第一話 被害者の転落
数年後。
『法条大学前~、法条大学前~』
駅に到着したことを知らせるアナウンスが、私を現実に戻す。電車を降りると、秋に入ったことを知らせるような微かに肌寒い風が、私の体を震わせた。
電車の中で思い返していた嫌な記憶。小学校の頃、私の大切なお守りが男子に盗まれたというのに、誰も助けてくれなかったという苦い記憶。だけどあのことがあったからこそ、私はここまで努力してこれたのだ。
そう、その努力の結果……私は名門と言われる法条大学の付属高校に進学することが出来た。ここまで私の人生は順調に進んでいる。『他人に頼らずに生きていく』私の人生は順調に進んでいる。
私はあの時思い知った。いざというときには他人は誰も助けてはくれない。なぜかは知らないけど、当時の担任教師でさえ、お守りを盗んだ男子たちの行いを隠蔽した。あの事件まではあの人のことを尊敬していたけど、所詮は自分の受け持つクラスでもめ事を起こしたくない一心で、保身に走る人なのだろうと見限った。
だからあの事件以来、私は出来るだけ他人の手を借りることなく一人で努力してきた。勉強だって塾に通ったり友達や親に聞いたりせずに、自分で勉強法を編み出してきたし、学校での委員会なども、自分ひとりで引っ張ってきたという自負がある。
他人は誰も信用できない。他人は私から何かを奪うだけの存在。そう確信して今まで生きてきた。そしてこれからも、そう生きていくのだろう。唯一信頼できるものと言えば、あの時取り返したお守りだけだ。このお守りは、私が人に頼らない決意を揺るがせないように、制服の内ポケットに入れて常に持ち歩くようにしていた。
自分の生き方を再度確認し、私は駅を出て学校へと向かう。
道行く人の中には、私と同じ制服を着た女子たちもいた。彼女たちは決まって、何人かのグループを形成して、横並びに登校している。その後ろにいたスーツを着た男性が、迷惑そうな顔をしていてもお構いなしだ。
彼女たちは群れを作ることで、自分の優位性を強固なものにしようとしている。仲間外れになることを極端に恐れている。だからあのように、いつも他人と一緒にいるのだ。
くだらない。そんなことをしても、いざという時には結局自分可愛さにお互いを見捨てるのだ。そして大して深くもない信頼関係は、突然終わりを迎えるのだ。それでも彼女たちは一人になることを恐れる。一人では何も出来ないから。
でも私は違う。例え他人が見捨てようとも、私は一人で生きていける。そのための努力。私は何もしていない人たちとは違うんだ。
やがて学校に到着し、下駄箱で上履きに履き替えて教室に向かう。この学校は名門校だけあって歴史は古いけど、私が入学する前に校舎の改築が行われたそうで、建物は割と新しい。白く綺麗な壁は清潔感があり、私は密かにそれが気に入っていた。
私のクラスである一年四組の教室に入ると、話し込んでいたクラスメイトたちが私を見て、一瞬静かになるのがわかった。それと同時に、教室の空気が張り詰めるのを感じる。
その理由はわかっている。私はこのクラスにおいて、周りから距離を取られている存在だからだ。
別に私がいじめを受けているとか、弱い立場というわけではない。だけどクラスメイトの何人かは、確実に私のことを疎ましく思っているだろう。
なぜか? それは私の言葉が他人からしてみれば耳の痛いものだからだ。
クラス委員でもある私は、学校行事や提出物の管理を任されることがある。そして、自分の仕事をきちんとこなさないクラスメイトには、きちんと注意するようにしている。だが、中にはこんなことを言ってくる人がいるのだ。
『自分はそんなに上手くは出来ない。他の人に頼んでくれ』
私はこういうことを言われるのが大嫌いだ。だってそれは、自分一人では何も出来ない子供だと自ら認めて、甘えていることの証拠だからだ。だから私はこう返す。
「言い訳はいいから。きちんと手を動かしなさい」
私がこう言うと、相手は大抵黙る。その沈黙が、さらに私を苛立たせる。黙っていればやり過ごせるとでも思っているのだろうか。
「まただんまり? もっと自分で考えてよ。もう子供じゃないんだから」
私の言っていることが正論だからか、相手は不機嫌そうな顔をする。正論というのは耳が痛いものなのだ。だけど誰かが言う必要があるし、私は嫌われたって一人で生きていける強い人間なんだ。だから私が言ってあげる必要があるんだ。
こういうわけで、私はクラスでは浮いてしまっている。だけど構わない。足を引っ張るだけの能力の低い人間と付き合ったところで、私にメリットなんかない。だから私はこれでいいんだ。
「……それでは、今日はこれで終わります。起立!」
担任の先生が号令した後、挨拶をして一日の授業が全て終わる。だけど学校が終わっても、私にはまだやることがある。一人で生きていくには、いつ何時も努力を怠ってはいけないんだ。
私は学校が終わるとまっすぐ家に帰って、そのまま今日の復習と明日の予習をする。本来は皆も、私と同じように予習復習をするべきなんだ。それだけで授業の理解度も、学力の上がり方も遙かに違う。そして成績が上がれば、将来への選択肢も増える。単純な話だ。
だけも皆はそれをしない。ただ単に、面倒だとか遊びたいとかのくだらない理由で。どうせ遊ぶお金も親から出してもらったものだろう。私も今は両親に養われているわけだから人のことは言えないが、高校を卒業して大学に入学したらすぐにアルバイトを探し、出来る限り学費や生活費も稼ぐ。私はあんな人たちとは違うんだ。
そう考えながら下駄箱で靴を履き替え、昇降口から出た時だった。
「……え?」
私がさっきまでいた校舎には、外階段がある。いわゆる『非常階段』と呼ばれるもので、普段は使われていないし、使う人もいない。しかしその階段の5階部分の踊り場から……
一人の女子生徒が、落下していくのをはっきりと見た。
「……!?」
直後、轟音と共にその女子生徒は下にあった体育用具入れとして使われているプレハブの倉庫に激突した。その身体は激突した後にバウンドし、今度は地面に落下する。
「ちょ、ちょっと!」
一瞬、呆気にとられた私だったが、すぐさま自分のすべき事を考え、地面に倒れている女子生徒に駆け寄っていく。倒れている彼女はその茶色い長い髪に覆われながら、苦しそうに呻いていた。
『よかった、生きてる』。そう思って安堵するも、まだ安心はできない。見たところ出血はないけど、どこか大きなケガをしているかもしれない。
だけど何があったのだろうか。確かに彼女はこの外階段から落ちてきたのだ。一体上で何が……?
「あ……!」
そして私は、確かに見た。
今さっき彼女が落下してきた外階段の踊り場に、とっさに身を隠した人影がいたのを。
「……誰か! 誰かいるの!?」
上に向かって叫んでみるが、当然の事ながら返事はない。当たり前だ、今の人影が彼女を突き落とした犯人だとしたら、既に逃げる準備をしているはず。
だけど犯人を追うわけにもいかない。まだ落下した女子生徒の無事を確認していないし、救急車も呼ばないといけない。
「おいおい、何かあったのか?」
「え? 人が倒れてる!?」
騒ぎを聞きつけて、生徒たちが集まってくる。しかしそのうちの誰も、私たちに近づこうとはしなかった。この非常事態に何もしないとは、本当に他人はアテにならない。
しかしそんなことに呆れている場合じゃない。すぐに私は救急と警察に連絡し、それぞれが到着するのを待った。
……数十分後。
救急車は通報してすぐに到着し、落下した女子生徒を乗せて病院に向かった。幸い、プレハブの小屋がクッションになったおかげか彼女は意識もあり、救急車が到着する頃には救急隊員の人とも会話をしていた。おそらくは無事に助かるだろう。
そして私はというと、通報した警察に事情を聞かれることとなった。
「……つまり、君がその昇降口から出た時、彼女……窓崎さんが外階段から落下したのを見たと言うんだね?」
「はい、その通りです」
既に時刻は午後五時になり、勉強する予定もご破算になったけれども、この非常事態じゃ仕方がない。それに、先ほどの彼女――生徒手帳には高等部二年・窓崎 深窓と書いてあった――を突き落とした犯人を放っておくわけにもいかなかった。
「私、見たんです。窓崎さんが落下した階段に誰かがいたのを。もしかしたらその人が突き落としたのかもしれません」
「うーん……」
私の話を聞いていた、くたびれたスーツを着た刑事さんは困ったように頭をかいた。
「……しかしねえ、おそらくそれはあり得ないんだよね」
「え?」
「いや、君が嘘をついているとは思ってないよ? ただね、我々も既にあの階段を調べているけど、あそこに窓崎さん以外の人間がいたという証拠がないんだよね。階段につづくドアも全て内側からカギがかかっていたし。それに、外階段から逃げたという人影を見た人間が、君以外に誰もいないんだよ」
「でも、そんなのその人がカギを持っていて、校舎の中に逃げてからカギを閉めたのかもしれないじゃないですか!」
「確かに我々も、一応これが『事件』なのかもしれないとは考えたよ? だけど、本人が証言してしまってるんだ」
「え?」
「他ならぬ窓崎さんが、『私は自分で飛び降りた』って言ってるんだよ」
「……!?」
そんなはずはない。いや、例え本当にそうだとしても、私は確かに窓崎さん以外に誰かが外階段にいたのを見たんだ。その人物が未だに名乗り出ないのはおかしいじゃないか。
「でも、私は……!」
「言いたいことはわかるよ。でもね、こっちも可能性の低い仮説に時間をかけられるほど暇じゃないんだ。それに、君の発言で事態が混乱するのは避けたい。だから他の人たちにも何も言わないでくれるかな?」
「ちょっと待ってください! 私は……!」
「捜査へのご協力ありがとうございました。もう帰っていただいても構いませんよ」
抑揚のないトーンでそう言うと、刑事さんは私に背を向けて捜査に戻ってしまった。
まただ、また他人は私の言うことを信じなかった。あの時と同じだ。どういう理由か知らないけど、私はまた一人になった。
わかっていたじゃないか。他人なんて信用できない。だから私は一人で生きていく決心をしていた。それなのに私は、どういうわけか気分の高揚を感じている。
他人に裏切られた。誰も信じてくれない。誰も助けてくれない。そのことが何故か私の心に……
いけない。こんなことは心の内にしまっていたはずだ。こんなことを思い出していてはいけない。
とにかく私は納得できない。誰かが窓崎さんの転落に関わっているのは間違いないはずだ。それなのに窓崎さん本人が嘘をついている。しかもそのことに私以外が気づいていない。
他人は信用できない。自分の身は自分で守らないといけない。
だから私は、窓崎深窓を問い詰める必要があった。