参
泣かないで、泣かないで。
この声は、前にも聞いたような気がする。
私は泣いてなんかいないのに。
旅行が出来ないのは残念だけど、泣くほどのことじゃないでしょう?
泣かないで、泣かないで。
だから、泣いていないって。
この人は、どうして私が泣いてると思っているの?
泣かないで、泣かないで。
「だから、泣いてないってば!」
ピピピピッ、と電子音がする。
飛び上がった美琴は、手を伸ばして目覚まし時計を止めた。
「うっわ、寝言いいながら起きるとか…」
ないわ、と両手で顔を覆った。
それにしても、奇妙な夢だった。
誰かがしつこく、泣くなと言っていた。
最初は心配してくれてるのかと穏やかだった気持ちも、あれだけしつこくされれば苛つくというものだ。
ぼさぼさの髪の毛を手で掻いて、ふわりと大きく欠伸をした。
夢は夢。
すぐに忘れよう、と美琴は洗面所に向かう。
今日は休みだというのに、寝覚めが悪い。
きゅい、と音を立てて蛇口をひねる。
目の前の鏡を見て、自分の酷い顔に辟易とした。
さっさと身支度を整えるために、冷たい水で顔を洗う。
「美琴、早起きじゃん。顔洗いたいから、早くどいてくんない?」
おはようも無しに、随分とご挨拶なものだ。
美琴は顔の水気を振り払い、鏡越しに悠斗を睨む。
その瞬間、恐怖に立ち竦み、全身が凍りついた。
血みどろの顔、剥がれた皮膚、ばっくりと割れた頭。
「ひっ…!」
思わず悲鳴を上げる。
錆びついた鉄のような匂いに吐き気を催す。
慌てて振り返れば、そこにはいつもと変わらない悠斗の姿。
皮膚も滑らかで、もちろん、頭は割れてなどいなかった。
「なんだよ?」
もう一度、鏡を見る。
今度は普通の悠斗の姿があった。
「な、なんでもない」
タオルで顔を拭いて、急いでその場を離れる。
再度、振り返ってみるが、やはり、そこにはいつも通りの元気な悠斗の姿があるだけだった。
「変な夢見たからかな」
軽く頭を振って、着替えに向かう。
寝ぼけていただけなのだ。
幽霊ものの映画や番組を見た時、髪を洗うのがなんとなく怖くなるのと一緒。
単なる見間違い。
気にすることはない。
◆
「そういえば、神社のおじいちゃん亡くなったって」
「えっ」
衝撃的な話に、朝ごはんの納豆を混ぜていた手が止まる。
「どうして」
「もう年だったって。お通夜、今日みたいだから、制服用意しといてね」
「わかった」
別に、神社のおじいちゃんと特別親しいわけではなかった。
それこそ、初詣や七五三の時にちょっと話した程度だ。
神社の近くに住んでるから、神社のおじいちゃんと呼んでいたけれど、特別神社と関わりのある人でも無かった。
それでも、身近な人の死は少なからず美琴に衝撃を与えた。
「そっか、おじいちゃん、死んじゃったんだ」
「あの神社も面倒見る人がいなくなって大変だな」
「そうねぇ。あ、お通夜は、そこの会館でやるみたいだから」
小さく頷く。
そこの会館、というのはこの近所の人が使う集会所のことだ。
小学校の子供会で使うこともある場所。
「用意しとく」
美琴は納豆を混ぜる手を再び動かし始めた。