第十二話 被害者の魅力
俺には子供の頃からつきまとってくるヤツがいる。そいつは現実に存在する人間というわけではなく、俺の想像の産物だ。だけど俺はそいつから片時も逃れられなかったし、今こうしている間もそいつは俺に命令してくる。
『好きなものをメチャクチャに壊してやれ』
わかっている。俺に命令してくるそいつは、俺に取り憑いているとかそういう存在ではない。俺自身の、腐りきった欲望だということはわかっている。それでも俺は自分がそういう人間だと認めたくなかった。好きになったものを壊したいという欲望を持った人間だと思いたくなかった。
だから俺は――加藤岳人は、その欲望に『犯人』という名前を付けて、自分は清い人間なのだと思いこもうとしていた。
『犯人』はいつも俺に話しかけてくる。『こいつを殺したらどんなに気分がいいだろうな?』『こいつの人生をここで終わらせたら、こいつはずっとお前の物だぞ』という言葉を投げかけてくる。
そして『犯人』が壊したいと願う対象は、いつだって俺の嫌いな人間ではなく、好きな人間だった。幼稚園の頃の優しい先生だったり、小学校の頃に隣のクラスだった女の子だったり、中学の頃に俺の悩みを聞いてくれた女の先輩だったりと、いつも俺が好意を抱いていた人間だった。
俺はそんな自分が嫌いだった。自分に良くしてくれている人に対して、身勝手な欲望を抱く自分が大嫌いで、『犯人』が俺に欲望を囁いてくる度に、罪悪感を抱いていた。だけど俺は高校に入学するまで何とか『犯人』を抑え込み、表向きは普通に生活することが出来ていた。
だけど俺は入学した法条大学付属高校で、彼女に出会ってしまった。そう、俺が今までの人生で最も好きになった人、白影貴理緒だ。
入学してから一ヶ月も経たないうちに、白影さんはクラスから浮いた存在になっていた。だけど彼女はそんなことをまるで意に介した様子も見せず、むしろ自分の意見を論理的に言えるその姿勢が俺には眩しく見えた。
白影さんはキツいことを言っているようにも聞こえるが、実際はそうではないと俺は思っていた。彼女の意見がキツく聞こえるのは、相手が意図的に手を抜いていたりするのを指摘しているからであり、理由もなく相手を攻撃するためのものではないと感じていた。俺はそんな彼女に憧れていた。自分を律して、他人を導ける強い人間になりたいと思っていた。
だけど現実の俺は、自分の中にある薄汚い欲望を抑えることすら出来ない弱い人間だった。そんな自分と決別したくて、俺は白影さんに近づこうと、積極的にクラス委員の仕事を手伝ったりした。白影さんと近い関係になりたかった。
白影さんは俺に対しても厳しい態度を取っていたけど、それは俺が嫌いとかそういうわけではないのはなんとなくわかっていた。上手く言葉に出来ないけど、彼女は周りの人間に対して意図的に壁を作っている。おそらくは俺も壁を作って距離を取りたい相手なのだろう。
俺はなんとかして彼女との間にある壁を壊したかった。白影さんに憧れているということを伝えたかった。
だけど俺の中にいる『犯人』は、ある日こんなことを囁いてきた。
『あいつは殺しても大丈夫な人間だ』
何を言っているのかわからなかったけど、俺は『犯人』からその言葉を投げかけられてから、ますます白影さんのことが気になっていった。だけどその感情は、今までのものと少し違った。言ってしまえば、恋愛感情のようなものだった。
だけど俺はその時気づいてしまった。白影さんを好きになったことで、俺の中の『犯人』が歓喜の声を上げていることに。『好きになったものを壊したい』。俺の中に巣くう薄汚い欲望は一番失いたくない人にまで向いてしまったのだ。
それを自覚した瞬間、俺の頭の中には白影さんをどう殺すかという妄想が次々と浮かんでしまった。実に不思議なことに、白影さんを殺した後、自分がどういう罰を受けるかという考えは全く浮かんでこなかった。彼女を殺しても、自分は何の罰も受けないという確信に近い予感が俺の中に事実として食い込んでいたのだ。
だけど罰を受けるとか受けないの問題じゃない。人を殺すなんてとんでもないことだ。そんなことは誰だってわかっている。だけど俺は既に白影さんをどう殺すかしか考えられないバケモノになりつつあった。自分の理性が欲望に食い尽くされていくのが怖い。
でも気が付いたときには、俺の欲望は既に抑えきれないところまで膨れ上がっていた。そう、俺はあの日、白影さんの机に『外階段の踊り場に来てください』という内容の手紙を入れてしまったのだ。
こんな怪しい手紙の呼び出しに応じる人間なんていない。そう思っていたから、俺は白影さんが踊り場に来ないことを望んでいた。もし彼女が来てしまったら、俺は本当に自分の欲望に食い尽くされて白影さんを殺してしまうかもしれない。そしてそのことを自分が望んでしまうかもしれない。
俺はそこに誰もいないことを確認するために、授業が終わってから踊り場に向かった。そうやって自分に言い訳をしてしまうほどに、俺は欲望に食い尽くされていた。
誰もいないでくれ、頼む。そう願いながら踊り場に到着した俺の目に映ったのは、一人の女子生徒だった。茶色い長い髪に、大人しそうな印象を受けるその人には見覚えがあった。確か北里と付き合っていたという先輩、窓崎深窓さんだ。
なんでこの人がここに? そう思ったけど、とりあえず白影さんはいなかった。そのことさえ確認すればもう大丈夫だ。だけど俺の中の『犯人』は、俺がそこを離れることを許さなかった。
『こいつも殺しても大丈夫な人間だぞ』
そう囁かれた瞬間、俺は窓崎さんに白影さんと似たものを感じてしまった。全くタイプが違うのに、俺は窓崎さんと白影さんを同種の人間だと確信してしまった。
どうしてかはわからない。だけど俺には窓崎さんのことがとても魅力的な人間に思えた。外見が綺麗とかそういうことではなく、『私を壊してみなさい』という誘惑をしているように感じられた。
ダメだ。俺はその誘惑に逆らえない。この人を壊してみたい。この人の壊れた姿が見たい。でもそんなことをしたら、この人は死んでしまう。この人の人生が、俺の身勝手で終わってしまう。
『いいじゃないか。こいつの人生が終わっても、俺の人生は終わらない』
そういう問題じゃない。だけど窓崎さんはまだこちらに気づいていない。今なら気づかれずに彼女をここから突き落とせる。ダメだ、そんなことをしたら……
『大丈夫だ。誰も俺を責めはしない』
そう囁かれた瞬間、俺の顔から感情が消えたような気がした。そして決められた動作をするように、まるで緊張することもなく、窓崎さんの体を持ち上げて踊り場から突き落としていた。
そしてその直後、彼女は下にあったプレハブの小屋に激突していた。
窓崎さんが落下した音を聞き、俺は彼女がどうなったかを確かめた。どうやらプレハブの小屋がクッションになったおかげで、大けがはしていなさそうだった。
だけど俺は彼女が死ななかったことよりも、自分のしたことに大きな喜びを感じていた。長いこと解けなかった難しい問題を解いた時や、スポーツで難しい技を決めた時の高揚感に似たものがわき上がっていた。
すごい、すごい。一人の人間を殺そうとするのがこんなに気分がいいのか。今回は殺し損ねたけど、もし窓崎深窓が本当に死んでいたら、もっと気持ちよくなるのか。さっきまで無表情だったはずの俺の顔が歪んでいくのがわかる。一人の人間を殺す。その人間から全てを搾取する。それがこんなに気分のいいことだとは思わなかった。
俺は改めて下を見る。人が集まってきたが、誰も俺がやったとは気づいていない。それどころか、上を見上げようともしない。やはり俺が感じた予感は合っていたのだ。窓崎さんを殺しても、誰も俺を責めることはない。そう、思っていた。
「誰か、誰かいるの!?」
窓崎さんに駆け寄っていた、俺が一番好きになった人が上を見上げるまでは。
俺はとっさに身を隠したが、間違いなく白影さんは俺の姿を見ていた。
なぜ? どうして? どうしてよりによって彼女だけが気づいたんだ? 俺の最も見られたくない面を、どうして白影さんだけが気づいてしまったんだ?
このままではまずい。俺は急いで踊り場にあった扉から校舎に入って内側から鍵をかけ、ひとまず教室に戻った。だけど俺の中の焦りは消えなかった。
なんてことだ。白影さんは俺が窓崎さんを殺そうとしたところを見た。あの様子だと、俺の姿をはっきり見たわけではないだろうが、もし彼女が俺の犯行に気づいたらどうなる?
決まっている。俺のことを殺人犯だとして、軽蔑するだろう。
その考えにたどり着いた時、俺の心に強烈な罪悪感と恐怖が迫ってきた。自分のしたことの大きさを今頃になって実感した。
どうしよう、どうしよう。おそらく白影さん以外には俺が『犯人』だとはバレていない。なぜかはわからないけど、俺にはその確信がある。だけど肝心の白影さんだけには知られたくなかった。俺が汚れた人間だと思われたくなかった。
どうしてだろう、どうして俺はこんなにも弱い人間なのだろう。俺は白影さんみたいに強くなりたかった。自分を律する人間になりたかった。だけどもう手遅れだ。俺の両手は既に汚れきっている。
『だったらもう、やることはひとつだろう?』
「え……?」
俺の中の『犯人』が再び囁いている。いや違う、俺はもう『犯人』なんだ。これは俺自身の声だ。
『白影貴理緒はお前の犯行に気づいた。だったら口を封じないとな?』
そう、これで口実が出来てしまったのだ。白影さんが俺を『犯人』だと知っているのなら、俺には動機が出来てしまう。
だから俺はもう、自分の欲望が抑えきれない。『犯人』であることを、抑えきれない。
そしてこの時俺は……
『白影貴理緒を、殺してしまえ』
正真正銘、『犯人』となり果てた。
しかし俺が『犯人』となっても、白影さんへの好意は変わらなかった。俺はどうあっても彼女に憧れていたし、『被害者』ではなく、一人の人間として彼女が好きだった。だからまだ、白影さんを殺したくないという気持ちは確かに俺の心の中にあったのだ。 だけど俺は白影さんが窓崎さんの事件を調べていることを知ってしまった。そしてあの時、声をかけてしまったのだ。
「あのさ……俺も今から帰るんだけど、一緒に駅まで帰らない?」
白影さんと一緒に帰る。彼女と二人きりになる。こんなことをすれば、自分がどんな行動を起こすかなんてことは、わかっていた。だけど俺は自分を止めることが出来なかった。
白影さんと駅まで一緒に歩いている間、俺たちは全く会話を交わさなかった。俺は彼女を見て、その命をどうやって『搾取』するかという妄想に取り付かれていたのだ。
俺は気を紛らわせようと、彼女に声をかけた。
「あのさ、白影さん、何かあったの?」
「え?」
「いや、実は俺、心配だったんだ。白影さんが最近ちょっとおかしかったから……」
「そ、そうかな?」
自分の口から出た、探るような言葉に嫌悪感を抱く。本当に俺は『犯人』となってしまったのだ。
俺が窓崎さんのことについて聞いてみると、彼女はなぜかお礼を言ってくれた。
「ありがとう、加藤くん」
そして彼女は、俺が知る限り初めて笑顔を浮かべた。
その顔は明るくて、俺の心を温めて、そして……
『こいつの笑顔を崩したら、どんな顔になるだろうな?』
俺の汚れた欲望を、照らし出した。
ダメだ、もうダメだ。このままでは俺は本当に白影さんを殺してしまう。その証拠に、俺は彼女との繋がりを持つために、連絡先まで渡してしまった。
どうする? どうすればいい? どうにかして俺から白影さんを遠ざけないと。
だから俺には、協力者が必要だった。
「北里、ここにいたのか」
そして俺は……友達である北里に全てを話すことにした。