上杉景勝と森蘭丸 2
題目と全然関係ない方向に話が進んだ。頭を冷やすために短いが今回は話を区切ろう。
能登半島の東岸に中型漁船が現れる。現代日本の底引き網漁船が若狭湾小浜港から日本海を北上して来た。
話はやや遡るが、小浜港には埠頭が新設され、コンテナハウス20棟の建ち並ぶ仮設集落が作られた。仮設集落と言っても5.5メートル✕2.3メートルのユニット三連=38平方メートル=11.5坪が基本である。
間口4間弱、奥行き3間、現代日本から考えれば極小住宅であるが江戸時代の長屋:間口1.5間✕奥行2.0間に比べれば遥かに広い。
征夷大将軍:織田信長と正親町天皇の依頼により、
急遽、港湾整備がなされた。さらに若狭街道が整地(鋪装ではない)されて高速車道(高速道路ではない)が出来た。若狭湾から京都まで琵琶湖の水運を利用せず、80キロの道のりを僅か8時間で走破する。概して琵琶湖水運が速いようだが荷物の積替えを要するゆえ、丸一日掛かっていた。新若狭街道は鯖の塩が馴染む前に京都に着いてしまう。故に薄塩鯖街道と名付けた奴がいるが一般受けはしなかった。
1582年後半、織田領内でのインフラ整備は急速に進んでいた。というのも6月2日の本能寺の変以来、現代日本との協定により情報隠蔽が解除された事による。 現代日本の上層部が本能寺の変までは歴史介入を極力抑えていたからだ。
織田信長生存、織田幕府成立、という新たなる歴史が作られた事により(歴史介入への危惧)が無用と判断された。
すなわち、上層部の判断は(毒を喰らわば皿まで)に方向転換されたのである。
先ずは街道の整備であるが、尾張名古屋〜京都、京都〜大阪、京都〜若狭湾への街道沿いに鉄道敷設が急ピッチで進められていた。なぜかと言うと「暇だから」である。
巨大な輸出産業に支えられて来た工業立国は新たなる投資先を作らなければならない必要性に迫られていた。
話が飛び過ぎる。畿内のインフラは後日に回して、
能登半島の話に戻る。令和6年1月の能登半島地震の被災者の皆様には篤くお見舞い申し上げます。(また脱線した。)