39 幼少期 ゼノビアと夏の海
母ユーリアナの生家であるタウンゼット侯爵家は、豊かな海に広く面した領地を持ち、海運業に力を入れて発展してきた。
父ラインハルトが遠征で長期不在になるので、4歳の夏はそのタウンゼット侯爵領で過ごすことになったのだけれど。
「おいメア!こっちに来てお前もこれを見てみろ!すごいぞ!」
何故かゼノビアも一緒に来ている。
「やだ。どうせまたくだらないものでしょ。」
「ほんとにすごいんだぞ!ほら、ものすごく大きな蝉だ!俺が捕まえたこの蝉が世界で一番大きいに違いない!」
「こっちに持って来ないで。」
虫は苦手じゃないけど、蝉はおしっこをかけてくると聞いたから近付きたくない。
お洋服を汚したらお母様に叱られてしまう。
蝉を掴んだままこちらに走ってくるゼノビアから逃げるようにして、わたしは海岸の方に向かった。
「おい待て!ひとりで勝手に走って行くな!危ないだろう!」
ゼノビアが追いかけて来る。
わたしが全速力で走っても、ゼノビアにはすぐに追い付かれてしまうだろう。
それでもと力の限り走っていたら、木の根に躓いて盛大に転んだ。
「だから危ないと言ったのだ。こんなに擦り剥いて、痛かっただろう。」
一生懸命走ったのに、ゼノビアはすでに追い付いていて、手際良くわたしの傷口の汚れを取り、消毒液をかけて布を巻いた。
「なんでそんなの持ってるの。」
「応急キットは騎士のヒツジュヒンだからな!」
ゼノビアのくせに意外と頼もしい。
「…っ!蝉!なんでまだ持ってるの!」
「せっかく世界一の蝉を捕まえたんだから離したらもったいないだろう!」
「絶対世界一じゃないし!こっち来ないで!」
わたしは手当てをしてもらった恩も忘れてまた逃げ出した。
すでに服は汚れているからお母様に叱られるのは確定しているが、それとこれとは話が別だ。
どうせすぐに追い付かれるのだけれど、とにかく走った。
眼前に大海が広がる。
これ以上進んでももう逃げ場はないのだが、雲一つない青空の下、美しく煌めく水面に気分が高まって桟橋の上を駆け抜ける。
「メア!止まれ!落ちるぞ!」
「…え?」
あ。
どこまでも続く海と空に感動して見惚れていたら、桟橋の終わりに気が付かなかった。
どぽんっ。
え、足がつかない。
ここってこんなに深かったの?
わたしは今まで一度も泳いだことがなかった。
どうしていいか分からず必死にもがく。
「がぼっ…、ふぐ、ん、んが。」
息ができない。
くるしい。
意識が遠のきそうになる。
「メア!しっかりしろ!」
ゼノビアがわたしの近くに何かを落とす。
なんとかそちらに目を向けると、それは大きな丸太だった。
精一杯丸太に手を伸ばす。
その後すぐに、ものすごい速さでゼノビアがこちらに泳いできた。
そのままゼノビアに引っ張ってもらい、わたしはやっとのことで岸に上がる。
「大丈夫か?まだ苦しいか?」
「う、うぐ…。」
優しく尋ねられて、わたしは涙を堪えきれずゼノビアにしがみ付いた。
「ほら泣くな、もう大丈夫だ。」
ゼノビアはそっとわたしの頭を撫でてくれた。
「こわかったの、すごく。」
「勝手に走って行くから悪いんだぞ。」
「ん、ごめん。」
「そうだ、ちょっと待っていろ!良いものを持って来てやろう!」
何を思い付いたのか、ゼノビアは突然どこかに走って行った。
はあ。
しぬかとおもった。
わたしって泳げなかったんだな。
すっ転んで、海に落っこちて、ほんとにドジ過ぎる。
こんなにべとべとになっちゃって、ゼノビアも一緒に怒られちゃうかな…。
「ほら、食べろ!うまいぞ!」
いつの間にか戻って来ていたゼノビアに、何かの串焼きのようなものを差し出される。
「なにこれ。」
「イカ焼きだ!」
これがイカ…。
海の幸ってやつか。
「冷めないうちに食べろ!」
「わかったよ。」
「どっちが早く食べられるか勝負だ!」
「なにそれ、意味わかんない。…ふふっ。」
なんでそんなことを競う必要があるのか。
くだらなすぎて可笑しくなる。
さっきまで怖くて情けなくて沈んでいた気持ちが晴れていくようだった。
「…初めて笑ったな。」
「え?そうだっけ?」
「ああ。俺は今、初めてメアを笑わせた男になった!」
「絶対初めてじゃないし。」
「あ、おい!先に食べ始めるな!正々堂々勝負しろ!」
「美味しいね、これ。」
「そうだろう!新鮮なイカは最高にうまいのだ!」
イカ焼きを食べ終わり、さて帰ろうかというところで、立とうとしたわたしの足首に激痛が走った。
そういえば擦り剥いた傷も塩水が滲みてさっきからすごく痛い。
「ん?なんだ、立てないのか?」
「林で転んだときに捻ってたみたい。気が付かなかった。」
「仕方のないやつだな!ほら、背負ってやるから乗れ!」
「…ん、ありがと、ゼノビア。」
侯爵家の邸に帰ると、案の定、お母様にこってりと叱られた。
足首は捻挫しているし、服も髪もべたべただったのだから当然だ。
ゼノビアのことは怒らないでほしいと頼んだが、女の子一人守れない男など騎士失格だと言われて、わたし以上に厳しく叱られていた。
もしかしたらゼノビアが落ち込んでいるかもしれないと思って、時間を置いてからゼノビアの滞在している部屋に向かった。
しばらく足を引きずって歩いたけれど、途中で足が痛すぎて動けなくなり廊下にうずくまる。
「何をしているのだ、メア!じっとしていないと、いつまで経っても治らないだろう!」
「えと、ゼノビアを励まそうと思って…。」
「俺は別に落ち込んでなどいないぞ!」
うん、そうみたいだね。
こんな時でもうるさいゼノビアに、わたしは素直に感心した。
「ゼノビアは絶対、立派な騎士になるよ。」
将来の、何事にも屈しない精悍な騎士の姿を思い浮かべて、自然と笑みが溢れた。
「む、当たり前だろう!」
珍しく照れているのか、少し耳が赤くなっている。
「ふふ、そんなに嬉しかった?顔赤いよ?」
「お、おい、そんなに顔を近付けるな!」
捻挫で思うように動けなかったわたしは、タウンゼットでの残りの夏をゼノビアと一緒にだらだらと過ごしたのだった。




