戦国三都物語:永楽通宝で日本統一 1
戦国時代に鉄道開通、大交通網ができる。永楽通宝の旗の元、信長の経済戦略が進む。羽柴秀吉初登場だが脇役。太閤検地も石高制も、こちらの歴史には関係なし。
1583年(天正11年)名古屋〜京都、京都〜大阪・神戸、京都〜若狭湾の小浜港、この街道が急ピッチで整備されている。現代日本の工業・運輸力が畿内の3路線に集中的に投入されている。既に路盤は固められ土系舗装が施される。時代考証からアスファルト舗装は排除された。
すぐ隣に土盛りがされ、砕石が投入される。枕木が並べられ、25メートルのレールを敷設すれば良いのだがコレが難しい。現代なら軌道敷設車が枕木とレールを敷いていくのだが、これも時代考証に乗っ取り、19世紀の方法を採用した。
すなわち人海戦術である。1.25トンのレールがクランプで固定されワイヤーロープで吊るされ、荷ない棒が通され、人足2人が担ぐ。1人当り25キロである。現代人と違い、重いと文句は言わない。
50人で25メートルのレールを担ぎ、適当な場所に降ろす。
現代ではミリ単位だが、戦国時代では気にしない。
枕木に設置する時は井桁を組んで滑車で吊って位置決めをする。
それをチームを組んで交代制で行う。ただしレールは1箇所からしか伸びない。レール運搬に鉄道が必要なのと合わせ目が難しいからだ。
現代の軌道敷設車を使えば良いような気がするが、人海戦術の方が遥かに早い。現代でもレール敷設改修で人海戦術が使われ話題になる。
織田信長:「墨俣の一夜城の如きにはならぬかな。」
羽柴秀吉:「組んだ物を、その場で組立てれば造作もござません。」
織田信長:「吹いたな。秀吉、次回はソチに任せよう。」
羽柴秀吉:「滅相も御座いません。」
この頃、信長は秀吉を「猿」とは呼ばなくなった。史実では自分に変わって天下人である。
側道の街道が出来た後の鉄道の敷設は驚くべきスピードで進んだ。ただし、それは現代日本の技術者が驚く話であり、歴史上、鉄道建設は凄まじい速さだった。
9000キロに及ぶシベリア鉄道は23年の歳月を要したが、1日当りの工事量は1.07キロである。ただしシベリアは半年は雪と氷に閉ざされている。偉業と言う他ない。
京都〜神戸間80キロ、名古屋〜京都間130キロ、若狭湾小浜〜京都80キロ、の鉄道が半年で出来た。これにより北前船、瀬戸内海航路と合わせた大交通網が出来たのである。
だだし関東:北条氏や仙台:伊達政宗は今だ大変革の蚊帳の外だった。