愛じゃ足りない
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ばたばたと廊下を走る音が聞こえる。兎紀はピクリと垂れたうさぎの耳を動かした。
音を拾えば、なんてことはない。いつも通り、一真が雪狼に追いかけられているだけだった。
「兎紀!助けて!ていうか、匿って!」
「嫌」
「酷い!」
素気無く兎紀が答えれば、一真は泣きそうな顔をして兎紀が座っている椅子に体を隠すようにしゃがみ込んだ。一真が椅子に身を隠すのと時を同じくして、雪狼が教室に入ってくる。兎紀は耳をぴくぴくと動かしながらため息をついた。一真はいつになったら学習するのだろう。
オオカミの鼻は、一真のような人間のそれより、はるかに優秀だということを。
「一真!今日こそ俺の番になると言え!さあ!」
腕を広げ、抱き着いて来いといわんばかりの雪狼だが、一真がその腕に飛び込む日はいつになることやら。一真はぶんぶんと首を振って拒絶する。途端、勢いよく振られていた彼の尻尾が、しょげたように下を向く。頭の上にあるオオカミの耳もだらんと垂れ下がり、哀愁を誘う。一真は犬が好きらしく、その姿はさぞ心をくすぐられたことだろう。兎紀の後ろで、唸るような声が聞こえた。
これが兎紀の周りで繰り広げられる日常だ。一真も雪狼も雄だが、兎紀はあまり気にしていなかった。何しろ、獣が人とまぐわり、室町時代に人の姿を得た時から、本能に刻み込まれた種族保存の法則は鳴りを潜め、個人の指向で伴侶を見つけ始めるようになったからだ。最初は獣人は追害される存在であった。しかし、次第に獣人の数は純粋な人の数に追いついた。そこから段々と獣人と人は互いを認め初め、こうして現代にいたるのである。
学校は、獣人と人間で学び舎は分かれているのが一般的だが、兎紀たちが通っている学校は獣人と人間どちらともが通っている。獣人は人間の力を軽く凌ぐため、校舎は人間だけが通うものよりも頑丈な造りになっている。この学校は、世界で初めて、獣人と人間が共に学ぶことを推奨して作られた学校である。
兎紀や雪狼のように、人と獣両方の形を持つ者たちのことを世間一般的には半人半獣…獣人と呼ぶ。
獣の耳と尻尾を持ち、純粋な人よりも五感に優れ、獣の種類によっては身体能力に優れた者もいる。兎紀はうさぎの獣人。しかし、雪狼は厳密的には獣人ではない。西洋の方に先祖を持つ狼男だ。雪狼は西洋から流れたグループ出身であり、彼の名前が中国系統なのはそれに由来しているらしい。また、獣の時の姿に引きずられるのか、獣人が持つ色彩は人種に関わらず多様である。
白うさぎである兎紀の髪色は綺麗な白髪であるし、瞳も赤みがかった色をしている。灰色オオカミである雪狼の髪は黒から灰色のグラデーションになっており、きついつり目は黒みがかった灰色をしている。
無事に雪狼を追い払った一真を観察しながら、兎紀はたまに考える。自分にも、雪狼のように誰かを熱れるに愛してみたい、と。けれど、それを言うと大抵一真はげんなりした表情でこういうのだ。
「あんな熱烈な愛情、いきなり向けられても困るだけなんだけどな…兎紀は女の子だし。だからって訳じゃないけど、個人的にはそこまで肉食にならないでほしい…」
けれど兎紀は懲りずに考えるのだ。一真を追いかけまわして、追い詰めているときの雪狼はとても楽しそうだ、と。そんなに楽しいなら、やはり自分も誰かを愛してみたい。兎紀はピクリと耳を揺らしながら、雪狼相手に延々と嘆く一真の言葉を聞き流し続けたのであった。
***
「…え?今なんて?」
朝ごはん代わりに食べていたパンが、兎紀の放った衝撃的な一言によってポロリと一真の口から落っこちた。兎紀はすんでのところでパンを掴む。少しつぶれてしまったが、それはご愛嬌というものだろう。聞き逃されたらしい言葉を、兎紀はもう一度口にした。
「好きな相手ができた」
「まじ?」
「本気だ」
朝、またもや雪狼を追い払った一真に、兎紀が告げた言葉は彼にとって目をかっぴらいて口を阿呆みたいに開けっ放しにするほど、驚愕のことだったらしい。兎紀は、少し失礼ではないかと思いながらも、丁寧に開いた口を閉じてやった。舌を噛んだと涙目になっている一真の姿に、しれっとした表情で兎紀は話を続けた。
「羊という、ひつじの獣人だ。とても好ましい匂いがしたので、最近ひっついてみていたんだが」
「だから最近、お昼時間すぐどっかいっちゃうのか…」
「笑った顔が好みだったので、彼を愛してみようと思う」
それは、一真からすればとてもではないが普通の恋ではなかった。けれど、いつも無表情の兎紀が楽し気にしていたことから、それを指摘するのは憚られた。兎紀はあまり自分のことが好きではないのだと、普段接している時間が長い一真は知っている。従って、兎紀は誰かに『愛してもらう』ことを諦めている節がある。けれど、楽し気な雪狼を見て『愛すること』には興味が出てきた。愛してもらえなくてもいいから愛してみたい。
その考えは、どこか悲しいと一真は思う。けれど、それを口にしてしまえばきっと兎紀は傷ついてしまう。普段表情の動かない彼女は無感情に思われがちだが、彼女は彼女なりに感情もあるし、何気ない言葉に傷つくような普通の人間である。
一真は、いつもより饒舌な兎紀を曖昧な心持で見ているしかできなかった。
***
昼休みの始まるチャイムが鳴り、自分の食事を掻き込むようにして平らげた兎紀は、小さな手提げを持って席を立った。
「行くの?」
「もちろん」
「いってらっしゃい」
行ってきます、と走り出しながら答えた兎紀の背中を一真は心配そうに見送った。
兎紀が向かったのは校舎の中庭にある大木の下だ。そこにあるベンチで、いつも羊は本を読んでいる。ブックカバーに覆われたそれの内容は分からない。兎紀にとっては些事であったので、あまり気にしたことはない。黄色がかった白髪をした羊の瞳は、長い前髪に覆われている。けれど、その前髪からたまにのぞく丸い大き目の瞳孔をした黒目が、兎紀は一番好きだ。
「お待たせ」
羊の隣に座り、弁当箱を開けると、羊は読んでいた本を閉じ脇に置く。そのまま弁当を受け取るのではなく、あ、と口を開けた。
「…ん。おいしい」
「よかった」
羊は兎紀が見てきた中でも随一の面倒くさがり屋だ。こちらが何か羊に対してするのはいいが、羊は基本、受け身の姿勢を崩さない。つまり、羊が兎紀に何かをすることはまずない。けれど、兎紀はそれを不満には思わなかった。
一真が考えている通り、兎紀は自分のことが好きではない。自己否定とまではいかないが、自分が好きではない自分のことを、誰が愛してくれようか。
そんな兎紀にとって、兎紀を全く愛そうとしない羊はいってしまえば都合がよかった。こちらが一方的に愛することを受容し、拒否しない。
そして、都合がよいというのは羊にも言えた。羊は逆に誰かを『愛したくない』と思っている。愛することはひどく疲れることであり、低燃費で動くことを良しとする羊にとっては、無駄な行為だったのだ。けれど、『愛される』ことには特に頓着していなかった。愛してほしいとは思っていないが、一方的に愛情を向けられることについては面倒くさいことにならない限りは良しとしていた。
食べ物をこうして食べさせえ貰えるなど、非常に楽だ。とさえ思っていた。特に。兎紀は他の女子とは違い羊に愛してもらうことを望まない。羊にとって、兎紀は全く持って都合の良い存在だった。
兎紀が一方的に愛し、羊がそれを受容する。その関係は一年続いた。
二年生だった二人が三年生になった春のこと。廊下で騒がしい足音が聞こえたと思えば、背中に誰かが回り込んでくる。相変わらず雪狼から逃げ続ける一真に、そろそろ諦めたらいいのに、と兎紀は笑った。兎紀は最近、表情がよく動くようになった。それでも、笑顔を見たのは初めてだった一真と雪狼は思わず顔を見合わる。自分が笑ったことに気付いていない兎紀はきょとんとした。その腕が突然ぐいっとと引っ張られ、よろめいた兎紀が見たのは、不機嫌そうな羊の表情。前髪に隠れていても、その目が爛々とぎらついているのが分かる。
兎紀は思わず硬直する。肉食動物ににらまれた草食動物の気分だった。どちらも草食動物だ、と考える頭の余裕は、奇しくも残っていなかった。
授業の始まりを告げるチャイムの音が、どこか遠く聞こえる。未だに不機嫌そうな羊を、兎紀は困惑気味に見上げることしかできない。当たり前だ。兎紀は羊が不機嫌だった時など今まで見たことがない。その上、不機嫌であるというのに兎紀の腕を引き続けている。不機嫌であるならば、そしてその理由が兎紀にあるというのならば、むしろ一緒にいたくないはずではないのか。
やがて連れてこられたのは、いつもお昼を過ごしていたベンチだった。羊は兎紀をベンチに座らせると、自分は地面に膝をつき頭を兎紀の太ももに乗せた。兎紀は、羊の行動の意味がまるでつかめなかったが、すぐ近くにある羊の角の方が気になった。眼前に羊のくるりととぐろを巻いた立派な角がせまる。いつからか、触ってみたいと思うようになっていた角がすぐそばにある。手をほんの少し動かせば触れることができる距離に、兎紀は手を動かしては止め、動かしては止め、と忙しない。何故羊が不機嫌だったのかとか、この体制は一体なんだとか、そんなものはあっという間に塵と消えていた。
兎紀の葛藤を察してか、羊の頭がほんの少し動いた。びくっと耳を揺らした兎紀の手につるりとした質感の角が触れる。触ってしまったと身を固くする兎紀の手のひらに、羊は押し付けるように角を当てた。触っていいのだろうかと迷う兎紀と、ちらりと髪の合間からのぞいた黒目が合った。じっと兎紀を見つめる瞳に後押しされるように、兎紀は角の付け根を撫でた。ふ、と羊の口から吐息が漏れる。気持ちがよさそうに細められた羊の瞳に、兎紀の胸が締め付けられるような感覚を訴える。まるで縋るように、兎紀の腰にまわされた腕。甘えるように太ももに擦り寄せられる頭。穏やかで、どこか甘やかな二人だけの空間。
この時間が続けばいいと願ったのは、果たしてどちらが先だったのだろう。
***
羊が兎紀に対して感じていた感情は、いつからかとても大きくなっていた。毎日毎日繰り返される二人だけの逢瀬。羊が嫌だと感じたことは一度たりともしたことがない兎紀のことを、羊はいつしか目で追うようになっていた。初めは、苛立つことがまるでない兎紀の傍が心地よくて、それがどうしてなのか知りたくなっただけだった。なぜなら、他の女子などは、良く自分を苛立たせることが多かったから。
まず、苛立ちを覚える女子たちの言葉を思い出してみることにした。それを思い出せなければ、兎紀と他の女子の違いが分からない。思い出してみればなんてことはない。羊自身にも愛情を求めるような言動を、彼女らは必ずするのだ。羊は毎回彼女たちに最初に告げるのにもかかわらず。「僕は君を愛さないよ」と。
だから、学習能力のない女子にはいら立ちを覚える。その点、兎紀は愛情を求めたことは消してない。兎紀にも最初に告げたが、兎紀はあっさりと問題ないと頷いていた。
けれど、それだけではないはずだ。と羊は兎紀を見かけるたびにじっと観察し続けた。
観察し続けて気づいたことは残念ながらそんなになかった。けれど、一つだけ。兎紀は、普段は笑わないことが分かった。羊といるときは、基本兎紀は笑っている。とても嬉しそうに、幸せそうに羊に向かって微笑んでいる。それが分かった時、羊の心がぎゅっと締め付けられたように苦しくなった。あまりの苦しさに呼吸が乱れたほどだ。その時から、兎紀の笑顔は羊の中で特別になった。自分だけに見せてもらえる宝物。その考えが既に、いつもと違っていたことに、終ぞ羊は気づかなかった。
だから、ふと見つけた彼女が他の男子に向かって笑っていたことに、どうしようもなく苛立ったのだ。
その時沸いた感情の名前を、羊は言葉にできなかった。分かったことといえば、兎紀も自分を苛立たせたにも関わらず、手放す気にはなれなかったということだけだ。
***
それから羊と兎紀の関係性が変わったかといえば、特に変わっていない。お昼のルーティンに膝枕が加わったくらいだ。膝枕というよりは、あれは獣的に言えば毛づくろいに等しい。兎紀の太ももに頭を寄せた羊の、角の付け根をいい具合に撫でるのが、新しく兎紀に許された項目だ。
それ以外にも、羊は兎紀に甘えることが増えた。唐突に首筋に甘噛みしてきたり、腕や鎖骨辺りなどにすり寄ってきたり。そのたびに兎紀は正体不明の胸の締め付けに苦しむ羽目になった。
今も、比較的敏感な角の付け根という場所をむしろ押し付けるようにして撫でさせる羊に、兎紀の表情は緩みっぱなしである。
最初は、愛するという疑似的行為ができればそれでよかったのだと告白しよう。けれど、今は自然に羊に触れたいと思うし、学校のすれ違いざまに羊を見つけた時などは、焦点を固定されたかのように目が離せなくなる。兎紀はとても満足していた。自分の中にあるこれを、兎紀は愛情となずけて相違ないだろうと判断したのだ。当初の、愛してみたいという願いが成就したことは、大変喜ばしいことだ。
だから。これ以上の気持ちに、兎紀は目を向けてはいけない。
自分は最初から一方的な愛情が注げればよいだけだった。羊にも出会った当初、愛さないと言われている。これ以上は望んではいけない。そう思っている時点で沼にはまり切っていることに、兎紀は気づいていない。肉食的衝動が覚醒した羊に、じわじわと追い詰められていることにも、鈍い兎紀は気づいていない。
ぐるぐるとした葛藤から抜け出せない兎紀を横目に、羊は心地よいまどろみの中でほくそ笑んだ。
今朝、廊下で面白い話をオオカミの獣人が呟いていた。もっと求めてほしい、という欲が止まらないと。羊はそのそのつぶやきを耳にして、ようやっとパズルの最後のピースが嵌ったように自分の気持ちの名前が分かった。
それは欲だ。オオカミの獣人と同じく、求めてほしいという欲。また、誰にも渡さないという欲。そして同じくらい、彼女からの欲が欲しいということにも気が付いた。兎紀の一方方向の愛情じゃ足りない。なぜならその愛は、ペットを愛でる物と同じだからだ。
もっと明け透けに求めてほしい。羊がいないと寂しいと思ってほしい。もっと羊に触れたいと願ってほしい。羊の口付けが欲しいと強請ってほしい。清廉潔白な愛じゃ足りない。
羊が欲しいのは、兎紀の『欲』だ。羊は膝枕された態勢のまま、兎紀の腹にすり寄る。そして兎紀が好きな黒目をのぞかせて愛しい彼女に微笑んで見せる。彼女の口から羊が欲しいと聞きたい。そうしたら、骨の髄まで捧げるから。
ひつじが舌なめずりしながらうさぎを狙う。そんな一風不思議な光景が、今日もまた人気の少ない大木の下で、繰り広げられている。