニア・フランシスコ総督
「これが日本から持って来た、船外機発動機か。いくらした。」
イスパニア商人A:「ははぁ、銀10貫に御座います。」
今の金で1億5000万にもなる。
フランシスコ総督:「何と、何事だ。何になるのか?」
イスパニア商人A:「はぁ、実は買受た時には動きましたので高く買入たのですが、混合油とやらを入れないと動きません。」
※少し注釈をいれると第一次米西戦争から1年半経っている。コーヒーとカカオの栽培が始まっていた。
フランシスコ総督:「あっ、そうだ。草刈り機の燃料を持って参れ。アレで良くないか。」
何と、米空母機動部隊はプランテーション用に草刈り機と混合油を置いて行ったのである。
イスパニア・マイニラ総督府:将兵A
「草刈り機の燃料をお持ちしました。」
草刈り機と外部発動機の類似性に気付いたフランシスコ総督は部下のガンツに言った。
「頭は生きているうちに使うものだよ。」
という経緯でマイニラでは外部発動機が大量生産され、ブルネイから原油がもたらされ精製された。
前回置き去りになった米海軍の巡洋艦も調べられたが、エンジン部が電子回路ばかりで手も足も出なかった。
戦国日本は大きく動いていたが、世界は大波濤の大うねりをもって大きく大変革の時期を迎えていた。
1588年のアルマダの海戦は3年後に迫っていた。