第二十六話 被害者の信頼
「白影サン! 今のうちだ!」
池の真ん中にある休憩所に突如として現れたのは、パンツ一枚の姿でずぶ濡れになった北里くんだった。後ろから鈴木みどりを羽交い締めにして、窓崎さんから遠ざかる。
どうして北里くんがここに? この休憩所に来るには、一本しかない橋を渡るしかない。つまり私たちに気づかれずにここに来るのは不可能だ。だけど水に濡れている彼の姿を見たら、答えはひとつしかない。
そう、北里功海は、果敢にも池を泳いで、鈴木みどりに対する奇襲を行ったのだ。
私も窓崎さんも、突然の事態に目を丸くするほかなかった。取り押さえられている鈴木みどり本人は薄笑いを浮かべながら特に抵抗はしていなかったけども、北里くんは必死に彼を抑えている。
「白影サン! ぼーっとしてるんじゃねえよ! 早くしろ!」
北里くんの言っている意味が一瞬わからなかったが、すぐに彼の意図を察知し、休憩所の中にいる窓崎さんの手を掴む。
「窓崎さん! こっちに来て!」
「あっ!?」
私は窓崎さんの手を引っ張り、休憩所から橋の上まで戻り、鈴木みどりから出来るだけ距離を取った。これでとりあえずは、彼女を取り戻すことには成功したということだ。
「白影さん!」
窓崎さんを連れ戻したと同時に、今度は後ろにある橋のたもとから足音が聞こえてきた。見ると、加藤くんがこちらに走ってくる。
「加藤くん!」
「窓崎さんは取り戻したのか!? よかった……」
「うん! でも北里くんが!」
「わかってる! 北里! 大丈夫か!?」
加藤くんは鈴木みどりを取り押さえている北里くんに駆け寄っていく。二人がかりで動きを抑えれば、鈴木みどりも太刀打ちできないだろう。今のうちに窓崎さんを連れて公園を出れば、私たちの勝ちだ。
「窓崎さん! 走るよ!」
「……私は、あなたとは行きません。ここに残ります」
「あなた、まだそんなことを!」
この期に及んで尚も自分を殺そうとする彼女に憤りを感じたが、それを見た鈴木みどりは面白そうに笑った。
「ははは、残念だったな窓崎の彼氏くん。だけど池を泳いでくるなんて無茶をするとは、さすがの先生も驚いたぞ?」
「てめえには俺が何でこんなことをしたかなんてわからねえだろうな。そうまでして助けたいと思える相手がいない、てめえなんかにはなあ!」
「おうおう、元気が良いねえ若者は。だけどどうする? 見ての通り、窓崎はあの調子だ。先生を押さえていても、窓崎は死ぬぞ?」
「安心しろ、そうはいかねえよ。加藤、こいつを頼むぞ」
「……ああ。行ってこい!」
北里くんは鈴木みどりを押さえる役目を加藤くんに任し、をずぶ濡れの身体から水滴を落としながら、こちらに近づいてくる。だけどその表情はいつもの彼とはほど遠い、怒りに満ちた表情であるせいか、彼の身体から出る熱で、水が蒸発していくようにも見える。
窓崎さんはそんな北里くんを怯えた表情で見ていた。やはり彼女は、北里くんに対して何らかの恐怖心を抱いているようにも見える。
「窓崎……」
「功海さん……私は……」
窓崎さんは何かを言いかけたけれども、一呼吸を置いて話し始めた。
「私に、恨み言があるのですか? あのような形で別れを切り出した私に?」
「窓崎さん、あなた……!」
「私は功海さんとお付き合いするべきではなかったのです。私は最初から、あなたと釣り合う人間ではなかった。私はあなたの足を引っ張る存在だったのです」
「……言いたいことはそれだけか?」
「……っ! あなたは、私など必要とすることは……!」
「まだわからねえのかこのバカ野郎がぁ!!」
北里くんは大きく口を開いて、お腹から声を絞り出すように叫んだ。初めて聞く彼の怒声に、私も窓崎さんも、身体を跳ねさせてしまう。
「俺が単なる同情で、このクソ寒い中、わざわざ池の中泳いでお前を助けにくるようなお人好しだと思ってんのか!? 俺は他でもないお前を助けたいから、こんなことをしてるんだよ!」
「そんな……そんなわけがありません! 私は……!」
「お前は自分に価値がないと思い込んで、自分は可哀想な『被害者』だと思い込んで、自分自身を守っているだけなんだよ! そしてその思い込みが、お前を好きだと思っているヤツを傷つけているんだ! 何が『被害者』だ! お前は無自覚に他人を傷つけている『犯人』だよ!」
「……っ!」
北里くんの言葉に思うところがあるのか、窓崎さんは口をつぐむ。
「お前は結局、他人を失うのが怖いから、自分が必要ないと思われるのが怖いから、自分から他人を遠ざけているだけだ。結局は誰も信じられないから、自分の殻に閉じこもっているだけだ。それはお前だって気づいているんだろう? だから俺に別れを切り出したんだ」
「わ、私は……」
「この際だから言っておくぞ。俺はお前のそういう所が嫌いだった。オドオドしてて、自分に自身のないお前が。何より……」
そして北里くんは、より一層厳しい表情になる。
「俺が好きになった、お前自身を傷つけ続けるお前が」
「……!!」
窓崎さんが顔を上げて、目を見開く。
私も驚いている。もしかしてこれは……北里くんによる、告白なのだろうか。
「だけどな、それも含めてお前なのはわかってる。お前が誰かを失うなら怖いなら、俺がずっとそばにいてやる。それでお前が自分自身を好きになれるなら、お安いもんだ」
北里くんの告白を受けて、窓崎さんはうつむいた。だけどその口からは何かの言葉が漏れている。
「私は……誰かに必要とされたい……いや、誰かを必要としたい……」
「窓崎……もういいだろう? お前は誰かの隣にいていいんだ」
「功海さん。あんなにひどいことをした私を、あなたは受け入れて……」
そこまで言いかけて、窓崎さんは一旦首を振り、そして改めて顔を上げた。
「いえ……私はあなたを信じていいんですか?」
その顔は、いつもの不安げな表情ではなく、両目に涙を浮かべて感情を露わにした顔だった。
「他人を信じるのに許可なんていらねえよ。だけど、お前がまだ自信を持てねえのなら……無理矢理にでもお前に俺を信じさせてやる。俺はそのためにここに来たんだ」
その言葉を受けた窓崎さんは……
「う、う……うええぇぇぇ……」
今度こそその両目から、今まで押し殺していた本当の感情を溢れ出させた。
「窓崎さん……」
「ごめんなさい……功海さん、ごめんなさい……」
「全く、このバカ野郎が……」
泣きわめく窓崎さんの頭を、北里くんは自分の身体に寄せようとする。その顔はいつものヘラヘラとしたものとは全く違う笑顔だった。
「おっと、今はダメか。窓崎が凍えちまう」
しかし、自分の身体が濡れたままだということに気づいた彼は、それを寸前で取りやめた。
だけどまだ、この戦いは終わっていない。その証拠に、北里くんは再び厳しい顔をして後ろを振り返る。
「おい、鈴木さんよ。窓崎は返してもらったぜ。これでもまだ、俺たちをどうにかしようってのか?」
そう、鈴木みどりはまだここにいる。加藤くんがその動きを押さえてはいるが、依然として油断できない状態ではあるのだ。
だけど鈴木みどりは、まるでつまらないスポーツの試合を見ているかのように大きなあくびをした。
「んー? ああ、終わったの? 先生ちょっと白けちゃったからさ。あんまり見てなかったんだよね」
「……白けた?」
この人は、私たちをここまで弄んでおいて、何を勝手なことを言っているのだろうか。
「あー、もう別に先生を放しても大丈夫だよ。窓崎のやつなあ、なんかつまらなくなっちゃったからなあ、もういいよ。また別の面白い生徒探すから」
「……それを信用すると思いますか?」
加藤くんは鈴木みどりをまだ警戒しているが、私は彼が本当に私たちから興味を失ったように見えた。
さっきも思ったのだ。この人は誰も必要としていない。それこそ自分自身も必要としていない。本当に私たちがどうなろうとどうでもいいのだろう。
だから私は、言っておきたかった。
「鈴木みどり……いや、鈴木先生」
「んー?」
「あなたも……本当は、必要としているんじゃないですか? あなたの本当の目的は……」
「白影さぁ、先生のことを詮索するのはよくないなあ、生徒がそんなことをするもんじゃないぞー?」
そう言われたら、私も彼のことを無理に理解する気が失せてしまった。
「それでさ、加藤。心配なら先生を橋のたもとまで連れて行ってくれるかー? そこで放してくれれば、先生もう帰るから」
「……わかりました」
加藤くんは鈴木みどりを橋のたもとまで連れて行き、そこで解放した。宣言通り、鈴木みどりは大人しく公園の出口に向かっていった。
「それじゃあなあ、窓崎。先生もお前に充分楽しませてもらったからなあ」
「鈴木先生……」
「だけどお前も高望みするんじゃないぞー? そいつもお前をいつ裏切るか……」
「私はもう、あなたの言葉には惑わされません。私は私の意志で生きていきます」
「あーあ、本当につまらないヤツになっちまったなあ、お前。まあいいや、先生もそろそろ復職するつもりだったし、お前はそのままでいればいいんじゃない? それじゃあなー」
そして今度こそ、鈴木みどりはこの公園から去って行った。
「……ふう」
それを確認した瞬間、私たちの緊張が一気に緩んだ。北里くんも疲れが出てきたのか、その場に座り込む。
「あー、やっと終わったか。加藤、悪いけどタオルとパンツ買ってきてくれ。寒くてしょうがねえ」
「わかった。すぐ戻ってくるよ」
「功海さん、申し訳ありませ……」
「謝るなよ、俺が好きでやったんだからよ」
いつものようにヘラヘラと笑う北里くんを見て思う。
やっぱり彼は、不良ぶってただけなんだ。
「北里くんも、いつもそんな素直だったらいいんだけど」
「はあ? 白影サンにそんなこと言われたくねえなあ」
「私は君ほど捻くれてるつもりはないけど?」
「自覚がねえって、大変だよな」
「なんですってぇ!?」
いつものように口げんかをする私たちを見て、窓崎さんが微笑む。
「ふふ……」
その微笑みは、今までの彼女のそれよりも、ずっと嫌悪感が少なく感じられた。




