上杉景勝と森蘭丸 3
能登半島に揚陸した自衛隊員と織田軍団、奇想天外の越後攻略作戦が始まる。司令官&料理長は森蘭丸。
越後:上杉景勝は最終防衛ラインを突破され完全に死に体になっていた。ところが6月2日の本能寺の変より先、織田軍の攻撃が突然終息した。柴田勝家は領国の越前に帰り、織田信忠も京都での執務に当っていた。
既に季節は9月になっていた。稲の穂が実り半農半民の越後兵は帰参し始めた。というより兵糧が尽き、帰らざるえない。帰ったとしても秋の収穫まで米粒1つない。家族は戦地からの禄微に淡い期待をしているが手ぶらで帰らねばならない。
越後兵A:「今度の戦は、ハナからの負け戦じゃ、勝てる見込みも、食い物に預かる当てもない。」
越後兵B:「御建の乱からこっち戦続きだ。景虎様が勝っておれば北条からの施し米なと有ったやもしれん。」
越後:天神山城、天正十年(1582年)の魚津城の戦いで、上杉方の守る魚津城が織田方の軍勢に取り囲まれた折、援軍に駆けつけた上杉景勝の陣を敷いた城である。
その魚津城は本能寺の変の翌日に凄絶な落城をした。
天神山城の城兵も春日山城に逃げようにも、既に織田方の将で信濃川中島一帯を制圧した森長可により街道が閉ざされているやもしれない。越後一体は織田軍や徳川家康の草刈り場と化していた。
後詰も無く孤立無援の天神山城は既に命運は決している。
「能登半島の東岸に中型漁船が現れる。現代日本の底引き網漁船が若狭湾小浜港から日本海を北上して来た。」
かなり話が紆余曲折したが、前回の冒頭からの続きである。
現代日本漁師A:「アッという間に網が一杯になる。手付かずの海は凄いもんだ。」
現代日本漁師B:「だなぁ、アッチの日本じゃ底引き網が海底をほじくり返してどうもならん。海の砂漠になっとる。」
現代日本漁師A:「文句言うな、こっちの若狭湾も大漁続きだが、やっぱし能登は凄い。お宝の山だ。」
大型の越前蟹、現代日本では市場でも5万円はする。ブリ、富山の寒ブリは最高である。時期外れではあるが脂の少ないブリも美味い。白エビ、鯛、さらに底引き網では通常取れない岩場の鮑でさえ岩礁をさらいながら網に入る。
魚津城の波止場
漁民A:「なんとまぁ、馬鹿でかい船だのう。」
漁民B:「あれが噂に聞く信長様の鉄船かぁ、恐ろしいもんじゃのう。」
自衛隊の輸送船「オオスミ」が沿岸に近づくと幅4メートル、長さ15メートルの台船が1台、艦底より射出される。さらに曳航された2台が後に続く。
最初の1台が水煙をたてながら、スピードを上げて浜辺に乗り上げると、後の2台が連結されて浮き桟橋となる。さらに台船の隅角部に杭が海底に打ち込まれ固定される。その間、僅か15分、幅4メートル、全長45メートルの半固定桟橋が瞬く間に出来る。海岸での細かい渡し板作業を経て海に繋がる道が出来る。
オオスミが桟橋に接岸すると、先ずは武装した自衛隊員数名と織田軍団の兵士が上陸する。
続いてオオスミから物資コンテナが陸揚げされる。次に中型底引き網漁船から水産物を満載した水産コンテナがローラーコンベアによって運ばれる。
仮設テントが張られ、瞬く間に駐屯地が出来る。災害派遣で培われた熟練の技術である。