ほんとうのはなし
登場人物
石川夏基 不動産営業2年目。晴とひょんなことから出会う。
小岩井晴 実家が裕福な大学院生。夏基を専属営業に据えて引っ越し先を巡る。
二人の不思議なお話です。ちょっと切ない系。猫ちゃんが出てきます。
エブリスタにあげています。
「あのさ、警察に二人乗り見つかったら、切符切られるからね?」
「まったく『壮絶』だ」
ハルははらっとコートをひらめかせ、俺が漕いできた自転車の後ろからまるで曲芸師のように、軽やかに飛び降りた。
「ここまで巨大になってしまうなんて……。久しぶりに見た。思いが強いんだろうな」
ハルは俺を無視して、ひとりごちる。おかっぱの黒々とした前髪から、深い色の瞳がちらっと見えた。ハルはどこか楽しそうで、惹き付けられてさえいるようだった。彼の声がワクワクとしているのが、伝わってくる。
俺たちの目の前には、大きなマンションが建っていた。一見するとなんてことはない。俺はハルの頭が向いている方向を目で追う。前髪で見えない視線の先が、マンションのてっぺんにあった。俺はそこに何が「いる」のか、分からない。しかし、あたりには人の気配も一切なかった。
中高六年間続けてきた勝負事、スポーツで手に入れた「直感」が告げる。
「危ない!」
俺はハルの前に飛び出した。バリッと音がして、背負っていたリュックと俺が吹っ飛んだ。
「わぁっ!」
俺はざざっと受け身を取る。獣の咆哮が響きわたった。ごぁああああぁぁぁ……と深くて、頭から食べられてしまいそうな、闇を思わせる声。生臭い息につつまれていくようだ。朝なのに空がやたらと黒く、それが咆哮とシンクロする。俺は真っ黒な口に吸いこまれる感覚を覚えて、全身に鳥肌が立つ。直感が囁く。「やばい」と。
「助かったよ、夏基」
だが、ハルはさらっと言ってのける。
「……さあ、『綺麗』にしてあげよう。そして『行きたいところ』へ連れて行ってあげよう」
その目は髪の毛に覆われていて見えない。だが嬉しそうだ。この状況でそんな顔できる? ?然とした。俺のリュック、ズタズタだよ?
「いや、まじでやばいって」
「問題ない」そのしれっとした言い草に俺は思わず、生臭い獣の吐息を思いだし、「ほんと、勘弁して」と叫んでしまった。だが、ハルは何も言わず、たたん! と右足を前に踏み出した。そして、懐から「神邉拾遺集」を出してきて、いきなりあるページを左手で引きちぎる。
「え、やっぱりちぎっちゃうの?」
一ヶ月ほど前、初秋。
「こちらの物件、非常におすすめです!」
俺はそう声を張り上げて、ipadの資料をすらすらと、そして熱意を込めて読みあげた。
不動産仲介営業の二年目が、俺。やっと慣れてきて、やりがいを感じられるようになってきた頃だ。
今日のお客様は、年明けに結婚予定のカップル。
奥様になられる南雲様は綺麗なワンピースが似合っていて、落ち着きも感じられる。会社でも仕事をきっちりこなしているタイプ。
旦那様になられる道橋様も髪の毛をさらりとなでつけていて、俺でも分かるようなブランドの眼鏡と時計を身につけている。スーツも質がいいものだ。おしゃれに気を配っているのだろう。
俺は「道橋様はちょっとこだわりが強いかたかな?」と感じた。だからこの「ラ・メゾン岡本」の305号室を案内したのだ。
「……うん、割といいね。広くて動線を考えたつくりがされている」
「さすが、道橋様。こちら○○というデザイナーが設計しておりまして……」
「へえ、いいね。…そうだね、キッチンも機能的だし、ほのかが家事をするのにはいいだろう?」
「……うん、そうだけど、私も仕事があるし。……家事はできるだけ分担して欲しいな」
南雲様がちらっと、道橋様に視線をやった。南雲様ができるだけ言葉を選びつつ、道橋様に自分の要望を伝えようとしている。俺はこれまでも、こういったやりとりを見てきた。だが、あくまで営業として、俺はニコニコしながら「こちら、シンクが使いやすくなっていまして」「収納もたっぷりございます」など、説明する。
「そうは言っても、俺は『△△社』の技術部長だよ? 忙しいのは知ってるだろ」
有名企業名と役職名を声高に言う道橋様は、どこか人を上から見るところがある。
「うん……でも……」
南雲様が黙ってしまう。……いい雰囲気のカップルだと思っていたんだけどな。
「こっちの部屋は広くていいね。書斎にしたいな」
「え? 私は子どもができたら、ここを子ども部屋にしたいんだけど……」
「こちらの南側の部屋を子ども部屋にされては、いかがですか? そういえば、最近はリビングで仕事をされる男性も多いんですよ。奥様やお子さまと会話しながら」
あ、また、「やっちまった」。「は? リビングで仕事?」「子どもと会話しながら?」みたいな軽蔑がかった視線を道橋様は、俺に送ってくる。
俺はこうやって首を突っ込むから、駄目なんだよなあ。
「あ、あの、そういえば、もう一件、いい物件がございます。ここから車で十分ほどです。もし、お疲れでなければ、ごらんになりませんか」
「そうね。ここ、とても素敵だけど……せっかくだから、見させていただこうかしら。ねえ、豊さん?」
南雲様が取りなしてくれて、俺はほっとした。お客様に気を遣わせたら駄目だろ。道橋様は、どこかむっとした態度でいらっしゃる。俺のせいだろうな……。仕切り直していこう。
「では、ご案内しますね! 車を回しますので、お待ちください」
無駄に明るく声をあげる。ドアを開け、お二人を廊下へ誘導するところで、隣の306号室のドアがすうっと音もせず、開く。ぬーっと様子を窺う猫のように、部屋から首だけが出てくる。俺がぎょっとして動けないままでいると、すうっと全身が現れた。少し猫背で、?せぎす、身長は177センチの俺より、少し下くらい。前髪はおかっぱで、目の下まで髪がかかっている。後ろにまでぐるりと髪がラインを描いて、全体的に髪の毛は多い印象。首がやたら細くて長い。薄手でグレーのコートを着て、両手をポケットに入れている。
俺と、さほど年齢は変わらないだろう。だが肌の白さや、生気のなさが、年齢不詳に見せている。俺はなんとも言いがたい不気味さと吸引力を感じて、じっと見つめてしまう。相手がボリボリ頭をかいたことで、ようやく、はっと我に返った。
「あ、あの、私、S山不動産、楠が丘支店の石川夏基と申します」
俺はさっと、名刺を306号室の猫背の男に差し出した。
「……はあ。はい、そうですか」
「今日は305号室の内見をさせていただきまして!」
306号室の猫背の男は、じーっと俺を見つめてくる。前髪のせいでちらりとしか目は見えないが、頭からつま先まで見つめられて、穴が空きそうだった。
そして306号室の猫背の男は、くるりと南雲様に顔を向けた。
「……ねえ、その人でいいの?」
少し冷ややかな306号室の猫背の男の声が、しーんとした廊下でやたらと響いた。
「え?」
「そっちの女の人。その男の人でいいの?」
306号室の猫背の男のやや低くて透明感ある、濃いめのレモンジュースみたいな声で発せられる唐突な言葉に、俺たちはきょとんとしてしまう。だが、我に返ってお二人は「え?」「どういうことですか」と口々に声をあげた。
「その男の人は、まったく『壮絶』だ。いや、言葉が正しくない。『周りにとってすごく迷惑な人生』を、歩んできていますね。小学生の頃はいじめっこ。いじめられっこの男の子を、自習の時にクラス全員で『歌え』『踊れ』ってつるし上げ。挙げ句、『できてない』と昼の残りの牛乳を頭からかけましたね。一番煽ったのは、あなただ。……うん、ここまでの『クズ』、久しぶりです。それに、女の人のお腹を蹴ったことがありますね。それが原因で流産させたのに、お金で黙らせてる。ひっどい。それにパワハラすごいですね。気弱な人を『できない奴』と駄目人間扱いして、周りの士気を高めるなんてゲスもゲス。いやあ、リーダー、社会人として最悪。能力ないですねえ、ははっ」
立て板に水とはこのことか、と、306号室の猫背の男はアナウンサーがニュースを読みあげるかのように感情もなく言葉を吐ききり、最後はたまらないと、明らかに馬鹿にして笑った。
「なんだ、こいつ、何を証拠に」
「いやあ、これだけのことをして、何も感じないとは羨ましい。ほら、子どもがあなたにくっついてますよ。あなたが流産させた子どもみたいですね」
「え、どういうことなの……」
「ああ、すいません、お節介でした。言わなきゃよかったなあ」
「あ、あの、道橋様、南雲様、早く行きましょう!」
俺はそう言って、二人と306号室の猫背の男の間に割って入ろうとする。だが、道橋様の顔が赤くなったり青くなったりしているのを、うっかり見てしまった。
「男の人……道橋さんって言うんですか? あなたが『周りにとっての凄惨な人生』をこれからどう生きようが、僕にはどうでもいいんです。でも、道橋さんに憑いている人たちがかわいそうだ。こんなくだらない人間に執着し続けるなんて、『綺麗』じゃない」
306号室の猫背の男はそういうと、いつの間にか近寄ってきて、何か呟きながら道橋様の肩をささっと左手で払ってのけた。
その瞬間だった。窓が開いて、清々しい空気が入ってくる。そんな感覚がした。心地よい。
「きゃああ!」
俺は南雲様の叫び声で、我に返った。
「子どもの手がべたべたって、豊さんにくっついてたわ! あと、女の人と……男の子と、ほかにもいっぱい、怖い顔をした人が豊さんの体から浮かび上がって、消えてったわ!」
「な、なんなんだよ、俺は知らないよ!」
俺は二人の間で何が起こっているのか、分からなかった。南雲様は何を見たんだ?
「……ごめんなさい。私、具合が悪くなりました。帰りますね」「ほのか、ちょっと待て!」
「あ、あの」俺はお二人が言い合いをしながらエレベータへ向かっていくのを、制止しようとする。
「こんな薄気味悪い、失礼なはなしがあるか! ほのか、待て!」
「気持ちが悪いのは豊さんのほうよ! すいません、石川さん、また連絡しますから!」
「あ、あの、車を回しますが」「結構です!」「ほのか、待ってくれ!」
俺は二人がエレベータで下りていくのを、見つめるしかなかった。
「ちょ、ちょっと、君、どういうつもりだ?」
俺が306号室の猫背の男に向き直る。と、彼は細くて長い首をかしげ「君も」と言い、ぶつぶつ何か言って、俺の体をぱぱっと左手で払ってしまう。
「えっ、な、なに? あれ、あれ?」その瞬間、さっと頭と体の中に風がすごい勢いで吹いていった気がした。驚いている俺に「そんじゃ、僕もモスバーガー行くんで。ではまた。石川さん」
306号室の猫背の男はそう言って、たったった、と階段を使って下りていった。
「まじで、ありえませんでしたよ」
俺は営業所に帰り、リュックをばさっと机において、はーっとため息をついた。
「へえ。不思議なことがあったんですねえ」
バイトの大学生、谷美咲さんが「大変でしたね~ふふ」と気を遣ってくれる。谷さんは少したれた目で、いつもニコニコしているが、仕事がすごくできる。来客、電話対応は完璧だ。
「これで、一件、契約パアかなあ……あーああ」
「そういうの、『見える』人だったんじゃないの? 306号室の住人は」
先輩で契約数も上のほうにいる、木場みよりさんが俺にカフェオレのボトルをくれた。
「ありがとうございます。……『見える』ですかあ。そういや、木場先輩も『見える』んですよね」
「まあね。『見えた』から、なんだってはなしだけど」
木場先輩はつややかな長い髪をまとめて、スーツもびしっと着こなしている。どこか色っぽくて、目が大きい。まつげも長くて唇はぽってりしていて「THE美人!」って感じ。
面倒見がよくて、入社したての俺の教育係を担当してくれた。厳しかったけど、俺はこの人から仕事のイロハを教えてもらった。尊敬してる。
で、木場先輩と、谷さんは「見える」人だ。
何を?
幽霊とか、人じゃないもの。
不動産関係の仕事をしていると、どうしても事故物件やいわくつきの部屋、家、人に関わってしまう。そう言った場所には、幽霊、人じゃないものが時々いるそうだ。そういったものが見えるのは陰キャとはかぎらないのが、この業界の定説らしい。むしろ「明るくて陽気な人」ほど、見えるとも聞いた。
入社してしばらくは、木場先輩が「ここ、いやだ」「また、上から覗いてる」ってひとりで言ってて、この人、独り言が多いタイプかなって、思っていた。
だが、一緒に物件をまわっているうちに、木場先輩が「石川って、『見えない』タイプなんだね」って、言ってきた。そして、ようやく木場先輩や他の人が、俺が見えないものを見ているんだって分かった。
そのうち、木場先輩に「あんたは『見えない』けど『憑けやすいタイプなのね』」って、言われるようになった。それからは帰社した途端、木場先輩と谷さんに「石川! また『憑けて』きたわね」「ほんとだ。どうしていつも『憑けて』きちゃうんですか?」と神棚においてある塩をぶつけられたり、頭からパラパラ撒かれたりした。
そもそも「見える」とか「憑けてくる」とか、俺にはまったく現実的じゃない。でもこの二人が言うんだからそうなのかも……と、考え方が染まってしまったところがある。
「あ、でも、今日の石川はなんだか『綺麗』ね」
木場先輩が、俺の背中にじっと視線を送ってくる。
「え、『綺麗』?」「そうですね。石川さんは外回りから帰ってくると、なんとなく淀んでいる時があるんですが、今日はピカピカしてますよ」
谷さんの言葉に、俺は306号室の猫背の男から受けた爽快感を思い出す。そして今、視界がはっきりしているのを感じた。体も軽い。
「そ、そうですかぁ? 俺、イケメンですか?」
「なんでそういうはなしになるの?」
木場先輩にふっとため息をつかれる。冗談のつもりだったんだけど。306号室の男の件で、少し怖くなって、はなしを明るい方向へ向けたかった。まだ、あの爽快感がヒリヒリと肌にひっついている気がして、ぞくっとした。
「石川さん、かなりこねくりまわしたら、吉沢亮か、中村倫也になれそうですよ」
「谷さん……かなりこねくりまわしたらって……」
「まあ、身長は高くてガタイと姿勢はいいし、目はぱっちりしてて、鼻も高い。左目もとのほくろもちょっと色っぽい感じがして、悪くないんじゃない?」
木場先輩はそういうとはっとして、どこか拗ねたような顔をする。谷さんが「ふふ、木場さんって素直じゃなぁい~」と笑っている。どういう意味だろ。
そういえば、306号室の猫背の男も「綺麗にする」って言ってたな。
二週間ほどして、南雲様からメールが届いた。遠回しに書いてあったが、破談の方向へ進んでいるらしい。
「はあ……。結局、契約を取り損ねちゃったか……。それに、お二人には悪いことしたかも」
俺がため息をつくと、木場先輩が声をかけてくれた。
「仕方ないわよ。『306号室の猫背の男』のせいだと思って。それと、石川はお客様に肩入れし過ぎよ。お客様と、適切な距離感が?めてないの。事情を抱えているお客様もいるんだから」
「そうですね。お二人の事情もあるだろうし」
お客様のためにと、つい、踏み込んでしまう。お客様のニーズをちゃんと見極められていない。お客様の笑顔をみたい、いい家に住んで欲しいってのは、俺の自己満足だ。それをうっとうしいな、困る、距離を取りたいお客様もいるだろう。
その時、営業所の前をポニーテールの女性がすっと通っていった。時々、見かける女性だが、顔はしっかりと見たことがない。ただ、いつも白いニットなのが気になった。季節が変わっても、ずっと白いニットなのだ。たまたまなのか?
ピンポーンと、来客のチャイムが鳴った。
「あの、すいません」
営業所の扉を開けて入ってきたのは、少し猫背で、?せぎす、身長は177センチよりやや、低め。前髪はおかっぱ。両手をコートのポケットに入れている。
306号室の猫背の男だった。
「いらっしゃいませ」
谷さんがにこっと笑いかけて「こちらへどうぞ」と、カウンターへ案内する。
「あの……石川さん、いらっしゃいますか? 『ラ・メゾン岡本』で名刺を頂いたものです」
「はい、石川です。こんにちは! 先日はご迷惑をおかけしてしまって」
南雲様や道橋様にとっては、この男のほうが迷惑だっただろうな。俺も正直なところ、契約が一件なくなって、やりきれないけど。だが、俺はにこっと笑顔を浮かべた。
「いえ、名刺を頂戴できてタイムリーでした。実は、部屋を探していまして。あ、僕、小岩井春と言います」
にこぉっと口もとは笑みを浮かべているが、前髪で目が見えなくて不気味だ。306号室の猫背の男は、その風貌に似合わぬ牧歌的な名前だった。
「それで、どういったお部屋がご希望でしょうか……」
俺は小岩井様の部屋で、呆然とたたずんでいた。
営業所でも同じことを聞いたら、部屋を一度見て欲しい、そのほうが早いと言われて車を出し、あのマンションの306号室に、今、俺はいる。本来、こういったことはしない。だが、小岩井様が、アメックスのブラックカードをちらつかせているのを、所長が見逃さなかった。その結果が、本という本の底にいる地底人の俺だ。前から所長はお金が大大大好きだとは、思っていたが。
ハードカバーの重たそうな本、様々な資料らしきものが、うずたかく積まれていた。図書館特有の、ちょっとかび臭いにおいがする。部屋のすみっこに机とパソコンがあるが、そこにも資料が積まれていた。
「これを全部収納できる部屋を探していただきたくて」
「すごいですね……」
「実家からも『送ってくるな』と、言われてしまって。実家の部屋の床が本の重さに耐えきれなくて、抜けたんですよね」「はあ」
凄まじいエピソードをへらっと笑ってはなす小岩井様はこの間の件もあり、すでに怖い。
「ここも、ほら。本棚が壊れて」
変な形に割れている本棚から、内容も物理的にも重たそうな本が雪崩をうっている。
俺は気を取り直して、あちこち見てまわった。先日の内見で、このマンションの間取りはほぼ把握している。だが、蔵書の数がどのくらいになるのか、興味半分でぐるりと歩いてまわった。
「お仕事は何をなさっているんですか?」
先日の彼の行動から、小岩井様の素性を俺は知りたくなった。
「K大学大学院日本史学科で、古文書の研究をしています」
「へえ! K大学の大学院ですか! 将来は教授とか?」
俺は一気に興味がわいて、つい、大声を出してしまう。
「はい。准教授にって、声もあったんです。ですが准教授には年齢が若過ぎますし、忙しくなる割には研究時間がとれないこともあるので、居残れる間はずっと院生でいようと」
「へ、へえ……」
「うち、実家が裕福なんで」
さらっと小岩井様は言ってのける。
「石川さんは、どうして不動産の仲介営業をやってるんですか」
あまり人に興味がなさそうな小岩井様だが、俺には普通にはなしかけてくれる。
「そうですね。子どものころから間取りを見て、あれこれ想像するのが好きでした。ぶっちゃけ、体力があれば稼げるって先輩の口車に乗ったとこもありますね。それに営業はいろんな人と接することができますし。大学は法学部だったんです」
「へえ。人が好きなんですね。面倒見がよさそうですし。体力に自信があると。体もしっかりしてるから、何かスポーツしていたんでしょう? でも、左肩を怪我したこと、ありますね」
「え?」
俺はぎょっとした。前髪で隠れている目が、俺をじっと見つめている気がした。
「無意識にかばっているし、左右のバランスがやや悪い。肩の怪我をしやすいのは、コンタクトスポーツですがラグビーではありませんね。ラグビー選手みたいに首は太くないし、肩も盛り上がっていない。耳の形も普通。サッカー選手? いや、体の重心が下にない。上半身が発達していて、逆三角形の体型。……水泳ですか」
「え……そ、そのとおりです。すごいです!」
俺は思わず感嘆の声をあげた。
「見ていたら分かります」
つかみどころがない小岩井様だったが、にっと口の端をあげて笑うと少年ぽく感じられた。
「その観察力は先日の道橋様の件と、つながっているんですか」
「ところで、肩を痛めた理由は?」
あれ、さらっと道橋様の件は流されたな。
「たしかに私、水泳を中学時代からやってたんですが、高三の時に水泳肩になってしまって。頑張り過ぎて、空回ってしまうんですよね。……今でも。結局、腱板が断裂してしまって、治りきらなかったんです。大学の推薦もとれそうだったんですけど、駄目で。一般で入りました」
「それは残念ですね。でも、D大学法学部なら、推薦が駄目になったあと、相当勉強を頑張ったのでは? 偏差値はかなり高いですよね。努力家で地頭も良さそうだ」
「あ、ありがとうございます……。でも、どうして大学が分かったんですか」
「さきほど、リュックからコインパースが見えました。D大のマークがついていたので」
「さすがですね! 俺はそういうの、さっぱり見てないほうで」
「そんな感じですね。でも、石川さんはとても『綺麗』だ」
「……はい?」
それなりに身長はあって、俺はまあまあイケメンだとは言われるけれど「綺麗」って、男性から言われたことはない。
「石川さんは『綺麗』な人です」
「『綺麗』」
俺はオウム返ししてしまう。
どういう意味か、聞こうとしたが「すいません、大体の本の重さと数をカウントしたいので手伝ってもらえませんか」小岩井様がそういうので、部屋を見渡す。数百冊じゃきかないぞ。
「そもそも、古文書の研究をしていらっしゃるとのことですが、どういった研究なんですか」
俺は、小岩井様の住環境のヒントになるかと思ったのが半分、興味半分で質問した。
「『神邊拾遺集』という、十二年ほど前に発見されたものを研究しています」
「かんなべしゅういしゅう?」
「ええ、拾遺集というのは『こぼれおちたものを、拾い集めて作った』と言う意味です。説話、世間話、恋愛話などを集めた本のことを言います。恐らく、成立は鎌倉時代初期。不思議なことに、『神邊拾遺集』が見つかったのと、ほぼ時を同じくして『砥峰物語』『言事談』という、同じような物語を編纂したものが見つかっています。ただ、成立時期はややずれているようですね。ですが、影響しあっているのが分かりました」
「どうして分かったんですか」
「文体と内容ですね。『神邊拾遺集』と『砥峰物語』の作者は知り合いか、もしくは住んでいる地方が一緒だったのでしょう。言葉遣いや、収められている説話が似ているんです」
「そんなことまで分かるんですか。一種の謎解きですね」
「ええ、点と線がつながるスリリングさが学問の醍醐味です。もしかすると、ライバルだったのかもしれません。共作していた可能性を示す文献も出ています。『言事談』は少し年代がくだって、女性が『神邊拾遺集』と『砥峰物語』のいいところをうまく取り込んで、アレンジしたような形跡がみられます」
「なぜ、女性だと?」
「仮名文字を使っているのと、全体的に荒々しい部分がある二作品を、うまく恋愛ものや人情ものに変更している部分ですね。あくまで、僕が推測しているかぎりです。平氏が滅び、鎌倉幕府が開かれた時代なので、乱世ではあったでしょう。仏教説話への改変も多いので、信心深い尼僧が作者かもしれません」
「すごいですね! じゃあ、小岩井様は『神邊拾遺集』だけではなくて、その二つの古文書も研究されているんですか」
つい、身を乗り出してしまう。こういった俺が知らない世界のはなしは、もっと聞きたくなる。
「ええ。最初は『神邊拾遺集』だけでしたが、ほかのものも研究しておかないと『神邊拾遺集』の本質、作家性、誰が書いたかが分からないので」
その口調は少し早くなり、熱を帯びたものになった。レモンジュースでも炭酸入りみたいな澄み切った声になっている。
「それに、鎌倉時代の本が現存しているってことですか? すごいですね!」
「え、ええまあ。あ、それ、原本なので注意してください」
俺の背後に積まれた本のてっぺんに、うやうやしく白い箱が置かれていた。
「えっ、これが原本ですか! やばくないですか、保管方法が! 普通は図書館で手袋して読むものでは!?」
びっくりしている俺をはために、「もちろん電子化はしてますし、複製本はK大の図書館に所蔵し、僕が持ち歩いているものもあります。それに『神邉拾遺集』原本は、僕に所有権があるので」
「え?」
「十二年前、『神邊拾遺集』を見つけたのが、十二歳の僕だったんです」
「大発見じゃないですか! どこで見つけたんですか」
「資金難で閉鎖が決まっていた図書館です。父は文化財保護に関心がある人で、その図書館を買い取りました。僕は『神邉拾遺集』を、古びて薄暗い図書館で見つけたんです」
小岩井様はその箱を取って開けてくれる。こんな貴重なものを俺なんかに見せていいのかな。
文書保存箱と言う白い段ボールみたいな箱の中に、大きめに切った薄めの和紙に包まれている古い紙のまとまりがあった。
「これには触れないでくださいね」
たしかにこの『神邊拾遺集』という古文書は「見えない」俺にも、蠱惑的な吸引力を感じさせるものだった。
「待ちに待ったミステリーの新刊が眼の前に積まれている、そんな感じがしますね」
「面白いたとえですね。石川さん、霊などは『見えない』側のようだ。見る人が見ると、不気味に感じるらしいんですよ」
ふっと小岩井様の口角が柔らかくあがった。不気味? 言われてみたらそんな気もするけど、俺には分からない。それより気になることがあった。
「俺が『見えない』って、分かるんですか?」
「ええ。初対面の時も、明らかに『見えていない』人の対応でしたから。……『神邉拾遺集』はいろいろ、いわくつきなんです」
「いわくつき、ですか」
「僕と『神邉拾遺集』とは『絆』で結ばれています。この本との巡り会いは『必然』なんです」
「へえ。学術的な意味で探求しよう! 一生の課題にしている! とか?」
「そう言った面もありますね。ただ、これは僕の教科書で先生、そして『腐れ縁』の相手です」
今までのレモンジュースを喚起させる声ではなくて、とろっと沈殿した果実酒みたいな声だった。
俺は思いきって、小岩井様に直接はなしを切り出した。
「あの、すいません。先日の件でお聞きしたいんですが、小岩井様は幽霊などが『見える』んですか? 私どもの業界でもそう言った『見える』人間がいるので」
「『見える』というか、『分かり』ますね。人ならざるものが何を求めているのか、どう言ったいきさつで『幽霊』や、『首だけ』『手だけ』になったか。どうして、そこに『あるのか』まで理解できます」
「え? 道橋様の過去も、分かったんですか?」
「生きている人の過去は分かりません。ですが、先ほどのように推測はできます。ただ、憑いているものは、死んだ人の霊だけではありません。生き霊もいます。あの男の人に憑いていた生き霊たちの過去、言いたいことが断片的に分かったんです」
今日の昼はカレーです、みたいに淡々と小岩井様は語る。
「道橋様や私に対して、こう、ぱぱっと手で何かされましたよね。あの時、私は清々しさを感じて……。びっくりしたんですが、何をしたんですか」
「いわゆる『お祓い』です。簡易版ですね。本格的なものは別の方法をとります」
「すごいですね。でも、大変じゃないですか。見えたり分かったりしたら、つらいのでは? それに『分かる』ってことを、隠しておかなくていいんですか」
「生まれた時からですから、もう慣れました。痛い目にも遭いましたしね。……自分から『見える』とペラペラ喋りません。大丈夫だなと判断した相手には、言いますが」「痛い目、ですか」
「おいおい、おはなししますよ」
そう言って、小岩井様は立ち上がった。「大丈夫だな」って俺は判断されたのかな。小岩井様と言う人間の形が、特別な枠で囲まれているような気がした。
「……そういえば、小岩井様、十二年前に十二歳と言うことは、私と同い年ですね。お名前どおり、誕生日は春なんですか?」
「いいえ。一月五日です。春生まれの兄が秋、秋生まれの姉が夏。そして冬生まれの僕が春。親がなぜそうつけたのか、分かりません」「ええっと、常識にとらわれない親御さんなんですね」「気を遣わなくていいですよ。石川さんは夏生まれですよね」「はい、七月十七日です」
「同い年ですから、ため口でいきましょう。敬語はもどかしいです。ハルと呼んでください。石川さん……夏基とは長い付き合いになりそうですし。あなたとの出会いも『必然』でしょう」
小岩井様こと、ハルはそう言って「神邊拾遺集」を箱にしまった。彼の言うとおり、たしかに俺たちは長い付き合いになったのだ。
その後、俺は小岩井様こと、ハルの専属営業になっていた。
どういう『錬金術』が使われたのか、分からない。だが、お金大大大好き所長が「石川くんは、しばらく小岩井様のことだけやっていればいいから」と言い出したのだ。
ハルは多忙らしく「今から来て」「都合つくよね?」と呼び出され、車で物件をまわることもあった。その後は彼の買い出しに付き合い、自宅まで送り届ける。これはもう、執事では?
今日も俺は大学に呼び出された。
「車は便利だね」すっと助手席に乗り込みながら、ハルはほくほくとした口調で呟く。
「お金があるなら、車を買えば?」「僕、免許、持ってない。『見える』と運転に集中できないし、スピード出しながら判断するって難しい。車なんて運転したら、僕が『火車』になるよ」「えっと、牛車で車輪の部分が顔で燃えている妖怪ですよね……」「ため口でいいって」
やたらとため口を推してくるんだよな、小岩井様……いや、ハルは。
「現代版『火車』みたいなのは、いっぱい走ってるよ。車体に手や首が憑いていたり、タイヤの横に人が座っていたり。そういった事象より、お祓いもしてない事故車に乗る人間の神経のほうが、僕は怖いけど」
「運転手を雇えば?」「今、君が僕の運転手」ハルはこきこきっと首を鳴らして、しれっと言ってのける。
「でも、君の運転はいいね」
「どういうところが?」
車は湾岸沿い、海が見える高速へ入った。
「もともと運動神経がいいんだろうけど視野が広いし、落ち着いている。あと、ブレーキやアクセルの踏みかたがスムーズだし、ほかの車ともうまくコミュニケーションが取れて、自分から譲ってる。それに歩行者をきちんと見て、当たり前だけど優先している。手を上げたり頭を下げたり、ちゃんと気を遣っている。……それに車とも仲良くなれるんだね」
「なんだそりゃ」
俺はぷっと吹き出す。「車とも仲良くなれる」って、子どもみたいなことを言うんだな。
半ば強制的にため口にしようと言われたが、住んでる世界が違うハルとはなすのは楽しかった。俺はもともと人とふれ合うのは好きだし、頼られるほうだ。歩いていて、道をきかれることはしょっちゅうだし、知らない人からいきなり世間話をされることもあった。
「夏基は子どもと老人と動物には好かれるよね」って元カノに嫌みで言われたけど、必要とされるのは嬉しい。まあ、相手が車であっても仲良くはしたい。
俺の場合、気が合うかどうかは最初の印象で決まる。もちろん、途中で「こんな人だったのか」って思わぬ発見から、見方が変わることもある。水泳で直感や勝負勘は鍛えてきたつもりだ。飛び込み台に乗り、出発合図員の「Take your marks」の声が響いて飛び込んだ瞬間、「この勝負はいける」「ヤバい」って分かる。「ヤバい」と感じた勝負でも自分の力でひっくり返せたら、最高なんだ。
「俺、ハルとのため口も悪くないって思う。俺にとってハルは、付き合ったことがない人種だし。ハルと俺との関係性がどうひっくり返るのか。俺が、ハルが、どうひっくり返すのか。楽しみだよ」
「ひっくり返す、ね。いい言葉だ」ハルはにやっと笑ってみせた。
この日は何件か、物件をまわった。
「ここも、変なのがいるね」
「ほんとに? 事故物件ないはずだけど!」
俺はおすすめ! と自信を持っていただけに、がっかりしてしまう。
「あの……。ハルが、変なものを祓えば、いいはなしでは、ないでしょうか。俺や道橋様の時のように……」
昨日の深夜まで物件選定をしていた分、さすがに弱音が出てしまった。
「それは営業として雑な仕事じゃない? それに、何もないところに住みたいのが人の心ってもんだし」「俺にはどこになにがいるのか、分からないよ」
はーっとため息をついてしまう。厳選した物件なのに「分かってしまう」「見えてしまう」ハルが相手だと、彼のお眼鏡にかなう物件なんてないんじゃ……。
いかんいかん、ため口になってもハルは俺のお客様だ。
「うーんとね、あの廊下のすみっこ。赤いワンピースを着た『女の子』だったものが、形が崩れてどろどろになって、溜まってる」
「まじで……」俺には、ただの廊下の角しか見えない。
「かわいそうだから祓っておくよ」
「女の子なのか? どういういきさつでここにいるんだろう?」
「……長くここにいたせいか、僕も分からないや」
「そういうこともあるんだ」
「まあね。僕も完璧無敵ってわけじゃない」
そう言うとすみっこまで歩いていって、ハルはその辺をぱぱっと左手でほこりを払うように動かして、なにか呟く。
ふっと風が吹いた。気がした。山からおりてくるような、清涼な風。そして、すみっこが少し明るく「綺麗」になったようだった。
結局、ハルに紹介した物件のいくつかは「憑きもの」がいて、あとは条件が駄目だった。だが、これくらいで挫ける俺ではない。やる気も復活している。帰社してからも物件を検索し、いくつかをメールでハルに送った。
午後十一時頃、みんなが帰ったあとの営業所を施錠して出る。体力があってもハルといると常識外のことが多くて、精神的に疲れた。
一人暮らしの部屋に帰宅する前、コンビニに寄るのが俺のルーティン。カスタードと生クリーム二層のダブルシュークリーム、カップ?、ワンカップを買う。ワンカップとボリュームあるシュークリームをいただきながら、お笑い動画を見るのが一日のいやしだ。
「あれ?」
コンビニを出ると営業所の前で見かける、ポニーテールでニットの女性が通り過ぎていく。この辺に住んでいるんだろうか、とその後ろ姿を視線で追おうとしたが、すでに彼女の姿は暗闇の中にかき消えていた。
数日後、K大学にハルを迎えに行き、次の物件へ向かった。メールで送ったもので、ハルの条件に合うものを返信してもらい、内見にいくことにした。
「車内だけどごめんね」と、ハルはテイクアウトしてきたモスバーガーの袋をがさがさ開ける。
そして、あんぐりとチキンバーガーを口に運ぶ。袋がやたら大きいなと思っていたら、チキンバーガー四個を立て続けにぺろりと平らげた。
「よく食べられるな」「モスのチキンバーガーはいくつでもいける」とゴミをバッグにしまいつつ、ハルはさらっと言ってのけた。
「次に行く物件は、僕としては好みなんだけどね……」
はじめて、ハルの食指が動いたらしい。
「たしかに鉄筋コンクリートで作られているし、部屋と部屋の間仕切りもコンクリートだから、強度は高いし、防音効果もある。最寄り駅は御影だから、おしゃれだしね」「おしゃれなのはどうでもいいけど、ちょっと坂が多くないかなあ」「まだ二十代だろ、足腰しゃんとしてるじゃないか」「大学に重たい資料を持って行くのも、大変なんだよ」「カートで運べば?」「僕の繊細な腕が痛むじゃないか」
ハルは割と理屈をこねる。しかも俺よりずっと頭の回転が速いし、口が立つので、いつもやり込められていた。
「じゃあ、二件目に用意していたやつにいこう。駅前で気に入るはず!」
Uターンしようとした時、プルルルルとハルの携帯がなる。「もしもし」ハルが電話に出ると、携帯の向こうから切迫した声が漏れ聞こえてきた。
「わかった。今からいくよ」
ハルはそう言って「ここ、行ってくれない?」と、ナビに住所を登録し始める。
「何かあったのか?」
「ちょっと、めんどくさいことになったみたい。急いでくれたら助かる」ハルの口調は淡々としていたが、少しだけ声のトーンが落ちる。俺は「やばそう」と直感し、目的地へ向かってアクセルを踏んだ。
その間にもハルは、「すぐにお酒と塩とコップを用意して、それから」携帯の相手に指示している。「君たちの手には負えないやつだ。部屋の外に出て。近づいたら駄目だよ」それだけ言うと、ぷつっと携帯を切った。
指定された住所は一戸建ての古い家だった。車を玄関先に止めると、ハルはドアをバタンと開け、ステンカラーコートを翻して素早く飛び出していった。俺もできることがないかと、慌ててついていく。
家の二階にだだっと上がっていくと、白装束の男性と巫女姿の女性がうろたえた様子で、肩を寄せ合って立っていた。
「どうなってる?」
奥の部屋の扉が開けっぱなしになっている。汚部屋やゴミ屋敷みたいに俺は感じた。気持ち悪い。だが、その部屋は空っぽで家具もなく、小さな箱があるだけだった。
「私たちでやれることはやったのですが……力が足りませんでした……」
「了解。お疲れ様だったね。とりあえず、塩とお酒で結界を張るからね」
ハルは紙パックのお酒と塩をコップに注ぎ、指を浸すと、二人にそれぞれ何かを指で書いている。
「夏基も」
俺も同様のことをされるが、これで結界とやらになるんだろうか。しかし、他の二人はほっとした口調で「よかった」「邪悪な『あのものたち』から守ってもらえる」と囁きあっている。
「下がっていて。夏基も近づかないほうがいい……さあ、今から『祓う』よ」
ハルは猫背で独りごちる。たたん! と一歩、右足を踏み込むと、その場の空気が澄んでいくのが分かる。
「まったく『壮絶』だ」
ハルはコートの内ポケットから「神邊拾遺集」を取り出し、何かを呟き出す。どんどんと奥行きのある声になり、その場に響きわたる。
「『神邉拾遺集』だ」「あれが……初めてみました」「『あのものたち』が暴れている」
口々に白装束の男性と巫女の女性が呟いているが、俺には何も見えない。
ただ、ハルが「神邊拾遺集」を開き、そこに左手をあてて、ぐぐっと何かを引き出しているようだった。そして、一気にページを引きちぎる。
「えっ、なんで引きちぎるの?」
俺はびっくりしてしまう。複製本や、コピーを取っているとは聞いたけど、それでもちぎっていいのか? ここで必要なのか? 俺の疑問をよそに、ハルの周りにはふわっと風が吹いているような気がする。
「龍が出てきたぞ」男性がぐっと身を乗り出す。「うそ、龍が『あのものたち』を食い尽くそうとしているわ!」女性が叫ぶが、俺には何が起こっているのか、さっぱり分からない。これ、なんていうコントかな。ぼうっと見つめながら、ひとりぼっちの気分を味わっている。
ただ、何かを呟いているハルの言葉は低くて透き通っていて、オーケストラみたいだった。音楽が脳に直接降り注ぎ、他のことが考えられなくなってしまうみたいな、あの感覚。ハルの言葉と声が俺の頭いっぱいに、洪水のようにあふれ出していく。
心地よい。
何かが弾けた感じがして、また清涼な風が吹いた気がする。ハルは何かを唱え続け、左手のひらを押し込むように「神邊拾遺集」にあて、ぱたん、と本を閉じてしまった。すると、小さな箱の中からぱきん、と音がする。ゴミ屋敷のような気配は消え、しん、とその場が静まりかえった。
「小岩井さん、『あのものたち』を片づけましたね! 薄茶器も壊れたようです!」「すごかったわ! 龍が『あのものたち』を食ってしまったところ……」「ありがとうございます、この家の持ち主も喜びます!」
女性はハルを尊敬の眼差しで見つめ、男性はハルの手を両手でぐっと握る。
「あなたたちも頑張りましたね。大変だったでしょう。ですが、これからはこうなる前に僕を呼んでください。そうしないと、あなたたちのほうが食われるところだった」
申し訳ございません、ありがとうございます、とめいめいに言う祈?師と巫女にハルは「では」とコートに「神邊拾遺集」を収め、たたたと階段を下りて家を出る。俺がオートロックで車の鍵を開けると、ハルはふうっとため息をつき、するっと席におさまった。車を出してもハルは黙っている。
運転しながら、ハルの顔をちらっと横から眺めた。肌は白くて、相変わらず生気はない。
「夏基にしたら、ちょっとしたコントみたいだったでしょ」ハルはくくっと笑った。ずばりその通りだったので、俺は?が赤くなるのを感じる。
「あれが僕にとっての本格的な『お祓い』だよ」「俺にはまったく何が起こっているか、分からなかった」
こほんと咳をすると、ハルが言葉をするする紡ぎ始める。
「あの家はね、主人が骨董品を集めるのが好きだったんだ。だが、よくない品に手を出した。僕が見るかぎり、数百年にわたる因縁の品だったよ」
「いんねんのしな、とは」
「その骨董は唐物……中国産の薄茶器だった。それはそれは、高価な品だよ。部屋の小さな箱の中に収められていたやつ」
「ぱきんって音がした、あれ? 最終的には壊れたんだよな?」
「祓い終わった時、壊れてる。あれは戦国時代に、ある大名とその妻が時の権力者の茶会に呼ばれ、毒で暗殺された時に使われた品でね。そういうのを分かった上で手に入れた。物好きだよね。悪趣味だ」
「どくで、あんさつ」
俺は、現代の日本ではありえない用語がハルの口からすらすらと出てくることに、すっかり怖じ気づいた。
「手に入れた時には、その大名と妻の怨念と怒りが憑いていた。べったりと?がれないくらいに。しかも骨董好きの割には保管方法が雑で、物置だったあの部屋にがらくたと一緒に置いていたらしい。その扱いに大名と妻の怨念と怒りが増幅し、怨霊化して居座っていたんだ」
「おんりょう」俺はハルの繰り出す言葉に、異次元の世界を見た気がする。
「でも、でもさ。その大名と妻は殺された挙げ句、ずっと薄茶器に憑いていたんだろ? 長い年月、薄茶器に怨念と怒りで執着して、がらくたと一緒にされるってやるせないな……」
ハルがこくびをかしげて、俺のほうを見つめた。なんだろ? またハルは前を向いて口を開く。
「たしかにね。ただでさえ、人は雑に扱われていい気はしない。それが怒りや怨念を抱いているときたら怨霊になるのも早かっただろうね。相当の怒り、憎しみが溜まっていた」
「へ、へえ……」
「その大名と妻の念が強過ぎて、主人は不審死。家を相続した子どもも、あの家で起こる怪奇現象の多発で住むこともできない、売ろうとしても買い手はつかない。そのうち怪我人が出たり、破産寸前まで追い詰められたりして、あの祈?師に依頼してきたってわけ。あの祈?師とは知り合いだったから、『お祓い』の手伝いを申し込まれてたんだ。でも、プライドが先立ったのか、自分たちでやれると思ったのか。どっちにせよ、フライングしちゃったみたいだね。あの二人、相当危なかったよ」
「祈?師ですか」思わず俺は敬語になる。まったく理解が追いつかなかった。
「拝み屋、祈?師というのは存在するよ。普通に暮らしていたら知らないで済む職業。普通じゃないときに、ああいった人が出てくる。ピンキリだし偽者もいるけどね。君たちの業界でも、事故物件はお祓いをするだろ?」
「うん。うちの木場先輩って人が『見える』人なんだけど、ちゃんとお祓いしている事故物件には、幽霊なんかの類はいないって」
「たしかに弔ってもらう、弔うことは大事だ。お疲れ様、大変だったねって言葉は、望まない死を遂げた人、死ぬしかなかった人の魂にとって、安らぎになるのさ」
「望まない死、か。殺人も病死もだけど……自殺する人が少しでも減って欲しい。俺、『死にたい』『つらい』って感じている人が、周りに『助けて』って言えるような世の中になって欲しい」
「夏基はそういう世の中を作りたいの?」「そう言ったサインを出している人を、俺のできる範囲で掬いあげたい。ほんとは、全員、助けたい……傲慢だって分かってるけど」
俺はハルに「開けていいか」と声をかけ、窓を少しだけ開けた。ひんやりとした風が入ってきて気持ちいい。この風のせいかもしれない。死や呪いを近くに感じたせいかもしれない。俺は自分でも気がつかない間に、ぼつぼつと言葉を紡ぎ出した。
「……俺だっていつ、セーフティネットからこぼれ落ちるか、分からない。……誰かを憎んで憎んで、人間じゃなくなるかもしれないし、それこそ怨霊になるかもしれない」
ハルは何も言わない。
「俺、普段はそんなに落ち込まないし、切り替えは早いほうだけど、水泳肩になった時はさすがに心が折れた。推薦で大学入って、競技を頑張るつもりだった。もしかしたら世界と戦える場所へいけるかもしれない。そのための努力も苦しくなかった。……でも努力すらできなくなった」
あれ? なんでこんなはなしをハルにしているのかな。今まで、誰にもしたことがないのに。
「水の中でスピードを競うのは、気持ちよかった。自由だった。……でも、全部なくした。自分が無理をしたせいで」
そうだ、誰のせいでもない。俺が肩の違和感を無視して、目の前の勝ち負けにこだわったから。そして、俺の肩は壊れてしまった。
「『苦しい』『逃げたい』って、口に出しちゃいけないんだろうか。つらいことを全部、ひとりで頑張って乗り越えないといけないんだろうか。乗り越えられなかったら、ひとりで死ななきゃいけないんだろうか。……そんなの、違う」
「死は恐ろしいものじゃない。解放だ。魂になった人は行きたいところへ行ける。でも、この世界は弱い人や苦しんでいる人に、もっと優しくあるべきだね」
「うん。そういう世界をつくりたい」
俺は自分の声が震えているのを、ハルに悟られたくなかった。俺だって、いつもこんなことを考えている聖人君子ではない。ただ、ハルに「言わせてもらった」気がした。
「ただ、祈?師の類いは弔う側がちゃんと作法を守る必要がある。なにより『寄せ付けない』強さを持っていないと、却って憑かれてしまったり、おおごとになったりもするんだよ」
「そういうもんなのか?」
「自分ならなんとかできるって、過信している場合なんかね。さっきの二人は僕に助けを求めた分、謙虚だったのさ」
ハルの声が少しだけ、淀んだ気がする。「痛い目に遭った」。ハルは言っていた。それは案外、自分ならなんとかできると過信していた、過去のハル本人かもしれない。
だとしても俺の知らない世界で「人じゃないもの」と向き合って祓ってきたハルって、かっこいい。
「ハルってすごいね」
「え? どうしたの、急に」
「さっきの『お祓い』。緊急外来の医者や救命士みたいだった。てきぱき二人に指示してさ。俺も守ってくれたんだろ」
「……まあ、ずっとやってきたことだから」
ハルの声が少し澄んでくる。もしかしたら照れたのかな。
「……夏基。君は『物語になりたい』って、思ったことって、ある?」
「物語? ドキュメンタリーじゃなくて?」
「うん。『物語』」
「俺が転生して勇者になるとか? 世界を支配するとか? うーん、ないな。俺は俺の人生を生きたい」
「僕はあるんだ。ひとつの『物語』になってしまいたいって」
ひとつの物語ってどんな? 俺にはまったく想像がつかない。ハルは言葉を続ける。
「それに君には君にしか、できないことがあるんだよ」
「俺にしかできないこと?」
くすっと笑ってしまう。ハルと知り合ってから、俺は平凡極まりない凡人だな、凡人でよかった、見えなくてよかったって安心すらしていた。
「そうさ。しかもそれに君本人は気がついていない。まったくエクセレントだよ」
ハルがかくかくと体を上下させて笑う。なんだか俺も笑えてきた。
ハルは、紹介した物件をとても気に入ってくれた。子どもみたいに小躍りし、俺はそんなハルに驚きを隠せなかった。
「いいね。広くて、駅前の割にはうるさくない。エレベータも大きめだし、エントランスも広い。ものを運ぶのに苦労が少ない!」「どれだけ本を運びこむんだよ」俺はやれやれ、とハルを見つめた。
「気が済むまで! ああ、本がいっぱい置けそうで幸せだなあ!」
どこにハルの「気が済む」ラインがあるかは分からないが、喜んでくれてよかった。
「どうしても賃貸って人の出入りがある分、『名残』みたいなのがあって。生き霊みたいなものがいる場合があるんだ」
「そうなんだ。新築に絞ったほうがよかったなあ。もっと早く見つけられたかも」
「いいさ。いろいろ『見る』ことができた」
ハルは猫背のまま、俺に振り返ってサムズアップをしてみせる。イメージが違ってきてるけど、俺はハルと距離が縮まった気がしてちょっと嬉しい。俺は知り合った人とは、何か縁があると考えている。そもそも人と出会う、そして深く知っていくことは難しいんだ。
俺はハルと別れ、契約するための諸手続き、そのほかの仕事を終えて家でくつろいでいた。そういえば、ハルは「神邉拾遺集」をなんで引きちぎったんだろう。それを聞くのを忘れていた。ちょっと気になるけど、また聞けばいいかな。
今日は奇妙で不思議、そしてちょっと怖いことがあったな、と俺はシュークリームとワンカップでくつろぐ。生クリームとカスタードのシュークリーム、そして人工的な日本酒は微妙なマリアージュで、その微妙さに俺はハマっている。
明日は水曜日で休みだ。夜更かしができる。ただ、やっかいな案件が持ち込まれて来ていた。あるマンションのオーナー兼管理人からの依頼で、会社の上のほうが対応すべき内容かもしれない。しかし、ちゃんとヒアリングしておくべきだと判断したので、日程調整のメールだけを退社する前、送っておいた。そのマンションは自宅から近いから、直行直帰できるし。
資料を見ながら、シュークリームをワンカップで流し込む。我ながら変な食い合わせだと思うが、やめられない。ストレスを溜めている自覚はないが、一日の終わりに欠かせなくなっていて、やばい。
そして、今日のハルとの出来事。ハルは「危険だった」「食われるところだった」と言っていた。……すごいところに、俺は居合わせたのかもしれない。ちょっとぞっとする。
仕事モードを終えて、携帯でツイッターやらインスタ、TikTokを適当に見てまわるうち、今日のことを誰かにはなしをしたくなった。
ふと、思い立ってパソコンを立ち上げる。俺はまとまった文章を書く時、携帯よりパソコンのほうがスピードが速いし、質もいいものができる。
経験したことを自慢したかったのかもしれない。
危険な体験をした、不思議な世界を見てきた。と、匿名のブログに書き記す。ぼかすべきところはぼかさなければ、と工夫してみたが、文才に秀でたタイプではない。
時間をかけて何度も校正して、特定されないようにと見直し、文体を整える。時間をかけて仕上げたブログだが、愛想のない報告書みたいだった。だが俺は変な充足感に満たされ、「これでよし」と投稿ボタンを押す。そして、健やかな眠りについたのだ。
健やかな眠りは、何度も聞こえてくる通知音で破られた。
ぴろん、ぴろん、ぴろんぴろんぴろんぴろんぴろんぴろんぴろんぴろんぴろんぴろん、
「ぅあああ、なんだよ……」
俺は最初、携帯のアラームかと思っていた。いや、アラームは「半沢直樹」のテーマだ。
「え、今、何時……」
携帯を見ると、朝の六時五十分だった。携帯からずっと通知音がしている。俺はまだ、しっかりと開かない目をしぱしぱさせつつ、パスコードを打ち込み、画面をまじまじ見つめた。
「なんだ、これ……」
昨晩、投稿したブログがいわゆる「バズっている」状態だったのだ。
ツイッターも確認してみると一万RTはされている。そうこうしているうち、RTはどんどん増えていく。俺は携帯をいじりながら、RTやコメントを確認した。
やばい。すーっと血の気が引いていく。
慌てて俺やハル、祈?師たち、あの家が特定されていないかと、見てまわった。とりあえず、特定には至っていない。時間をかけて何度もチェックしたのがよかった。いや、そういう問題じゃない。
そして、俺は好奇心からコメントを薄目で見てしまう。薄目にしても、目に入ってくる文字のパンチ力がトーンダウンするわけじゃない。だが薄目で見ないと、急にスポットライトが当てられたような居心地の悪さと、急激な不安感が交互にやってくるのだ。
「創作乙」「嘘松」など、ネットスラングがあちこちちりばめられて、意味が分からない画像も添付され、投稿されている。「この人、テレビに出てる人じゃね?」「元ネタはこのゲームだろ」など、特定に勤しむアカウントもたくさんあった。
全体的に「こんな話はつくりものに違いない」と言う意見が大多数で、批判六割、興味二割、依頼したい、自分も似たような目に遭ったことがある、などが二割といったところか。
営業をやっている身として甘いとか、世間を知らないとか、精神的に弱いって言われるだろう。しかし俺は自分の書いたものがネットで拡散され消費され、そして受け取る側の世界観、悪意、興味に晒され、一気に疲弊したのだ。
「駄目だ、もう削除しておこ」
社会人として、やってはいけないことをやってしまった。携帯のアプリから記事を削除しようとした時、いきなり着信音とともにブルブルと携帯が震える。
「わあ!」
ハルを通じて知った奇妙な「人ならざるもの」によって、俺は過敏になっていたらしい。思わず悲鳴をあげて、携帯を落としかける。しかも、携帯に出ているのは「小岩井春」の名前。うっと息を止めるが、何度か深呼吸をして応答ボタンを押す。
「はい……」
「あ、夏基。今、家にいる?」
「いるけど。……えっと、まだ、朝の七時だよ」
「そうだね」
ごめんの一言もないあたりがハルらしさなのかな。いや、俺はハルに謝らないと、と逡巡していたところ、「僕がごめんって言わないのは、君のブログと帳消しでもあるんだけど」と冷たい炭酸きつめのレモンジュースのような声が、腹に染みわたるかのようにして響く。
「えっ」
「僕のところまで流れてきてたよ」「SNS、やらないタイプだと思ってた……」俺は思わず本音を告げてしまう。
「そんなアナログじゃないよ。むしろ、活用するね。研究と『祓い』で」
「大変、申し訳ありませんでした。会社に申告するなら、してください……」
「いいよ。この程度。むしろ、君の『引っかけてくる』ところ、非常に『いい』ね。あのブログは残しておいて」
「引っかけてくる」。何を言われているのか、俺には分からなかった。あ、木場先輩や谷さんの言ってた『憑けてくる』ってやつか?
「今日、会社休みでしょ。ちょっと付き合って欲しい」
「……車は出せないよ。休みだから」
「あ、しまった! 僕としたことが!」ハルが携帯の向こうで慌てている。割と抜けたところもあるんだな。
「君、自動車持ってないの?」「持っていない」「ええっ。あてにしてたのに! じゃあ自転車は」「一応、ママチャリはある」「分かった。今から行くから」「ちょ、ちょっと、住所知ってるのか?」「君んとこの所長に聞いてある。っていうか、出てきて。もうマンションの前にいるから」
ピンポーンとチャイムがなる。テレビドアフォンを見ると、そこにはおかっぱでやせぎすの男が映っていた。所長? お金大大大好き所長! 俺の個人情報をどうして流す?
「君とも関わりがあることだから、さっさと用意して出てきて。あと、早くして。さすがに寒い」「ちょ、ちょっと理由を教えろよ!」俺は服を着替えながら叫ぶ。
「おいおい、はなすから。うう、寒い……」
慌ててジャケットを羽織り、寝癖のついた頭でエントランスに下りると、外でハルが待っていた。「はやくはやく」「いきなり来ておいて、それはないよ」自転車を出すと、その後ろにひょいとハルが乗る。
あとから考えれば、タクシーを呼んでいればよかったのだ。ハルがせかすので、俺はええい、と自転車を漕ぎ始める。
「どこに行けばいいんだよ」
「君、『アリアドナマンション』のオーナーに呼ばれてたでしょ」
「どうして知ってる?」必死に自転車を漕ぎながら、俺はハルを振り返った。昨晩にヒアリング予定として日程調整のメールをしたマンションの名前を告げられ、びっくりした。
「前向いて。怖いから。……そこのオーナーから、僕にも依頼があったんだよ。数日後に伺う予定だったんだけど、さっき連絡が入ってね。緊急案件になった」
「ええっ。ハル絡みってことは、また?」
「『お祓い』だね」
「え? なんで? なんで? どうしてそうなったんだよ」頭が疑問符いっぱいになりながら、俺は自転車を漕いだ。また、危ないことなのか? お祓いをするのか? と戸惑いつつも、ハルが祓う時の爽快感を味わえるかも。そんな渇望感がふっと腹の奥からわいてくる。
「とりあえず、概要を説明すると『アリアドナマンション』は知っているとおり、八十戸ほどの中規模マンションだね。震災後、ずっと空き地だったけれど、君の会社の系列会社が買い取って、マンションを建てた。それが去年。ただ、人が入ってもすぐに出て行く。空き部屋もどんどん増える。今では、ほぼ廃墟状態だ。どうしてかって? 住人が鎌で切られたような怪我をする、廊下で大きな目玉に追いかけられる、マンション全体から獣のにおいがするって。オーナー兼管理人が慌てて出ていく住人から、そこまでは聞き出したんだ」
「……マジで? 獣? かまいたちとか?」
「勘がいいね。遠くない」
俺たちは、マンションを前にして立っていた。
「神邉拾遺集」を左手で引きちぎったハルに俺は「え、やっぱりちぎっちゃうの?」と叫んでしまう。
「こないだもちぎっていたけど、大事な本じゃないのか?」
「……大丈夫、僕が直筆で全部書いた写本だから」「でも、変な色だな」俺は書かれている文字を見つめる。
「血で書いた」
「えっ!?」俺はつい、後ずさってしまう。
「原本自体が血で書かれているんだよ。コピー機のインクや墨汁じゃ、『祓い』に使えないんだ」
そうだ。ハルはこの道でずっとやってきた人間なのだ。この本と十二年歩んできたのだ。俺は、ハルとこの本の間にある深くて暗いものを感じ取る。
「君には見えないだろうけど、このマンション全体を覆うくらいの巨大な黒猫が屋上付近に乗っかって暴れている」
「どうするつもりなんだ?」
「君と僕が出会ったのが『必然』だったように、あの黒猫にも巡り合わせが必要だ。でも、その前にやっておくことがある」
そう言って引きちぎった紙を読みあげていく。何を言っているのか分からなくても、ハルの言葉は低くて透き通っていて、やっぱりオーケストラみたいに整っていて、美しく心地よかった。
その瞬間、「神邉拾遺集」がぐっとハルを引き寄せるのを俺は見た。だが、ハルは体をそらして押しのける。「神邉拾遺集」とハルとが力比べをしているように見え、やがてハルが「神邉拾遺集」を手のひらで抑え込んだ。
ハルがレモンジュースみたいな透明な声で、何かを呟き終わる。その場に清涼な風が吹いた感触がやってきた。ハルの息が上がり、顔が青くなっている。
「大丈夫か!」俺が叫ぶと「心配、ないさ」ハルは生気のない顔でサムズアップしてみせる。俺は思わず駆け寄った。その間に引きちぎった紙が何かに変わり、くるくるくるっと形を変えていく。何度か深呼吸をして息を整えたハルは「おお、よしよし」と左手で?み、両手を広げて収める。ハルの手に収まっているものは丸くて、小さくて、黒い。
「子猫……?」
「あれ、見えるの? 霊力と思いが強かったからかな……」「いや、はっきりとは見えないんだけど……何かがいるのは、俺でも分かる」
「……そう、子猫だよ。黒くて青と金のオッドアイの子猫さ」
ぴゃーーん、とハルの手の中でもぞもぞと黒いものが動く。
「ほんとうに子猫なのか?」
「そうだよ。ああ、どうやらお迎えがきたようだ」
ちゅちゅちゅ、とハルが舌を打つ。不意にひんやり重たい空気がそのあたり一帯に充満した。
「その子を戻してくれたんですね」
「君は営業所の前を通っていた人……?」
ふんわりとした、ビブラートのかかった声が響く。ポニーテールでニットを着た女性が曲がり角から姿を現し、歩いてきた。彼女が近づく度に、ひんやりした空気は増してくる。
正面からその女性を見たのは、初めてだった。女性の輪郭はなんとなく分かるが、目鼻立ちははっきりしない。半分以上が透けていたが、十代の女の子だと分かった。
「お兄さんは温かくて居心地がよかったんです。だから、そばにいたの。それに、お兄さんの近くにいたら、この子に会えるって『分かってた』の。……ありがとう」
女の子が笑っているように見える。もしかして、俺は彼女に憑かれてたのか?
「そっちのお兄さんもありがとう。ずっとこの子を探していたんです。でも、この子の姿が変わってしまったから、見つけられなかったの。今日、会えてよかった……そう、今日……」
女の子がすうっとハルに寄っていく。
「どうして今日だったの?」
「二十七年前の今日。私たち、ここで出会ったんです。お母さん猫からはぐれていたこの子を、私が拾いました。この子、ずっと鳴いていたんです。その声に私は呼ばれたんです」
ハルがぴゃーぴゃーと鳴く、手のひらの黒いものを彼女にそっと渡す。
「……ごめんなさい。この子が迷惑をかけてしまったんですね……。でも、嬉しい。ずっと探していたのよ。どうして見つけられなかったのかしら。大きくなって怖い猫になっちゃったから? ごめんねごめんね。もっと早く来ていればよかったね」
よしよし、会いたかったと女の子が言うと、黒猫がゴロゴロと喉を鳴らし、ぴゃーぴゃーと甘えるように鳴いた。
「じゃあ、私たち、行きますね。ほんとうにありがとう。さようなら」
彼女はそういうと、黒猫を抱えて去って次第に姿が見えなくなる。猫の鳴き声もだんだん聞こえなくなった。ひんやりとした重い空気も霧散していく。
「さよなら。行きたいところに行けるからね」
ハルはそう言って、軽く彼女たちのほうへ手を振った。
「消えちゃったよ……」
「夏基が幽霊を見たのは初めてになるのかな」
ハルの言葉に俺は「そうなのかなあ……」と呟くしかなかった。
「なあ。あの猫と、女の子はどうして会えなかったんだ? どう言ったいきさつがあったんだ?」
俺はまだ、女の子が消えていったほうを見つめながら、ハルにたずねた。
「あの猫は以前の震災で、飼い主だった女の子を失ったんだ。大好きな女の子も家族も、そして家も失った。がれきの中で生き残ったのは、あの猫だけ。……がれきが片づけられて街が復興して、すっかり変わっても、あの猫は死んだ女の子を探し続けた。それはそれは長い時間をかけて。その時間と思いが猫を化け物にした。そして、思い出の場所だった家の跡地に建ったのが、このマンションだったのさ」
「震災はもう、二十年以上前だよ……」
そんな前から、あの猫は女の子を求めて彷徨っていたのか? 目頭が不意に熱くなる。
「時が経てば経つほど、思いの名残が消えていくものもあれば、あの猫のようにまがまがしいものになってしまうことがある。猫は女の子を含めて震災の犠牲者を、世間が忘れていくのを許せなかったんだろうね」
「さびしいな……」
きっとそういう思いは、この世界にたくさん存在して漂っているのだろう。
「そうだね」
ハルは「神邉拾遺集」をコートの懐にしまい込む。
「ちぎった『神邉拾遺集』だけど、何を読みあげていたんだ?」
「収められている『物語』だよ。題名は『白雨殿の池』。平安の世。大納言片桐の屋敷、白雨殿の池に巨大なミミズが知らぬ間に棲みつき、いたずらをして暴れた。その度、都は何度も地面が打ち震える。都の震えを鎮めるため、大納言片桐はミミズを生き埋めにした。そして埋めた池に、美しい木々を植えた。ミミズはその木々の根にとらわれて、動けなくなったという」
「なんで、その『物語』を選んだんだ?」
「ミミズは地震の象徴。あの猫が憎んだのは地震だからね。そのミミズを退治して鎮めた物語を聞かせることで、あの猫を慰め鎮魂した。その結果、元の子猫に戻り、飼い主と会えたのさ」
ハルはそれだけ言うと、上を向いて空を眺めた。時間は午前八時になろうとしている。人の気配も戻りはじめ、日常へとスライドしていく。俺は思いきって口を開いた。
「あと……。ハルが一瞬『神邉拾遺集』に引きずられそうに見えたんだけど……」
「僕はね、『神邉拾遺集』に呼ばれたのさ。十二年前、気がついたら僕はぼろぼろの図書館にいて、あの本を手に取っていた。『神邊拾遺集』と僕は分かちがたい絆で、つながっている。『絆』の語源を知ってる? 犬や馬をつなぎとめておく綱のことだよ。僕が『神邉拾遺集』を使っているんじゃない。僕が『神邉拾遺集』に使役されている。だから、君はあまり僕に踏み込まないほうがいい」
それは虫がよくないか? ここまでつれてきておいて今更だし、水くさい。俺は口には出さなかったが、ちょっとむっとする。するとハルがくくっと笑う。揶揄でもなんでもなくて、嬉しくてたまらないって、笑い。
「そんな顔するなよ。だから、君は『綺麗』なんだ。僕は君と出会った時、光を見たんだ」
「光?」
「そう。君は生き様が『綺麗』。人に親切で優しい。肩のことで苦しんだときも、誰にも心配をかけないよう、弱音も吐かなかったんだろう? そしてセーフティネットのあちら側に落ちた人、自ら命を絶たざるをえない人、苦しむ人を思いやり、なんとかしようとする。それは人間としての光だ」
「俺は普通の人間だよ」
変に褒められて居心地が悪い。ハルは続けた。
「君は人にも、『人ならざるもの』にも頼られやすい。あの女の子も言ってただろう? それは『憑けやすい』ってことだ。僕にとっては有り難いことだよ。だって君が『憑けて』きたら、僕はそれを『祓え』る。祓いは心地よい。祓う度にこの本の世界が立ち上がってきて、僕は理解する。……それはとても『綺麗』なんだ」
「ごめん、意味がよく分からない」
俺は正直、戸惑ってしまった。ハルはにっと口の端をあげて言葉を続ける。
「君にしかできない役割があるって、言っただろ? 君といると光が当たっているみたいで、気持ちがいい。僕は君みたいな人をずっと探していた」
ロマンチックな告白みたいだが、ハルの声にはひたひたとせまり来る、夜の海の波打ち際めいた不気味さと引き込む力があった。
「……僕は物語になってもいい、そう思う時がある。実際、何度も吸いこまれそうになった。さっきもね。正直なところ、僕は自分が解体されて文字になり、物語の『あちら側』へ行き、あの紙の一ページに収まっていくのを想像すると、ぞくぞくしてしまう」
俺は何も言えない。
「僕は、作者の書くことへの執念と物語が融合して、この本が不思議な力を持ったんだと思っている。それに血で物語を書くだなんて、明らかにおかしい。……そのおかしい奴に、僕は惹かれるんだ。この物語の数々も僕にとって魅力的でスリリングなんだ。この本で『祓う』ことも」
狂気を帯びた喜びをハルは少し覗かせた。俺はきゅっと胃が痛くなる。怖かった。「神邉拾遺集」も「人ならざるもの」も、ハルの熱意も。
「僕はいつ、この本の物語になるか分からない。夏基。そのとき、この本と僕の『絆』をひっくり返せるのは、君みたいな『綺麗』な人間だ」
「俺がハルの役に立つっていうのか?」
「そうだよ。それに、君みたいに正しく普通であるってことは、実は難しい。でも、君は人間性の純度が高くて、エクセレントだ。その優美さが力になって、僕をこの世につなぎとめるんじゃないか。人間もこの世界も、君がいることで今まで以上に面白く、温かくなる。……だからこの世にいよう、この本を研究し続けよう、そう言った欲が出るんじゃないかって期待している」
俺が「神邉拾遺集」とハルの絆とやらをひっくり返せるのか。……でも、ハルを「物語」になんてしたくない。そして、ハルは俺に今、はっきりとサインを出している。何より、ハルと俺とで、ひっくり返せるものがあるなら、そうすべきだ。
それに「綺麗」であること、祓うことの心地よさを俺たちは共有している。
「俺はハルの言うことすべてをやれるとは思えない。でも、ハルと俺との出会いには意味があるんだ。きっと。ハルが言う『必然』ってやつだ。俺は俺ができることを精いっぱい、やってみせる」
「頼んだよ」
ハルはにっと笑って俺に手を差し出す。俺はその手を取って力強く握った。
相変わらず、俺はあれこれ憑けてくるらしい。外回りから営業所に戻れば、塩をふりかけられる日々。だが、木場先輩がなぜか怒りながら「これ、魔除けだから!」と渡してくれたお守りにヒモを通して、シャツの内側に首からぶら下げている。それを知った谷さんは「木場さん、きっと喜びますよぉ」と意味ありげに笑った。ただ、ハル曰く「気休め程度だね」。
十二月に入った頃、社用の携帯が鳴った。
「南雲です」
「南雲様、お久しぶりです! お元気でしたか?」
「はい……元気って言えるのかしら。あの……結局、婚約破棄になりました。彼、確かに過去に女性を流産させていて……。しかも、婚約していた時にも別の女性がいたんです」
「まさか、ふ、二股?」
俺はびっくりして、すっとんきょうな声をあげてしまう。
「とんでもないでしょう? でも、スッキリしました。それに素敵な彼氏を見つけたんですよ」
南雲様の声は前よりもずっと落ち着いていて、まろやかに聞こえる。
「それはよかったです! えっと、どんなお相手か、お聞きしてもいいですか?」
「ふふ。たまたま、子猫を保護したんです。青と金のオッドアイの黒猫。彼と住むための部屋を石川さんに探して欲しくて、連絡したんです。石川さんにはとても親切にしてもらったし、あの時の男性にもお礼を言いたくて」
「ありがとうございます!」
俺は嬉しくなった。ん? 黒猫でオッドアイ? 大丈夫。あの黒い子猫は、ポニーテールの彼女と行きたい場所に行ったんだから。
「へえ、よかったじゃない。問題は男性のほうだよね。迷惑をかけ続けているのに、自分はすごい、えらい、素晴らしいって思ってるあたり、生きてる人間が一番怖いかも」
昼休憩にハルとモスバーガーで食事しながら、南雲様の言葉を伝えた。ハルはチキンバーガー三個、照り焼きチキンバーガー、チキンナゲット、モスチキンも食べている。これでガリガリなんだから、エネルギーを全部、研究と「祓い」に使っているのかもしれない。
「チキンバーガーはソースとチキン、キャベツ、バンズ、すべてが完璧なバランスだよねえ」
ご満悦なハルを眺めながら、俺はモスバーガーセットのポテトを?張った。
「そういえば、ブログの件。君の文章、悪くなかったよ。よく書けてたし、ぼやかし具合もさじ加減がよかった。それに、あのくらい隙があったほうがいい」
「隙?」
「そうさ。『人』も『人ならざるもの』も隙があると、入り込んでくる。入ってきたところを僕が『祓う』」
「……こないだ、俺が『憑けてきた』ら、ハルが『祓う』って言ってたけど、更にやるわけ?」「うん。君はほんとに素晴らしい人間だよ……。ねえ、匿名ブログ、続けてくれない?」
「別にいいけど……。問題にならないかな? 会社をくびになるのはごめんだよ」
「そこは僕のブラックカードの出番だろ? 僕の助手ってことにすればいい。副業禁止だったとしても、こっちが全部うまくやっておくし、責任は取るさ」
金持ち恐ろしい。お金大大大好き所長がハルにうまく丸め込まれるところまで、想像できた。
「なあ、匿名だと俺やハルに連絡がとれないんじゃないか?」
「大丈夫。僕らを求める人やそうじゃないものは、絶対に会いに来るでしょ」
一個目のチキンバーガーを平らげると、二個目にとりかかる。勢いよく食べているが、相変わらず前髪が長くて目は見えない。でも、どういう表情をしているか、だんだん分かってきた。
「なんだか、怖いな……」
ホットコーヒーにミルクと砂糖を入れながら、俺は呟く。そうでもないくせに。
「人だけじゃない。『人ならざるもの』との出会いも『必然』だよ。どう? これからもちょくちょく書いてみてよ」
「俺は撒き餌か?」
ちょっとふざけて、苦笑しながら俺はコーヒーをすする。ハルはパクッとチキンバーガーにかじりつくともぐもぐ咀嚼し、くすっと笑った。
「とんでもない。そんなふうに思ってないさ、相棒」
と、言うわけで、俺は今、ハルとの出会いからこれまでのいきさつを匿名ブログに書いている。人間、そして人ならざるものと、どんな出会いが待っているんだろう? 高揚と少しばかりの不安を感じつつも「祓い」の快感を味わいたい自分がいることに、気がついている。さて。そういうわけで。
ご連絡、お待ちしています。
住んでいる都市をイメージして書きました。
すごく楽しかったです。感想などいただけると幸いです。