第十九話 被害者の恐怖
生徒指導室でしばらく呆然としていた私は、数分経ってからようやく我に返り、同時に殴られた顔に痛みが走ってきた。
「いつっ……」
おそらくそこまで強い力で殴られたわけではないけれど、持っていた手鏡で顔を確認すると、殴られた箇所が少し赤くなっていた。見る人が見れば、殴られた痕だとわかるかもしれない。
けれども、私がそれを周りに言ったとしても、鈴木先生の言う通り、誰も信じないだろう。私の体質のこともそうだし、鈴木先生は周りからの信頼が厚い人なのは今まで授業を受けてみてわかっていた。要は泣き寝入りするしかないのだ。
だけど私は、鈴木先生の言葉が気になっていた。
『英語の灰岡先生に相談するといいぞー』
灰岡 純麗先生。この学校で英語を教えている若い女性の教師で、私のクラスも担当しているから顔も知っている。綺麗な長い黒髪と、細身のスーツ姿がすごく似合っていて、男子生徒からの人気も高い。
だけどどうして、鈴木先生は灰岡先生に相談しろと言ったのだろうか。そんなことをすれば、灰岡先生が私の言うことを信じてしまう可能性だってある。そうなれば鈴木先生にとっては不都合だ。
しかし鈴木先生は、『そうした方が自分にとって都合がいい』と言っていた。あの人の目的が何かわからない。どうして私を殴ったのかもわからないし、灰岡先生を巻き込んで何をしたいのかもわからない。
だけど、わからないなら、とりあえずは示された道に向かうしかない。
だから私は昼休みに、職員室に向かうことにした。
「失礼します……」
「ん? 窓崎さん、どうしたの?」
昼休みに職員室を訪れた私は、入り口の近くにいた灰岡先生に声をかけた。いつも通り細身の体を灰色のスーツで包み、微笑みを浮かべて対応してくれた。
「あの……申し訳ないのですが、二人だけでお話したいことがあるのですが……」
「あらそう? いいよ。じゃあ、生徒指導室に行こうか」
灰岡先生は立ち上がって、職員室にいる先生方に一言声をかける。席を外すことを一通り伝えた後、私に向き直った。
「お待たせ。じゃあ行こうか」
「……はい」
私は灰岡先生の後ろを歩きながら、彼女が私の話を信じてくれるのかどうかという不安を抱いていた。
生徒指導室は私と鈴木先生が出て行った時のままになっていて、私が殴られたときに倒れた椅子などがそのままになっていた。
「もう、誰がこんなことしたのかしら。こういうところでちゃんとしないと生徒にしめしがつかないのに……あ、窓崎さんはそっちの椅子に座ってくれる?」
灰岡先生は倒れた椅子を起こしながら、私に微笑みながら中に入るように促した。
「それで、話ってなに?」
そして自分は倒れていた椅子に座って、私と向き合う。こういうところの気遣いが出来るのも、彼女の人気の秘密なのかもしれないと思った。
「あの……実はですね、先ほどこの部屋で鈴木先生とお話したのですが……」
「あら、そうなの? じゃあもしかして鈴木先生から聞いてる?」
「え?」
「あなたは普通には生きられない人間だって言われなかった?」
「……!!」
その発言の直後、灰岡先生の印象が急激に変わった。優しげな微笑みは、どこか妖艶なものになり、こちらへ向ける視線は生徒に対してのものではなく、妖しい光を伴ったものに変わっている。
私の喉が急激に乾き、言葉を上手く発することが出来ない。どうして? なぜ? 灰岡先生は何を知っているというのだろう。
「な、んで……」
「ん? なんで私が鈴木先生の発言を知っているかってこと?」
しかしよく考えてみれば当たり前だ。鈴木先生は私に対して灰岡先生に相談しろと言っていた。初めから二人が共謀していると考えた方が自然だし、そもそも今までその可能性を考えつかなかったのもおかしな話だ。
つまり、灰岡純麗と鈴木みどりは初めから私を陥れるつもりだった。そうとしか考えられない……
「落ち着いて、窓崎さん。私たちはあなたを陥れるとかそういうことを考えているわけじゃないの」
しかし灰岡先生は私の心を見透かしたかのように、優しく声をかけた。その顔はいつもの優しげなものに戻っていたが、もう今の私はその表情に安心感を抱けない。
「まず説明するけど、鈴木先生に窓崎さんのことを話したのは私。まさか鈴木先生がこんなに早く動くとは思わなかったけどね」
「私のことを話した……? どういうことですか?」
「窓崎さん、あなたは誰かに叩かれたりしても、それを他人に信じてもらえないなんて経験があるんじゃない?」
「……! どうして、それを?」
灰岡先生も私の境遇に気づいていた? いや、今の話だと、おそらく鈴木先生にそれを話したのは彼女だ。つまり灰岡先生こそが、最初に私の境遇に気づいた人だったんだ。
「やっぱり、あなたもそうみたいね」
「え……?」
その時、私は彼女の左手首になにか黒いようなものがあることに気づいた。灰岡先生は私の視線に気づくと、ゆっくり左腕の袖を捲る。
「あ……!?」
灰岡先生の手首には、何か固いもので殴られたような大きなアザがあった。
「鈴木先生に、やられたの」
私が質問を投げかける前に、答えは提示された。
「どうして、そんな……?」
「鈴木先生はわかっておられるのよ。私がこうされても、誰にも助けを求められないことがね。そう、窓崎さんと同じように」
「じゃ、じゃあ、灰岡先生も?」
「ええ、あなたと同じ、『被害者』なの」
『被害者』。おそらくはそれが、私や灰岡先生のような人間を指す言葉なのだろう。
「『被害者』である私たちは、誰に何をされても、それを認知してもらえない。だから私たちは、誰にも助けを求められない」
「そんな……それじゃ、私たちは殺されそうになっても、誰にも守られないということですか?」
「そういうこと。だけど、それが私たち『被害者』の望み。あなたもそうなんじゃないの?」
「それは……」
否定はできなかった。事実、数時間前に鈴木先生に殴られた時も、微かな気分の高揚を感じたのは事実だ。だけど『自分は普通には生きられない』なんてことをそう簡単に受け入れられるわけでもない。
「灰岡先生は……それでいいんですか? 鈴木先生にそんな傷を負わされて、怖くはなかったんですか?」
「窓崎さんにはまだわからないかもしれないけど、鈴木先生は素晴らしい人よ。私がどんなに泣きわめこうが関係ない。あの人は自分の欲望に素直に生きている。その欲望が私に向いているということがたまらなく嬉しい。だから私は、あの人の欲望を受け止めて、全てを奪われたい」
灰岡先生はうっとりと鈴木先生の素晴らしさを語っているけども、私にはそれはまだ理解できなかった。
「私は……鈴木先生が怖いです。いくら私たちが傷つけられても気づかれない存在だったとしても、自分の欲望をそんなにあっさりとさらけ出すなんておかしいと思います」
「だからこそあの人はすごいの。私はあの人になら殺されてもいいとさえ思ってる。窓崎さん、あなたもいずれわかると思うわ」
「……」
「あなたも素直になればいいと思う。自分の気持ちに素直になって、『被害者』の喜びを受け止めれば、きっとあなたも幸せに生きれるはずよ」
「……私は、今のままでも十分幸せです」
「あらそう? そう言うなら、私も無理にこちらに引き込むつもりはないよ。でもね……」
そして灰岡先生は、いつもの微笑みを消して、私に冷たい視線を向けた。
「私はね、あなたが早めに鈴木先生に殺されてしまえばいいと思ってるんだけどね」
その言葉に今度こそ、私は灰岡先生と鈴木先生に明確な恐怖を抱いた。
「それじゃあね、窓崎さん。あなたが早めに『被害者』として鈴木先生の手にかかるのを期待してるわよ」
灰岡先生はいつもの微笑みを浮かべて、普段の彼女からは想像も出来ない言葉を吐き捨てて部屋を出て行った。