十一話
十一話
「天覧会?」
耳慣れない言葉を耳にした。
午後の実技が終わったあと、楽常が何気ない感じでおれに告げたその言葉。
「そうだ。北の帝が、じきじきに鳳凰院に参られる。明後日の予定だ」
「えっと。それって、帝が来て、何をするわけ?」
「決まっておるではないか」楽常が笑う。あごのヒゲを、右手で撫でながら。「無論、おまえたちの顔を見に来るのだ」
「ええ?? おれたちの?」
「そうだ。ここで娘たちが、日々、どのように励んでおるのか。それはじっさい、どのような娘たちなのか。それを帝が、直接その目でお確かめになる。ま、くだけた言葉で言えば、視察のようなものであるな」
「ああ、なるほど。参観日っぽいイベント、ってわけね――」
そのときその時点では、
おれは、あまりそのことを気にもしていなかった。
だがしかし、
その午後以降、誰と話しても、出てくる話題はすべてその「天覧会」のことばかり。
「あんたほれ、蜜柑。あんたね、普段よりもっと、化粧もすべて、色気出して、ちゃんとしていくんだよ。いちばんいいとこ、帝さんにお見せするんだよ。こら、あんたそこ、ちゃんとほんとにわかってんのかい?」
などと。
寮長の婆さんまでが、なにか、わざわざおれの服だの髪だののことを、前日からすでに心配してダメ出ししてくる。夕餉の食堂では、ひそひそと、朱雀寮に住む娘たちすべてが、「天覧会が」「天覧会の――」「帝が――」とか。そればっかり話題にしている。おれはいい加減、それでもあまり、わりとどうでもいいわ。とか、思ったりもしていたのだが。
「今から緊張してしまいますわ」
同室の猫までが、そんなことを言って、なにか珍しくテンションが高い。
部屋でもやたらと、そわそわしている。
「なにしろわたくし、直接帝にお目にかかる機会はこれが初めてです。いったい何を着ていけば良いものでしょうか…?」
「ま、それで言うとおれも初めてだけど。なんかあんまり、ピンとこないなぁ。ミカドとかって、そんなすごいヒトなの?」
おれは適当に、そんなコメントを出してみた。
猫が意外そうに、おれの顔を見つめ返す。
あ。やばい、、本気で数奇な珍獣を見る目だ、これ。。
「ええ? だって蜜柑さま。他でもない、帝、でございますよ? ここにいる私どもすべてが、あるいは将来の―― その、運命を添い遂げる方にと。あるいは、と。誰もが心にとめている、その方ですよ? それはもう、心が騒がない方が、これは、無理というものではないでしょうか…?」
ああ。なるほど。
まあ、言われてみれば。
なんかおれは忘れがちだけど、ここってもともとが、花嫁学校なわけだ。
そこにきて、将来、自分の旦那になるかもしれないっていう、その男が。じきじきに見に来るわけか。んん、なんか、そう言われたら、皆がやたらと騒いでる理由が、少しはおれにも理解できた。
でも、猫までが、そういう、
わりと異性を露骨に意識した可愛い発言するとかは。おれはちょっぴり意外だった。
ま、この子もこの子で、年相応に、男相手に心をときめかすとか。
まあ、あるわけだね。って、あたりまえか。うん。あるある。当然だ。
ま、でもなんか――
わりと気やすい、近しい友達かと思っていた猫までが、実際そういう発言すると――
ちょっと、おれ的には残念な気持ちもした。うーん、複雑な気持ちだ。
って、え、なんで残念なんだ。よ、よくわからこと言ってるぞ、自分。。
まあしかし、かくいうおれは――
まあ、言ったら悪いのだが。しょせんは相手は男、なわけで。
心が騒ぐとか。そういうのは、ちょっと、ん、皆無だな。ないない。
むしろ毎日、猫とか綿虫とかと、同じ部屋で眠るとかの方が、よっぽどドキドキだよ。
とか、言っちゃうと、今これ女の子の身である立場上―― じっさい口に出したりは絶対、できないんだけど。この気持ち――
まあしかし――
あとからふりかえってみると、この時点では、おれも含め、
鳳凰院の誰もが、予想はしていなかっただろうと思う。
その、翌日に行われる、その天覧会っていうイベントが――
結果として、あんなにも巨大な大事件に、そのあと発展してしまうなどと。
いや。誰がいったい予想しただろう。
まったく。どこの世界でも、運命ってものは、つくづく予断を許さない――
翌日は朝から雨が降っていた。小雨ではない。けっこう本格的に降っている。
朝、いちばん最初の「和書の講」。
おれがその、鳳凰院のとある小間で、いまだに慣れない筆を相手に格闘しているとき。
窓の外が、なんとなく騒がしくなった。ちらっと外を見ると、なにか、大勢の人間が本館の前庭に集まってきている。その中央には――
なるほど、いかにも偉いヒトが乗りそうな「輿」ってやつが見えた。祭りなどで使う神輿とかを、もう少し質素にした感じのものだ。そんなに豪華絢爛なモノには見えなかったが、流れ的に、きっとあれにミカドって人が乗っているんだろう、とは思った。その周囲を、なにげにカッコいい鉄兜とかの装備でかためた警護の兵士たちが固めている。
とはいえ、まあ、おれはわりと部外者の気分というか。「ああ、来たんだな。」くらいにしか思ってはいなかった。
午後からの組手の実技で、また、あの恒例の和風ストレッチみたいなやつを、床に這いつくばって入念に行っているとき―― 手前の扉がいきなりひらいて、いかにも高級そうな黒っぽい着物を着た役人風の男たちが数名、どやどやと、なんの断りもなく入ってきた。
「よい。そのまま続けよ。普段のありのままの講座の風景を、ミカドはご覧になりたいとおっしゃっている」
偉そうな口調で、男のひとりが言った。
おれはなんだか、いきなりギャラリーが増えたことでちょっぴり落ち着かなかったが―― 先生である楽常の方からも、とくに中断の指示はなかったので――
なんだかなぁ、と思いながらも。続けてその、「寝技」の、その八番目のやつを、とろとろ、ゆっくりまったり、床の上に転がりながら続けてみた。息を吸い―― またゆっくりと吐き―― 吐ききったところで、またゆっくりと吸う――
そのとき視界に、ひとりの男の姿が入った。
おれを上から、のぞきこんでいる。なんだかやたらと綺麗な顔をした、若い、クールなイケメンさんだ。美形にもほどがあるだろう、という。え、でもひょっとして、このヒトが――
「蜜柑、だな?」
やわらかいが張りのある、よく通る声がした。
「えっと。は、はい。そうですが?」
おれは一瞬あわてて、体を起こそうとしたが――
「よい。続けよ。そのまま」
「あ、はい。じゃあ、つづけます、けど――」
その男は、落ち着いた、すごくシックな光沢のある海老茶色の着物を着ている。頭には、なにかちょっと見ない形の、カッコいい布帽子、あるいは和風の冠っぽいモノをかぶっている。
「ふむ。存外真面目に、励んでおるようだ」
「あ、は、はい。マジメですよ、おれは。」
「ふ。良い。続けて励むがよいぞ、蜜柑」
「あ、はい。頑張ります。。」
それだけの会話をかわすと――
その男は、足音をほとんどたてずに向こうに遠ざかり――
その、一群の役人たちと、なにか言葉をかわして。そのあと全員、連れだって、奥の扉をくぐって去って行った。
「もう、行ってしまわれたな」
楽常が、男たちが去ったあとを目で追った。
「えっと。今のがひょっとして、ミカド、だったの?」
「そうだ。おまえ、なにかお言葉を頂いたようだな?」
「『励めよ』とか。なんか、言ってましたね。。」
「ふふ。的確な助言ではないか。ならばおまえも、今にも増して励まねばならぬな」
「え、おれ、ちゃんとやってますよ! 手とか、いっさい抜いてないし」
「ははは。それはわしも知っておる。冗談だ。おまえは今の、そのままでよい。では、気をとりなおして、実技を続けてゆこうか。では次に、寝技の第九」
「は、はい。では――」