102 1594年2月2日 名護屋城攻城戦10
ようやく名護屋城攻城戦が終息しました。長らくの御愛読ありがとう御座いました。
別府の元祖・豊臣秀吉の食事
1594年2月2日 PM6時
戦闘が始まってから8時間になる。戦線は膠着状態になった。イージス艦が半島の西岸から100メートルの位置に錨を降ろしている。脱出の準備は整っているが血路を開いての強行突破は下策でしか無い。
ここまで反乱軍20万の死者は4万人、内訳は艦砲射撃で3万人、自動防御システム【八咫烏】にて9000人、城郭での直接攻防戦は1000人である。
既に逃走した兵が3万人だから残兵は13万人である。怪我人も多いため実質10万と開戦時の半分になっている。
対して守備側の鞆幕府150名・自衛隊50名・場内守備兵100名の死者は直接攻防戦による10名であるが砲撃による怪我人が増えている。死者は全て織田信孝配下の鞆幕府軍である。
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小西行景:「如何なる仕儀とあいなりますか。」
小西行景は小西行長の実弟で、前話の反乱軍大将Aである。好戦的な島左近に変わって終戦処理を任されたようだ。ただし反乱軍は指揮系統が無いので明確な役割ではない。
島左近:「のう、小西行景殿、此度の戦は何で御座るか?」
小西行景:「さあな?判り申さんが、たぶん(口減らし)でしょう。」
島左近:「(口減らし)と申されるか?」
小西行景:「朝鮮での戦が済んだのに名護屋城に居座らては邪魔なんでしょう。」
島左近:「なんと!、されば我ら領国に帰るか、新たな地にて傭兵なとなりて働けば良かったのに。」
小西行景:「ところで島左近殿、腹が減らぬか?」
島左近:「腹は減るが、竈門は壊され、さらに戦場で火を炊くなど以ての他。敵の目標になります。」
と言ってから辺りを見渡すと、あっちこっちで火を炊く兵士をが見られた。所詮、内輪の戦とタカをくくっているが戦死者数は只事ではない。ただし、自分は1回しか死なないから、仲間が何人死のうと関係ない。先ずは腹ごしらえである。薄い芋粥なと口に入れねばならない。
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名護屋城1階
茶々:「やれやれ、1階の妾の家が水浸しになったではないか。あのスプリンクラーは、どうかならなんだか?さらにはアチコチに敵兵の死体が転がっておる。」
村上景子:「茶々様、ここは危のう御座います。何処に敵兵が潜んでいるか判りませぬ。」
茶々:「そんな事より困ったのは夕食じゃ。唐津から出前は出来ぬと申す。誰ぞ買いに行ってくれぬか?」
村上景子:「それは無理に御座います。」
茶々:「まあ良い。それより冷蔵庫の電源が落ちておる。役に立たぬものじゃ。中の物が腐るゆえ手の者にて2階の大広間にあげさせよう。」
和牛や海老、蟹などの高級食材が運び出された。290名の胃袋を満たすには足りなかったが、すべて夕食に平らげた。
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1594年2月3日 AM7時
村上景子:「八咫烏の修理を急がせよ。敵兵が足場に登るのを警戒せよ。」
森蘭丸:「なるほど砲弾が放物線で屋根に当たって転がって足場の側板と足場板に当たって窓を直撃したのですか。見事な物ですな。」
茶々:「なにを感心しておる。賊軍が突入して来たら、最重要電子データの始末は大丈夫か?複写は取っておるか?」
森蘭丸:「大丈夫です。クラウドにバックアップしてます。」
茶々:「クラウド、そのようなトコから流出したら恥ずかしいではないか。」
森蘭丸:「それも宜しいかと存じます。まぁ、大丈夫でしょう。」
茶々:「茶々のセミヌードなるぞ。間違いないな。」
自衛隊の士官が慌ててデータを開くが、暗証番号が掛かっている。
自衛官A:「茶々様、暗証番号を教えて下さい。」
茶々:「あぁ、それなるは1569じゃ。妾が生まれた西暦だが何とする。」
自衛官Aと複数の自衛官の目がモニターに釘付けになった。バックアップは複数のメディアになされた。安全であるが問題が無くも無い。
Chacha以外にもManaKanaというフォルダが有った。暗証番号は1575でアッサリ開いた。
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賊軍(包囲軍)の戦略は決まった。本丸の陣屋を放火して煙幕を焚きながら一点突破である。
小西行景:「して、こちら側の損害は如何ほど?」
島左近:「おおよそ2万かと思われます。」
小西行景:「たどり着く前に全滅しないか?」
島左近:「戦はしてみないと判りませぬ。」
小西行景は沈黙した。
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森蘭丸:「織田信孝殿、昨日は血路を開いて逃げると申されたが、如何がなされた。」
織田信孝:「いや、かなり危なかったので、これまでかと思ったゆえ。」
森蘭丸:「急に相手の攻撃が手緩くなりましたな。」
織田信孝:「そうじゃのう。残念じゃった。」
森蘭丸:「残念と申されると?」
織田信孝:「一度、一か八かの退き口がやってみたかっただけじゃ。」
森蘭丸は沈黙した。
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決戦の翌日は後片付けが大変である。これは双方合意の事であるが、何処からともなく後片付け人が現れて死体から武具や鎧を剥がにして死体を積み上げる。今回は塹壕があったからまとめてリヤカーで投げ入れる。後日、塹壕芋なる物が栽培され観光客は甘くて美味いと喜んで食べたが、地元民は嫌がって食べなかった。
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1594年2月4日
膠着状態が続くが賊軍(包囲軍)は8万に減る。傷病兵は2万、合わせて10万となる。
イエスズ会より傷病兵の治療や、粥の炊き出しの申し出が有ったが名護屋城側が断る。
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1594年2月6日
イエスズ会の傷病兵の治療や、施粥所が名護屋城の南西20キロの玄海町に出来る。
関処で仕切られ、一度入ると名護屋城や唐津やは戻れない。半死半生の傷病兵が辿り着けずに半数が路上で命を終える。名護屋城の包囲軍は5万に減る。
同時に名護屋城の修繕が行われるが、瓦の損傷が激しく廃棄処分となり、石見地方から石州赤瓦にて吹き替えられる事になる。
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1594年2月10日
鞆幕府隊が備後に帰還する。後日、豊臣秀吉宛に請求書が送付されるが巨額にて驚く。300万貫(1500億円)である。この時点で秀吉の借金は1100万貫(5500億円)となった。
当の秀吉と諸侯は未だ温泉津の(のがわや)で遊興三昧である。当主の女将が恐る恐る500貫(2500万円)の請求書を出したが、戦費に比べれば僅かな額である。秀吉は現金で軽く払った。後から諸将に1人当たり20貫(100万円)の請求書が届いた。
同時に万暦帝と豊臣秀次にそれぞれ200万貫(1000億円)ずつの(ご融資のお願い)が出された。これまでの融資と合わせて、それぞれが600万貫(3000億円)である。融資依頼書には、返済計画が唐津・名護屋城のリゾート開発となっているが、更なる追加融資依頼は確実である。
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1594年3月10日
ようやく諸侯と秀吉が名護屋城に帰って来た。旅費は交通費と滞在費、お土産代を含めて総額2000貫(1億円)である。1カ月で1人当たり60貫(300万円)だから大名旅行としては質素だったかも知れない。
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豊臣秀吉の借金は1200万貫(6000億円)となったが、ピンハネ分や又貸しの貸付利息で200万貫(1000億円)の現金が残った。秀吉は戦が銭になるとほくそ笑んだ。言うまでもなく秀吉は影武者・嘉藤治五郎である。
元祖・秀吉は別府の安宿の6人部屋(8畳)に泊まり、毎日温泉に入って、同宿の人間と質素な食事をしているが、それはそれで楽しい。