8 ナイフ
8
帰り道で、深尾さんを送っていく最中に、黒いジャンパー着た奴が現れた。
目の前を塞いできたのだ。パッと見で、若いということはわかり、高校生とか
大学生ぐらいだろうと思った。深尾さんの知り合いなのかな、と一瞬思ったけ
ど、手にまがまがしいナイフを持っていたので、一発でわかった。分かりやす
すぎた。こいつが深尾さんにストーカーしていた奴なのだろう。
バタフライナイフなど鋭利な刃物類の販売が有害玩具として制約がかかるよ
うになっているが、誰でも包丁を変える時代なのである――。
でも、正直脳内偏差値が低すぎやしないか、と思った。どうしてこんなこ
とをしなくちゃいけないのか、と。
家々と塀に囲まれた人気のない道で――。
建設予定と書かれた掲示板が雑草の中に傾いて立っているのが見えた・・。
「おい、三枝・・・」
「おお、何だ、このバカヤロウ。」
深尾さんを後ろにして、いつでも逃げ出せるようにと目配せする。そうい
えば、このへん自動販売機がないな、と、どうでもいいことを思う。
「け、警察呼ばなきゃ・・」と、深尾さんが動転した声で言う。
目の前の影がビクッとする。さすがに警察沙汰はごめんだろう。
しかし、俺は制するように言った。
「それは駄目だ。」
まがりなりにも高校生である、説得が可能ならそうしたい。いくらなんでも
恋をして、ストーカー被害して、ナイフを持ち出して、警察に捕まるなんて愚
かすぎる。最低そんなの俺は望んでいない。反抗のためでもおどすためでもな
く素直にそう言いたかった。
宙で固定されているナイフの軌道は何処へゆくのだろう、と思った。
そうだ、一発で退学。こいつの人生はめちゃくちゃである。そしてそれを、
深尾さんは望むだろうか。是が非でも何とかしたい、と思う。
相手がもし高校生ではないのなら、別に構わなかったけど・・。
「ナイフを下ろせ、話ならちゃんと聞いてやる。」
「・・・命令するな!」
相当興奮しているようだった。俺は伝わらないかも知れないと思いながら言っ
た。それでも、説得したい。警察沙汰にはしたくない。担任教師の談話、少年の
友人談、新聞や週刊誌のつまらない記事にされ、家庭裁判所。少年院。
後日談的な記事が何行か、新聞の片隅にのるか、いや、のらないだろう――。
人生って、そんな履歴書みたいに軽いのか、と言いたかった。
「いいか、こんなことをしても深尾さんは振り向かない。むしろ、余計に嫌わ
れる。どうしてナイフを持ってこんなことをするぐらいだったら、きちんと、
深尾さんに告白をしなかった。」
牡蠣のように固くなった絵の具をバリバリとパレットの上で引掻いているみた
いに、俺はこいつと一緒だったんだな、と思った。
そんな自分を後悔していた―――。
「うるさい。」
猪突猛進に突っ込んでくる。よけようと思えばよけれたけど、よけなかった。
切っ先が触れて筋肉がショックで縮む。刃先が前へ進まないのを、強引に押し込
んでくる。腹直筋、毛細血管、神経。指が震えている。抵抗が、少なくなってい
く。血が出る。徐々に拡がってゆく。相手の鋭い顎が見える。奥歯がガタガタ噛
み合っていない。人の温かな肉を切り裂く感触は恐ろしいものだ、と思った。ナ
イフが外に引き出されるのと同時に、刃先から血がぬらりとしてこぼれる。目は
見開かれている。キャア、と深尾さんの甲高い悲鳴が聞こえた。長いまつげが合
歓の木の葉のようにゆっくりと美しく伏せられているのを見た。俺は、腹に刺さ
ったナイフがあった場所をおさえながら、呼吸とともに上下しているのを見つめ
る。目の前の彼は、ナイフを握り締めた手をガタガタいわせている。
ドッ、と勢いよく息を吐き出した。
目の前の男のガクガクした足を見つめながら、冷静だ――。
「これで・・・お前の気は済んだか?」と俺は痛みを堪えながら、言った。
彼の顔が変わり、膝をついて、泣き始める。
頭の中がようやく真っ白になった、という感じだ。
強烈な印象の人を刺すという行為、刺殺・・。
「深尾さん、この話・・俺が預かってもいいかな――」
深尾さんが、ぼろぼろ涙をこぼしながら、ごめんねごめんねと言っている。
別にお前が謝ることじゃない、と思う。よけれたのによけなかったんだ。
自虐的だってわかってる。でも、こいつの気持ちを受け止めてみたいと思
った。どうしてだろう、いや多分、よくわからない・・。
俺は目の前の彼の肩にやさしく手を置く。
「大丈夫、警察沙汰にはしない。病院代は出してもらうかもしれないけど、
ナイフ持ってふざけて遊んでたってことにしようぜ。なっ。」
「・・・すみません。きっとこの、お返しは必ずします。」
いや、そんなのいいよ、と言った。
「おっと、名前は?」
「長谷川です。」
「長谷川、今度遊びに行こうぜ、こんなことをお前はしたかもしれないけ
ど、楽しいこといっぱいあるからさ。」
俺はとりあえず、救急車を呼んでもらうことにし、長谷川という彼を家に
帰した。帰り道気をつけろよ、とも言った。終始深尾さんは何か言いたそう
な顔をしてたけど、俺はそんな風に接した。思いつめる時があるんだって。
長谷川という彼が行ってしまうと、深尾さんは、あたしが下駄箱に馬鹿な手
紙を送って挑発したから、と言った。
あ、ようやくわかってくれた、と笑った。
額に落ちた細い前髪が彼女の動作にあわせて柔らかく揺れる。
プリクラなんかでわざと変顔するみたいな、深尾さんの表情。面白い。
「・・・なんでこんな時に――笑ってるんですか・・」
「いやでも、まあ、恋のいい経験になったね。」と、俺は言った。
「――なんでこんな時に、そんなことを言うんですか」
「だって、俺のこと、好きじゃないんだろう?」
「好きですよ、ずっと!」
あ、ちょっと待て、なんか根本的に勘違いがあったような気がする。
じゃあどうして俺刺されたんだ、それがよくわからなかった・・。
胸をぼこぼこ、叩かれる。こんなの、全然望んでないのに・・。
気持ちはわかる、だから、やめて、本当に痛いから――。
痛いって言ってんだろ、このアマああああああーっ!
「このお返しは、ディズニーランドで返してもらいます、ユニバーサルス
タジオジャパンで返してもらいます。」
「それは勘弁して、小遣いは、絵の費用で百パーセント消えるんだ・・」
「絵を売ってでも、行かせてもらいますよ。」
そう言ってから、胸倉を掴んで、唇を寄せてキスをされた。
あと一、二秒の内には、何が起こったのかわかる、俺の茫然とした顔。
セロテープで、真空密封――。
ぺロリ、と、唇を舐めて、いたずらっぽく笑ってみせる深尾さん。
しまった、眼を閉じるとか、味わうとか、全然できなかった。ファースト
キスだったのに、しかも相手が、超美少女だったのに、しまった、と思った。
いとおしくてたまらない相手としたいと決めてたのに、貴様なんてことをし
てくれる、猫にも犬にもさわらせなかった唇に、唇で触れるなんて破廉恥な、
ファーストキスを奪った罪は、永久に消えないんだぞ、と、馬鹿なことを叫
びたかった。瞳が大きく見開かれたが、やがて、瞼はゆっくりと閉じられる。
これから先幾度も繰り返され経験する行為・・。
でも、なんてことを深尾さんはしてしまったのだろう、人喰いザメの水槽に
転落すればいいのに、ジャスティス・フォーエバー!
もっと言いたい、空から蛙とか飛蝗がいっぱい落ちてくればいいのに、イエ
ース、ジャスティス・フォーエバー!
でも最終的には、相手が美少女でよかったべさな、と訛る。何故か、訛る。
嬉しかった。刺されてみるもんだな、とアホなことを正直言って思った。
「・・・絶対ですよ。」