壱
泣かないで、泣かないで。
どこか遠くから、声が聞こえる。
耳に届くのではなく、頭の中に直接響くのだ。
少年のような、少女のような、男性のような、女性のような。
曖昧ではっきりとしない声音だったが、それでも恐怖は抱かなかった。
泣かないで、泣かないで。
涙の一雫さえ、頰には流れていない。
悲しいことなど何一つ無ければ、悔しさに歯噛みすることも無い。
誰かが囁く言葉の意味が、まるで分からなかった。
◆
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神様の 細道じゃ
高らかに鳴り響く電子音に、美琴はハッとして顔を上げた。
目の前には、横断歩道。
聞き慣れた古いわらべ歌の旋律が、早く渡れと急かしてくる。
赤色を示していた信号は、いつの間にか青色に変わっていた。
そそくさと歩みを進める人々に紛れて、美琴もまた一歩踏み出す。
右肩からずり下がった鞄を持ち直し、夕飯は何だろうかと取り留めのないことを考えた。
田舎とも、都会ともつかない、見慣れた風景。
異様に背の高い建物は一切無い。
普通の家よりも頭ひとつ分ほど抜け出たビルが少し目立つ程度。
煤けた壁には亀裂が入り、ともすれば蔦が這っている。
信号があるのが不思議なくらいだと、美琴はいつも思っていた。
それも、わらべ歌つき。
登校するときは、朝早いせいか、旋律は流れない。
大方、近くの住民への騒音配慮だろう。
下校の際にこの旋律を聞くと、家に帰るのだという実感が沸いてくる。
横断舗道を渡って、しばらく歩道のない道を進むと、緑が目につく。
丁度この時期は、大根や白菜などの野菜が畑に植わっているのが良く見えた。
ところどころに雑草が生い茂り、畑の間にはあぜ道が続いている。
このあぜ道を奥へと進み山道を登れば、幼い頃に何度か行ったことのある小さな神社があったはずだ。
ここらを無邪気に駆け回ったことを懐かしくさえ感じる。
いつもと何一つ変わらない景色だ、と美琴は他人事のように、ふと思った。
美琴自身は都会に行ったことも無ければ、地元から離れた場所に行った記憶もない。
それこそ、物心もつかないような幼い時にしか旅行などしていなかったはずだ。
今年のお正月は家族旅行でも出来ないか、提案してみよう。
「ただいま」
がらがら、と軋んだ音を立てて木の引き戸を開く。
立て付けが悪くなってきたせいか、滑りが悪い。
「おかえりなさい」
「今日の夕飯なに?」
「肉団子よ」
「よっしゃ!俺、美琴より数多くしてー!」
大きな音を立てながら、弟の悠斗が2階から降りてくる。
中学生になって久しいというのに、肉団子の多さで張り合うなど、まだまだ子どもっぽさが抜けない。
「おかーさん!私の方を多くして!」
そういう美琴も、悠斗とはいい勝負なのだが。