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第二十話 被害者の財布


 鈴木先生や灰岡先生との一件から数日が経った。

 あれ以来、私はますます他人と話すことが減った気がする。おそらくは先生たちの言う通り、自分が普通には生きられないことを自覚しているからなのかもしれない。

 だけど学校には来ないといけない。私はまだ自分が日常の外にいるとは思いたくない。だからこそ、日常の象徴である学校には来ないといけないのだ。


 午前中の授業が終わり、昼休みに入る。この学校には給食というものがないので、クラスメイトたちは家から持参したお弁当や、学校に出入りしている業者からパンを購入して昼食をとっていた。

 私もパンを購入するために、鞄の中から財布を取り出そうとした。しかし……


「……え?」


 ……鞄の中に財布がない。どうして? 学校に着いて教科書を取り出した時には、確かに鞄の中に財布はあった。それは間違いない。なのにどうして今はそれが無くなっているの?

 どこかに落とした? いや、確か財布は鞄の中に入れたままだったはず。トイレに行く時にも、財布は持っていってはいない。だとしたら……


 誰かが私の財布を盗んだ?


 そういえば、今日は午前中に体育の授業があった。その時なら教室には誰もいない。私の鞄から財布を抜き取ることだって可能だ。

 だとしても誰が? 一番可能性が高いのは、このクラスにいる誰かだ。もし私の財布を狙っての犯行なら、私の席がどこかを知っていないとならない。他のクラスの人がそれを知っている可能性は薄い。

 ここまで考えた私は、周りを見回す。


「でさー、マユミが本当空気読めないんだよねー」

「えー、ほんとにー?」


 クラスメイトたちは、私の焦りに気づく様子もなく思い思いに喋っている。私にはその様子が、すごく遠い世界の出来事のように思えた。私はこの中の誰かに財布を盗まれているかもしれないと思うと、クラスメイトたちが全員、自分とは違う生き物のように見えてしまった。 そう、私は彼女たちの輪には入れない。このクラスの中にいる異物は、私の方。

 しかしそうだとしても、このまま財布が無くなってしまうのは困る。意を決した私は、近くにいた女子グループに声をかけた。


「あの、すみません……」

「え? ああ、窓崎さん? なに?」

「あ、あの……」


『私の財布がなくなったのですが、何か知りませんか?』

 そう言えばいいだけの話なのに、私の口からその言葉はどうしても出てこなかった。わかってはいたのだ。例えそれを必死に訴えたとしても、彼女たちが私の言葉に耳を貸すことはないことを。それどころか私の言葉を、まるで寝言のように扱うことを。

 遠い。私と彼女たちの距離が、ものすごく遠い。同じ空間にいるはずの人間との距離が、こんなにも遠いものなのだろうか。


「なんでも……ありません……」

「え? ああ、そう」


 気がつくと私は消え入るような声でそう言うと、彼女たちから離れてしまっていた。どうしてだろう、どうして私はこんなにも弱いのだろう。私は同じクラスの人に話しかけることすら出来ない。こんな私を、誰が助けてくれるというのだろう。


 結局、教室中を一人で探すことになったけれども、私の財布は見つからなかった。



 放課後。


「はあ……」


 私は再度、教室で財布を探しながら、憂鬱な気分のあまり、ため息をついていた。このまま財布が見つからないとなると、このことをお母様に報告しなければならない。そうなれば、またお母様の軽蔑するような表情を見ることになるだろう。それがたまらなく苦しかった。

 あの日、この中学に入りたいと言って以来、私はお母様とまともな会話を交わしていない。しかしお母様の軽蔑するような表情は何回も見てきた。あの顔を見たときの苦しさは、いつまで経っても慣れることはなかった。どうしてだろう。どうしてお母様のあの表情を見るのはとても辛いのだろう。あれにはちっとも気分の高揚を感じない。


「窓崎さん」


 そう考えていると、私を呼ぶ声が聞こえた。見ると、教室の入り口に灰岡先生が立っていた。いつもの優しげな微笑みを浮かべてはいるけど、やはりその顔に安心感は覚えない。


「もうそろそろ最終下校時間になるわよ。まだ残ってたの?」

「あの、実は私の財布が……」


 そこまで言って、私は口を閉ざした。そうだ、灰岡先生にそれを言っても、信じてもらえるかわからない。それに彼女は、私に敵対心のようなものを抱いているようにも思える。だったらなおさら……


「探しているのは、これ?」


 だけどそんな私の思考は、灰岡先生が差し出した物体によって遮られた。

 彼女が差し出した右手に握られているのは、茶色く折りたたまれた四角い物体。


 紛れもなく、無くしたと思っていた私の財布だった。


「な、んで……」

「ん? なんで私が持っているかって? そんなの、私が盗んだからに決まってるじゃない」


 あっさりと自分の犯行を認めた先生に対し、私は動揺を隠せない。普通なら被害者である私が加害者である先生を責めるべきなのに、今の私にそんなことは許されなかった。上手く言葉を発することもできずに、ただただ震え上がっている。


「ほら、今度は盗まれたらダメよ? 今回みたいに犯人がちゃんと返してくれるなんてあり得ないんだから」


 まるで当然のように、先生は財布を私の手に握らせる。だからこそわからない。どうして灰岡先生はこんなことをしたのか。


「どう、して……?」

「ん?」

「どうして、こんなことをするんですか……? 私が……何をしたって言うんですか……?」


 その言葉と同時に、感情を抑えられなかった私の両目から涙があふれ出していた。

 中学に入ってからというもの、お母様からはいないものとして扱われ、クラスには溶け込めず、挙げ句の果てに鈴木先生からは殴られ、灰岡先生からは財布を盗まれた。どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。私がこの学校に進学したのがいけなかったの? 私は全てを間違ってしまったの?


「窓崎さん、あなたは何もしていないわ」

「え……?」

「あなたは何もしていない。でもね、誰からも求められていないの」

「どういうこと、ですか……?」

「わからない? あなたは今回のように、大事なものを失っても誰も助けてはくれない。誰も興味を持たない。誰も必要としない」


 その言葉を聞いて、思い出す。お母様の軽蔑した表情を。私が最も見たくない表情を。


「あなたは、いや、私たち『被害者』は、誰にも助けを求められない。誰にも必要とされてない。なぜなら自分に価値を見い出せないから」

「……やめて」

「窓崎さん。あなたが死んでも、誰かが悲しんでくれる? 誰かが心の底から涙を流してくれる? あなたは普通には生きられない。幸せな死に方なんて出来ない」

「やめて」

「そう、あなたは……生きてていい存在じゃない」

「やめてえええええぇぇぇ!!」


 久しぶりに大声で叫んでしまってけど、灰岡先生に言われなくてもわかっていたのだ。


 私は……誰にも必要とされていない。


 私が殴られても、何かを盗まれても、誰も助けてはくれない。誰も私の叫びに気づかない。だから私は、自分が価値のある人間だとは思えない。自分を好きになれない。

 だから私は、お母様のあの表情を見るのが怖かった。自分が価値のない人間だと思い知らされるのが怖かった。それに気づかないフリをしていた。だけどもう逃げられない。こうして言葉にされたら、もう逃げられない。


「う、うううう……」

 

 私はその場にうずくまり、泣きわめくことしかできなかった。それほどまでにこの事実は、私の心を抉ってくる。


「落ち着いて、窓崎さん」


 だけどそんな私の頭を、灰岡先生は優しく撫でた。


「私たち『被害者』は誰にも必要とされていないわけじゃないの。そんな私たちを必要としている存在は、確かにいる」

「え……?」

「それはね……」


 灰岡先生の顔を見上げると、彼女はまだ優しい微笑みを浮かべて、私に語りかけた。


「私たちを殺す、『犯人』よ」


 だけどその言葉は、彼女の微笑みとはかけ離れた厳しいものだった。

「私たちを、殺す……?」

「そう、『犯人』にとって、私たちは恰好の獲物なの。そうでしょう? 殺しても、誰にも『殺された』と認識されないのだから」

「そんな、そんなの……」

「間違ってるって? でもね、『犯人』だけは、私たちを必要としてくれている。『犯人』は、私たちを求めてくれている。そんな魅力的な存在が、他にいると思うの?」

「あ……」


 そうだ、確かにそうだ。

 私は誰にも必要とされていない。だけどもし、もし他人から何かを『搾取』したくてたまらない存在がいたら、その人にとって、私は魅力的な人間に映るのかもしれない。

 だとしたら、『犯人』は私を必要としてくれる? 私から全てを奪ってくれる? 私を見てくれる?

 私が死んでも、誰も悲しまない。誰も気づかない。誰も見てくれない。だけど『犯人』だけは、私を見てくれる。私が殺されたことを認識してくれる。そうだとしたら……


 私は、『犯人』に全てを捧げるしかないじゃないか。


「う、ううううっ……」


 だとしても、そんな悲しいことがあるだろうか。私は殺されるしか、『搾取』されるしか、自分を確立できない。そんなの、そんなの……


「窓崎さん、今は悲しいかもしれない。だけどね、今にわかるときが来る」


 再び泣きじゃくっている私を、灰岡先生は優しく撫でてくれた。


「あなたが殺される時までに、『被害者』の幸せを受け止められるように、願っているわよ」


 だけどその顔がいつもとはかけ離れた無表情であることは、私は気づいていなかった。

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