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別離の河畔

作者: 野球の戦士

※この物語はフィクションです。作中に登場する地名や人名等は、実在するものとは一切関係ありません。

パリのラテン地区のあるカフェで、私はコーヒーを飲んでいた。


ガラス張りになった壁からは、街を行く人の姿が見える。犬を連れた女性、ほほえましい老夫婦、走り回る子どもたち…「芸術の都」と呼ばれるこの街に住み始めて、一年半ほどになるけれど、何気ない日常の一コマ一コマが、いかにもかわいらしく、はんなりしたものに思われる。


手元には一杯のコーヒーのほかに、簡単なスケッチブックと、鉛筆、それからタバコが置かれている。いうまでもなく、私の持ち物である。


絵を描くものと、タバコ。いつの間にか、これらのものは私にとって欠かせないものになっていた。


ほんのりと雲がかかった空の合間から陽光がわずかに漏れて、視界一面が寝ぼけまなこに映る光のように、うすく、ぴかぴかと輝き始める。赤く色づいたマロニエの木々の一部は、すでに白っぽく乾いていた。


パリで過ごす、二度目の秋。


それにしてもどうして、はしなくも物悲しく、切ないような気持ちになってしまうのだろう。こうやって、一人でカフェにたたずんで一人で絵を描いていたくなるような気分になってしまうのは、この街の秋がそういう雰囲気を醸し出しているからなのだろうか・・・。


わけもなく気分が落ち込んできて、私は無意識のうちにタバコに手を伸ばし、苦い嗜好に自分を溶かしていた。




私が東京の大学を卒業して、パリの大学で美術の勉強をする、と言ったとき、両親は反対しなかった。


私にはしっかりした姉がいて、ある総合商社でバリバリ活躍していたから、その妹である私はさして心配しなくてもよかったのかもしれない。だから、私があの日、羽田空港のターミナルで両親と別れる時、私の両親はにこにこと笑いながら、


「行ってらっしゃい。」


と言ったのである。


…ちょうど、10年前、小学校か中学校に行くときと同じように。


今思うと、これは私が家を出るたびに発せられた、別れの言葉だったのである。


それから一年半が経って、母親と電話をする機会が増えた。そのたびに、私の母親は私がフランスでうまく生活できているか、絵の勉強ははかどっているか、等、親として当たり前の心配を私にぶつけるのだった。そのたびに私は、


「うん、大丈夫…友達もいっぱいできたし、絵の勉強は大変だけど、楽しいよ。だから心配しないで…」


と、かわいい声をつくって言っていた。


でも、私、タバコを吸い始めたんだよ。


明るく話しながらも、そのことだけはなかなか言えず、胸の奥底に悩みが重くのしかかっていた。


もともと私が吸いたくて吸い始めたというよりは、クラスメイトから勧められた、という感じだ。同じく美術の勉強に来ていたスイス人の女性が授業の合間に吸っていたのだ。


今では私はよくわからないのだが、そのとき私はまだフランスに来たばかりで、堂々としたさまでタバコを吸いこなす大人のヨーロッパ女性を、かっこいい、と思ったのかもしれない。以前は、タバコを吸う人はどことなく肌が汚くて、健康に悪いというイメージしかなかったけれど、彼女は私より4つも年上なのに、肌がさらさらで綺麗で、描く絵が素敵だった。


仲良くなりたくて、タバコを吸っている彼女ににこにこしながら近づくと、にっこりと彼女は素敵な笑顔を見せてくれて、タバコを差し出しながら、


「あなたも吸う?」


と言った。


抵抗も恐怖も何もなく、私は憧憬に駆られて手を伸ばして、そのときから、煙の味を知った。




無意識のうちに、私はスケッチを始めている。


目で見て、胸で感じるものどれもこれもが朦朧とした悲愴感に包まれている。鉛筆を持つ手がふるふると静かに震える。カフェは人が多く、がやがや、ぼそぼそという人々の話し声が一様に漂っているみたい。胸の中で絵の構図を組み立てようとするけれど、ぼんやりと重たい何かにまみれた視界ではなかなかとらえ切れない。


私は短くため息をついて、そばにあったコーヒーを少し飲んだ。ヨーロッパ特有の酸っぱいコーヒーの味はもともと好きではなく、また、けっこう長い間ここに座っていたから、すっかり冷めてしまっていた。私はぱたん、とスケッチブックを閉じて、テーブルの上のものをカバンにしまい、カフェを出ようと思った。今日はなんだか辛くて、ちっともはかどりそうにない。


ああ、私の部屋は、画材道具や衣服のたぐいで乱雑で、早いうちに掃除しなきゃいけないんだった。それを思うと、またため息が一つでた。


ふと、席を立って隣を見ると、そこには私と同じ、肌の黄色い男性が座っていて、こちらを見ていたようだった。茶色っぽいコートとグレーのパンツを着け、東洋人のわりに彫りの深い顔は、やや西洋人らしくもあった。しかし目つきは鋭くなく、丸い瞳が明るく輝いていた。


私がびっくりして彼の方を見ると、彼はさっと目を彼の手元にあったコーヒーへと落とした。明らかに、私の方を見ていた。


それにしても、隣にいながらずっと気づかなかった。いつの間にか東洋人が座っていて、どうも私の方をたびたび見ていたらしい・・・とはいえ、パリで見かけるアジア人は大概中国人だから、さして気に留める必要もない。私はあらためて荷物を整理して席を離れようとすると、彼はまた私に目を向けていた。


私はけげんそうな顔を作って、「何か用ですか?」と彼にフランス語できいた。


彼はしばらく押し黙り──そのくせ気まずいとか申し訳ないとかいう様子は見せようとしない、ずぶといヤツである──それから、特段表情も変えずに、きいてきた。


「日本人ですか?」


私はキツネにつままれたような気分だった。彼の口から出てきたのは、流ちょうな日本語だったのである。


「え、私…日本人…ですけど。あなたも?」


「ええ、そうです。僕も、日本人ですよ」


くだらない会話!と胸の中で吐き捨てて、じっと目の前の男性を見つめる。しっかりした顔つきは、中国人らしくも見える。よく日に焼けているところを見ると、健康的ではあるがいかにもどことなく土臭くて、あまりこのパリの街には似合わないみたいだ…。


「絵、上手なんですね」


その男性は笑って言った。そうすると、私がスケッチブックに鉛筆でデッサンしていたところもしっかり見ていたということだろうか。決して誰かに見られることを前提に描いていたたぐいのものではなかったので、私は急に恥ずかしくなって、どう返したものか、戸惑ってしまった。


「別に、趣味…(と言いかけて辞めた)というか、絵を描くのが好きなので、描いているだけです。それに、さっき描いていたのは、あんまり出来が良くないんです」


彼はにこにことした笑顔を崩さず、「とても、素敵な絵だと思う」と言った。


私は突然話しかけられたことに依然としてどぎまぎしていたが、なんだかんだ誉めてもらえるのは嬉しい。彼ともう少し話してみたい気持ちになった。私は再度席に腰かけて、彼を見据える。


「君、東京から来たの?」


「はい、東京からです。あなたもですか?」


「実は俺は横浜なんだよね。まあ、大学時代は東京で過ごしていたから、思い入れがあるし、おいしいお店とか観光地もいっぱい知ってる。」


「どのあたりに住んでいたんですか?」


「新宿のはずれのほう。メトロの駅からすごく遠いし坂道だったから、お世辞にも便利なところではなかったな。大学からも遠かったし…。あ、せっかく外国にいるんだしさ、敬語使わなくていいよ。君はまだ学生さんでしょう」


海外に住んでいて、日本語の敬語に若干違和感を覚えているあたり、彼は海外経験が実は長いのかもしれない──と私は勘ぐった。


「うん、ありがとう。…私、大学卒業してすぐにこっちに住み始めたから、まだ23だよ。こっちでも大学生やってるけど」


「そうか。俺は27。仕事でここにね。フランスでは勉強に来ているの?」


「うん、絵の勉強がしたかったから」


「過ごしぶりはどう?」


「まあまあ。奨学金を貰いながらだけど、たまに絵が売れたりするし、お金にはあんまり困ってないよ」


彼はしきりにうなずいていた。彼はあまり自分のことを話したがらないようだった。…それにしても、パリに来て以来、これほど私の生活や暮らしぶりについて聞かれるのは、母との電話以外無かったかもしれない。気付いたら私の肩の力は抜けていた。


それから、彼は美術の話をした。大学のときに授業で勉強したことがあったらしく、それなりの知識を持っていた。


指先がふと動いた先に、ぱさ、とタバコの箱が触れた。…彼は、見ず知らずの、ただ同じ日本人というだけで話し込んでいるなんでもない男性だ。今さら気にしすぎることもない。


「吸う?」


私は来客にお茶をすすめるときとほとんど同じ調子で、なにげなく聞いた。


「吸わない」


「そう」


私は断られたことがちょっとだけ意外だった。私は一本のタバコをつまんで、ライターで火を点けた。


彼は太っちょのウエイターさんを呼んで、下手なフランス語でコーヒーを注文した。


「そういえば、あなたは何の仕事をしているの?」


「航海士をやってる。いわゆる船乗り。来年の春、いったん横浜に帰る予定だけど、外航船だから、それまでは外国を転々としないといけないんだ」


「へえ…すごい」


私はてっきり居酒屋さんか日本料理屋さんか何かを経営している人かと思っていたので、船乗りさんだと聞いてしばらく呆気にとられていた。


彼は血色のいい顔をくしゃっとくずして笑う。


「ははは。けれど、こんなふうにたまにしか日本に帰らずに、一年のほとんどずっと海の上か、外国で暮らさないといけないってなると、やっぱりノスタルジーに駆られることがあるよ。横浜にいる家族や地元の友達にも、久しく会っていないから」


彼の声はさっきまでの張りのある調子を少し失って、低くもごもごした調子になった。それとともに、表情やまなざしにも、彼自身が感じている寂しさがにじみ出ているようだった。その感情は、ちょうど相当の期間中、母国を離れて一人暮らししている私と似たものなのかもしれない。


「一つ聞いていいかい」


「うん」


「さっき君は絵を描きながら、どんなことを考えていたの?」


「…」


私は聞こえなかったふりをして、指先で耳の前にかかった髪を弄んだ。ウエイターがコーヒーを運んできて、すぐに口をつけたら、すっごく熱くて、あちっ、と思わず口を離してしまった。


「ねえ」


「なんだ」


「パリには、いつまでいるの?」


「あさってまで。そのあと、中東に行くんだ」


あさって。あさって。その冗談みたいな軽い響きに私は仰天して、目を見開いた。同時に、今こうして遠い外国のカフェで隣り合って、コーヒーを飲みながら同じ国籍の人と話をしている、たったそれだけのことがあまりに神秘的で、慕わしいことであるように思われてきた。


日は暮れてきて、秋特有の濃い橙色がカフェの中を塗り染めてくる。私は大きく息をついて、手元のコーヒーに目を落としながらきく。


「あさってなんて。…もうちょっと残ることはできないの?」


「それはできない」


「そう」


フランスに来てから一年と半年。ヨーロッパ出身のクラスメイトとそれなりに話せるようにはなったけれど、それでも日本の大学時代の友達などのように、いつでもどこに行くでも一緒、というわけにはいかなくて、どこか壁のようなものを感じて過ごしてきた。


…彼はどうして、絵を描いているときの私の表情なんて見ていたのだろう。それを見た彼は、いったいどんなふうに感じたのだろう。


聞きたかったけれど言い出せなかった。却って、どうせ明後日には別れて2度と会うことのない、私の人生においてなんでもない人間の1人なんだ、ただ偶然この場所で肩を擦り合わせただけの他人なんだと、気付いたら強がりばかりが先立ってしまっていた。


私はコーヒーを飲み干して──思ったよりもまだ熱くて、のどがちょっと痛かったけど──、カバンの中から財布を出して、私が飲んだコーヒー分の代金のみを机の上に置いた。


「今日は、あなたと話せて楽しかった。…もうこんな時間だし、私家に帰って絵を描かなくちゃいけなくて。…今日はありがとう」


「おい、ちょっと」


「さようなら」


じっと私をまっすぐな目で捉えながら私を呼び止めた彼を振り切って、私は彼に別れを告げた。間に合わせの関係には間に合わせの別れでいい。気づいたら私は秋の寒風の吹きすさぶパリの市街を一人で歩いていた。




部屋に戻ってくると、私は布団に突っ伏して、考え事を始めた。


…どうして今日は彼にあんな態度を取ってしまったのだろう、本当は彼と仲良くなりたかったのではないのか、けれど、ひょっとしたら自分が怖くて、また、彼とすぐに別れなければならないということを信じたくなくて、取り返しのつかない態度を取ってしまったのではないのか…。


パリに来てから、考え事に沈むことは珍しくなかった。この日もそうだった。環境になじめず、そのたびに弱音を吐いて日本に帰りたくなってしまう自分は嫌だったし、過去も将来もごっちゃになって何も見えなくなるのも怖かった。そんな孤独感にさいなまれたときに、私はよく絵を描いた。絵の上では私の感情は、綺麗ですっきりした線を持って展現したのだけれど、けれど、私はどうしてもその事実が信じられなかった。


どうしたらいいかわからず、私はしばらくベッドの上で虫のようにうずくまって、くさくさしていた。気づいたら、部屋の中は厳かな夜の闇に染まっていた。私は目をぱちくりさせて、体を起こして息を一つつくと、ふらふらした足取りでシャワーを浴びに行った。…今夜描くはずだった絵を全く描いていない。ぼんやりとした頭で考えたが、さして慌てることはなかった。


…それより、明日、どうしようか。




翌日も、きりりと晴れた秋空だった。


しかし気温は昨日よりも低いようである。朝、私は冬物のコートを一枚羽織って外に出た。


街も冷え込んでおり、太陽の光はほんのりと薄く、寒さを振りまいているようでもある。


こつこつと足音を鳴らしながらパリの市街を歩く。…私が歩いていたのは、美術学校とは反対の道だった。本当は授業があるのだが、今日はさぼっちゃおう。どのクラスメイトもしばしばしていることだ。


昨日訪れたラテン地区のカフェの前につくと、ちょうど店はオープンしたばかりで、店内にお客さんは一人もおらず、太っちょの店長さんが忙し気に店内を動き回っている。


中に入って、ちょうど昨日私が座っていた席へ向かった。…明るい日の差す、しかし隔離されたあの場所へ。


しばらくして、店長さんが私のもとに熱いコーヒーを運んできた。彼は私の方を見て、にこり、と微笑んで見せた。…優しい人だ。いつも一人でカフェに来る、青白い顔のアジア人学生にも、こうして居場所を与えてくれるというのだから。


それから私は昨日と同じように、ため息をつきながら、外の人の流れを見て、スケッチブックに鉛筆で絵を描き、気持ちが沈んでくるとタバコを吸った。記憶だけを頼りに素描をするのは思いのほか難しいものだ。その不自由さにやるせなさを感じながらも、また胸の中では一つの不愉快な事実から目をそらすことができないでいた。


──どうして私は今日授業をさぼってまでこのカフェに来たのか?まさか、昨日のあの人を待っているとか?


──来るはずがないのにね。


自分で自分をあざ笑いながら、泣きつかれてしんなりとした指の先で、弱い線を描き続ける。


がちゃん、と入り口の方で音がして、軽い足音がしたかと思うと、それは私の方へ近づいてきた。胸が飛び跳ねて、スケッチブックをゆっくりと閉じ、振り返ったときには、私の予想は確信へと変わっていた。


何も言わずに彼は私の隣へ座り、「元気?」と声をかけてきた。


「…うん、元気だよ」


「…良かった」


それから私も彼もしばらく黙り込んで、二人で並んでコーヒーを飲んでいた。何か言いたげで、しかしお互い言い出さない空気は、しかし牢固で安心できるものでもあった。


私はまた指先でタバコを探り当て、その先っぽを眺めながら、ふとちゅうちょして、ぼんやりとした。


そのとき、隣の彼は私の指先にあったタバコをつかむと、ひょい、と取り上げてしまった。


「こんなもの無くても、君は大丈夫」


彼のがっしりとした指先が私にわだかまっていたものを捉えた。その野暮ったい偶然がたのしくて、私は思わず火照った顔を伏せた。


「ねえ」


「なんだ?」


「出よう」


私と彼は、カフェを出て、そのまま二人でパリの街を見に行くことにした。




エッフェル塔や、凱旋門や、ルーブル美術館など、紹介したい観光地はいくつもあったけれど、私たちはそれらをあえて見に行くことはせず、ただ二人でセーヌ河畔のベンチに座ってぼんやりと流れや街並みを眺めていた。


まるで、今まで長い間一緒にいたみたいな、包み込むような親密さの中で、午後の時間が過ぎていく。


彼は、いろいろな話をしてくれた。今まで言ったことのある外国の話、地元の話、東京で過ごした大学の話、仕事の悩み…。私も、大学時代の話や、美術の話、フランスでの暮らし、日常の辛さ、夢…。私の言うことに、彼はいちいち多くの返答をせず、ただうん、うん、と柔らかく受け止めてくれていた。


「ねえ」


「どうした?」


「これ見て」


私はさっきカフェで描いていた絵を彼に見せた。


それは、昨日見た彼を、記憶を頼りにして描いた似顔絵である。鉛筆で素描をしただけだけど、いつ見ても彼の姿が思い起こされるほどには精緻に描けたと思う。


「…すごいな、一度か二度会っただけなのに。カメラみたいな眼をしてるんだな」


「別にすごくないよ。本気で絵を勉強するんだったら、これくらいできて当然なんだから」


「さすがだな」


どうやら私に似顔絵を描いてもらえるとは思っていなかったようで、彼はほほを染めて照れくさそうに笑った。私もにっこりと微笑み返す。しかし、彼が一瞬寂しそうな顔をしたから、私はその顔を見たくなくて、きらめきながら流れるセーヌの流れに視線を戻す。




日が暮れかけてきた。


今日の夜までには、彼は出発の準備をするために仕事に戻らなければならないのだという。もう時間がなかった。


「今日は何日?」


私は彼に聞いた。


「23日だ。どうしたんだ?」


「実は、明日は私の誕生日なんだ」


彼は驚いた顔をして、急いでそばにあったお花屋さんへと入り、そこでこぢんまりとした花束を買ってきた。


「誕生日おめでとう!」


彼から花束を受け取ると──紫色のヒナギクだ──こえらきれずに身体中に熱い衝動があふれた。身体中が暗い気持ちから放たれて、胸の奥がほぐれていくのを感じた。


黄昏が近づく。燃えるような夕陽は空の向こうへ遠のいていき、セーヌ河は銀色の光を水面に砕く。


「また、きっとパリに戻ってきたい」


彼は私の両手を握りながら、祈るようにつぶやいた。私も彼をしっかりと見据えて、彼の気持ちと温かさを、せめてこの指先に少しでも余しておきたい、と願っていた。


ぽつりぽつりと、夜の歓楽が街を包み始めた。どこかから、アコーディオンの細い声が寂しげに響く。


彼はぱっと私の手を離した。


「…そろそろ時間が来た。もう、行かないといけない。本当に楽しかった」


「私も。ありがとう」


「Au voir.」


彼はたどたどしいフランス語でいった。


私はそれに優しい微笑みを返しながら、言った。


「Bonne continuation.」


彼は、ちょっと困ったように笑いながら──無邪気に、名残惜しそうに、再び私の手を握った。お互い見合ったときには、黄昏がすでに彼の顔を隠して、ほとんど見えなくなってしまっていた。彼はそのまま後ろを向いて、遠い国へと旅立っていった。


私はしばらく河畔に立ち尽くしていた。私は、彼の顔を描いたスケッチブックの一ページを抜き取って、セーヌ河の流れへとそっと浸した。秋の水がそれをたずさえたかと思うと、すぐに私からそれを受け取って、振り返ることなく、流れ去っていった。







そういえば、以前セーヌ河のほとりを歩いたとき、時々、河畔に一人でたたずんでいる人を見かけた。


パリに来たばかりの私は、彼ら彼女らの顔を見ていて、言いようのない悲しい顔をしているのが忘れられなかった。私はそれを表現したくて、あの表情をモチーフにした絵をたくさん描いた。それらの絵が決まって良い評価を得るのだった。


私はずっと、その表情がいったいどこからきているものなのか、分からなかった。同時に、街全体に何かとらえようのない切ない雰囲気が充満しているように思われて、それはあの表情にとても良く似た性質のものだと気づくようになった。一体何があったのだろう、といろいろ想像をめぐらせても、平々凡々としたことした思いつかなくて、絵で表現することはできるのに、その実感だけがどうしても掴めないでいた。


今思うと、彼ら彼女らは、二度と会うことのない誰かに恋をしていたのかもしれない。




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