第十六話 被害者の記憶
私はあの時のことを思い出していた。みんなに『悪いやつだ』と言われて、泣きながら帰ってきた、子供の頃のこと。おばあちゃんが心配して、私をなぐさめてくれた時のこと。
「で、でも、わたし……もしかしたら本当に悪い子なのかもしれない……みんなもそう言ってるから……わたし……」
そうだ。その時の私は、みんなに責められて、悪口を言われて、自分のことが信じられなくなっていた。だから自分のことが嫌いになっていた。『悪いやつ』である自分が、嫌いで仕方が無かった。
「貴理緒ちゃん……」
だけどおばあちゃんは、そんな私を抱きしめて、やさしい声で言ったのだ。
「覚えておいて。おばあちゃんはね、貴理緒ちゃんのことが好きだよ。おばあちゃんは貴理緒ちゃんが悪いことをしたら素直に謝れる良い子だって知っているの。だからおばあちゃんはあなたが好き」
おばあちゃんは私の頭を撫でながら、やさしく慰めてくれた。こんな私のことを好きだと言ってくれた。だけどそれでも、私の不安は消えなかった。
「だ、だけど、おばあちゃん。わたしが悪い子になっちゃったらどうするの? それでもおばあちゃんは、わたしのことが好きでいてくれるの?」
「貴理緒ちゃん。一度悪い子になったからって、おばあちゃんはあなたを見捨てたりなんかしないよ。悪い子になっちゃったら、反省してまた良い子になればいいの。みんなそうやって生きてるのよ。ずっと良い子でいれる人なんて少ないんだよ」
「おばあちゃん、わたし……良い子になれるかな?」
「大丈夫だよ。貴理緒ちゃんはまた良い子になれる。だけどね、おばあちゃんはこう思うの」
おばあちゃんは私の体を抱えて、視線を合わせた。泣いていたからグチャグチャになった顔を見られるのは恥ずかしかったけれども、目を逸らそうとは思わなかった。
「おばあちゃんはね、貴理緒ちゃんに自分を好きでいてほしいな。だって、自分を嫌いなまま生きているのは、とても辛いことだと思うから。いつまでも、苦しいままで、終わりが見えないから」
そうだ、おばあちゃんはあの時、そう言ったんだ。どうして今まで忘れていたんだろう。どうしてこんな大切なことを、覚えていなかったんだろう。
「そうだ、貴理緒ちゃん。いいものあげようか」
「いいもの?」
「そう、とってもいいもの」
そう言って、おばあちゃんは戸棚から何かを取り出した。
「これはね、昔おばあちゃんがおじいちゃんにもらった、お守りなんだよ。一番好きな人が、少しでも幸せに生きられるようにって、くれたものなんだ」
「一番、好きな人?」
「そう、一番好きな人。おばあちゃんはおじいちゃんとこのお守りに十分幸せにしてもらったから、今度は貴理緒ちゃんの番。おばあちゃんが一番好きな人が、幸せに生きられますように……そういうこと」
「でも、わたしがそれをもらっちゃっていいの?」
「おばあちゃんは貴理緒ちゃんに幸せになってもらいたいんだよ。このお守りを見たら、今日のことを思い出して、自分のことを許してあげなさい。そうすれば、少しだけでも幸せになるから」
私はおばあちゃんからお守りを受け取る。私の手には少し大きくて、それにちょっと変な感触だったけど、私にはそれがなぜか心地よかった。
「……ありがとう、おばあちゃん」
「はい、どういたしまして」
その日から二ヶ月後、おばあちゃんは旅立ってしまった。だけど私はそのお守りをおばあちゃんの形見として大切に持っていたし、そのお守りが盗まれた時は必死に探した。
だけどいつからだろう。そのお守りに込めた思いが、おばあちゃんの願いとは違うものになってしまったのは……
我に返った私は、手にした木刀を取り落とす。乾いた音を立てて地面に落ちた木刀は、同じく地面に落ちていたお守りには当たらなかった。
「白影さん……?」
加藤くんが不思議そうな顔で私を見る。その手はもう震えてはいない。北里くんも私を怪訝な顔をして見つめている。
私は周りを見る。大月が地面に倒れて呻いている。加藤くんが足の痛みを堪えながらこちらを見ている。
そうだ、これはすべて私がやったことなんだ。私が、自分の目的のために他人を傷つけたんだ。
「何をやっているの? 私は……?」
思わず口に出して呟いてしまう。自分のやったことを改めて思い返してみると、そう言わずにはいられなかった。
私はずっと自分が嫌いだった。他人に頼らず、きつい言い方をしてしまう自分が。本当は誰かに叩きのめされたいと思っている自分が。ずっと嫌いだった。
だけど私は、そんな自分を終わらす時に、他人の手を借りようとしていた。加藤くんに手を汚させて、自分で命を絶とうともしなかった。それは……
『他人に頼らずに生きる』という、私の理想とはほど遠かった。
「私は、私は……」
本当は、どうしたかったのだろう。確かに私は、加藤くんに全てを『搾取』されたかった。純粋に、そうだと思っていた。だけど本当のところはどうなのだろう。ただ、自分を嫌いなまま生きたくなかっただけなのかもしれない。
「どうなされたのですか? 白影さん」
窓崎さんが声をかける。彼女の微笑みは、やっぱり私の嫌いな表情だ。
「加藤さんはまだあなたを狙っています。さあ、『被害者』として、全てを『搾取』されようではありませんか」
窓崎さんはうっとりと語っているけど、今の私にはその欲望がどうにも胡散臭かった。
「窓崎さん……」
「はい?」
「私も確かにそう思う。加藤くんに蹂躙されるのは、きっと気分が良いんでしょう。今でもそう思う。だけど、加藤くん本人はそれを望んでいなかった。加藤くんは、私を殺したいと思う自分が嫌いだった」
そして私は、改めて告白する。
「私を殺せば、加藤くんは自分を許せなくなる。私が好きになった人に、自分を嫌いなまま生きて欲しくない」
その告白を聞いた加藤くんは、顔を赤くしながら目を丸くした。
「あ、ああ……」
加藤くんは両目から涙を流し、嗚咽しながら顔を俯かせる。そしてその後、小さく呟いた。
「……北里。もう俺を放しても大丈夫だ」
「え?」
「俺はもう、白影さんを殺そうとは思わない。こんな人を、殺せるわけがない」
「……」
加藤くんの意図を悟った北里くんは、ゆっくりと彼を放した。地面にうずくまった加藤くんは、宣言通りその場から動こうとはしない。
「やっと二人とも正気に戻りやがったか。全く、世話の焼けるヤツらだな」
悪態をつきながらも、北里くんの顔は安堵していた。加藤くんの背中をさすりながら、彼を心配そうにのぞき込んでいる。
私たちは、結局どうしたかったのだろうか。加藤くんも、私も、自分の理想と欲望に板挟みになっていた。確かに欲望のままに生きるのも正解だったのかもしれない。だけど……
自分のことを嫌いだという理由だけで、人生に見切りをつけるのはまだ早いのかもしれない。そう思った。
「……どうしてですか?」
だけど安堵した雰囲気を切り裂くように、窓崎さんの小さくか細い声がその場に確かに響いた。
「どういうことですか、白影さん? ここまで来て、ご自分にウソをつかれるのですか?」
「そうじゃないよ、窓崎さん。私は自分にウソはついていない。今でも加藤くんが私を蹂躙してくれたらいいなとは思う。だけど、私の身勝手で彼を不幸にしたくはないし、『他人に頼りたくない』と思っている私も私なの。だから私は自分にウソはついていない」
「そんなはずはありません!!」
窓崎さんは珍しく大声を張り上げて、怒りを露わにした。
「あなたも私と同じのはずです! 私と同じ、『搾取』されることを望む『被害者』のはずなのです! 折角、私たちが求め続けた『犯人』が目の前にいるのですよ!? 私たちは彼に殺されて、その命を終えることが喜びなのです!」
「確かにそうかもしれない。だけど窓崎さん、あなたに聞きたいことがあるの」
「え……?」
そう、これは『被害者』という存在の根幹に関わる疑問。
「あなたは本当にただ、『搾取』されたいだけなの? それとも、自分が嫌いだからそう思い込んでいるだけ?」
「……っ!?」
「もし自分が嫌いなだけだったら、自分を好きになってからでも殺されるのは遅くない。そうじゃない?」
窓崎さんは言葉を詰まらせ、目を泳がせながら口を閉じる。
……もしかしたら、私は彼女の核心部分に触れているのかもしれない。彼女がなぜ自分を嫌いなのか、それはまだわからないけど。
「……わかりました、白影さん。どうやら私の見込み違いだったようですね」
「……」
「私はあなたを『被害者』とは認めません。『被害者の会』からも出て行ってもらいましょう」
「……そうするわ。元々、入る気はなかったわけだし」
窓崎さんは私の言葉に一瞬顔をしかめながらも、それ以上は何も言わずに、私たちに背を向けて立ち去っていった。
「窓崎……」
北里くんはそんな窓崎さんを寂しそうな目で見つめていたが、さすがに彼も体力の限界なのか、その場に座り込んでしまった。
「……ったく。今日は散々だぜ。いろんなことが起きすぎだ」
「北里……本当に、すまなかった」
「ああ? 謝るならもっと他にいるだろ? 窓崎とか、桁枝とか……ああ、でもとりあえずはよ」
「え?」
「お前が好きな人に、ちゃんと伝えてやれよ」
北里くんに促されて、加藤くんは私を見る。そして彼は、一呼吸をおいて、両手を広げた。そんな彼を見た私は、思わず抱きついてしまった。
「加藤くん……」
「白影さん……俺は、俺は……」
「うん」
「君のことが、好きです」
「……ありがとう」
彼の告白を聞いた私は、久しぶりに笑った気がする。おそらくその笑顔は、いつか彼の前で笑ったときと同じなのだろう。
北里くんは言った。『今日はいろんなことが起きすぎた』と。
だけど同時に、ある事実がある。
今夜、加藤岳人が『犯人』で、白影貴理緒が『被害者』となる『事件』は起きることはなかった。