音の色
教室に一人の少年が入って来る。
クラスメート達は視線だけその少年を見て、再び手元の端末を見つめる。
入って来た少年も自席に着くと周りの生徒と同じように手の平サイズの端末を取り出し、画面を見つめる。
すると『チャット申請』という文字と黒川武という名前が画面に表示されていた。
その下には許可と拒否と書かれた文字が書かれており、少年は画面に触れることもなく許可という文字を選択する。
すると画面には縦長のテキストエリアが表示され、少年はそのまま画面を見つめる。
『おはよう』
そう黒川武からメッセージが送られて来た。
『おはよう』
それに答えるように少年もメッセージを送る。
だが、少年は特に端末に触れることなく、メッセージを送っていた。
それは少年の頭の中に浮かんだ言葉を文字にしているのだから当然である。
少年の送ったメッセージの横に竹内光と少年の名前が表示されていた。
『今日の授業は国語だってさ』
『あれ、今日は数学じゃなかったの?』
『国語の森先生がお休みなんだって』
『なるほど』
そう答えたあと、光は端末から視線を外し、教室を見渡す。
ここにいる生徒全員が端末を見つめ、無表情で会話をしている。
見慣れた景色だけど、少し物足りないと感じてしまうのはなぜだろう。
そう思ってしまうのだった。
授業が始まる少し前に一人の少年が教室へと入って来た。
「おはよー」
気怠そうにそう発せられた挨拶に誰も答えようとしなかった。
声を使ったコミュニケーションなんて前時代的な行動を取っているのは、上原翔太だけだろう。
コミュニケーション用端末は一人一人に配られているので、翔太も例外なく受け取っているはずである。
だけど翔太は、端末を使ったコミュニケーションを取ろうとしない。
翔太以外の生徒は端末を使って会話しているため、彼とコミュニケーションを取る人は当然いなかった。
誰とも話せなくても彼は声によるコミュニケーションを取ることを止めなかった。
だから翔太はこうして浮いてしまっている。
授業開始のベルが鳴るのと同時に、教室に設置されている大きなスクリーンに『授業開始』という文字が表示されていた。
声によるコミュニケーションを取らなくなったので、耳を使う機会も減り、聴力が低下してしまった生徒も多い。
その対策として、聴力向上のための音楽を聴く授業も設けられているが、それでも聞こえなくなる生徒も多かった。
その為、視覚だけでも授業が出来るようにスクリーンには字幕が表示されている。
「耳が聞こえない障害者は、そういう学校に行けばいいのに」
そう汚い言葉が聞こえた。
翔太が発した声だった。
端末での会話なら間違いなく規制が入って表示されなくなるような言葉も、翔太は平気で発する。
だから光はそんな翔太のことが嫌いだった。
たぶん、この翔太を除いたクラスにいる全員が嫌いだろう。
それでも彼はへらへらと笑いながら汚い言葉を発し続ける。
自分の耳も聞こえなくなればいいのに、と光は思うのだった。
『今日の校外学習では二人一組で行動してもらいます。相手はこちらで自動的に決めさせて頂きました』
そう各人の端末と移動中のバスに設置されたスクリーンに表示されていた。
引率の先生が送ったメッセージである。
視力低下の対策として、月に一度自然保護区に行く。
そこで自然のモノを目に移すことで、視力低下を防げるとのことだった。
それに疑いを持った光だったが、該当する論文を見つけたとき、納得した。
正しい理由と情報元があるのなら従う。
それ以上調べたり、考えたりすることは非効率的だからである。
『ペア誰になるのかな?』
光の端末には武からそうメッセージが送られて来た。
『いつも機械によってランダムに決めてるらしいからね。僕にも分からないよ』
そう光は答えた。
別に誰とペアになってもよ良いと思っている光だったが、翔太だけは嫌だった。
あんな汚い言葉を間近で聞いたら、自分の頭がおかしくなってしまうかもしれない。
光はそう思っていた。
件の翔太は外の景色を見ながら「おおー」っと感嘆の声を上げている。
毎月見ている光景なのに、感動するようなことがあるのだろうか。
そう不思議に思う光だった。
『到着しました。ペアは以下の通りです。各人確認後、行動してください』
そう端末に担任の先生からメッセージが送られて来た。
自分の名前を探し出し、相手を確認しようとしていた時、
「よっす、光が俺の相棒みたいだな」
そう残酷な声が聞こえて来た。
自分の相手の名前を確認すると、そこには上原翔太と書かれていた。
光の心を現すかのように空も曇り始めていた。
「おおー、もうあっつくなってきたからヒマワリが咲いてるよ」
翔太は目に映るもの全てに対して感想を言っていた。
その声と一緒にミントの匂いがした。
光は翔太をじっと見つめると、口を何度も動かしていた。
翔太はガムを噛んでいた。
そんな栄養にもならない趣向品を食べるなんてエネルギーの無駄だな。
そう思う光だった。
口元に少し涎が溢れていた。
ガムを食べながら大声を出しているのだから当たり前だった。
それが凄く汚いものに見えて光は翔太を見ることを止めた。
ここに来た本来の目的を思い出し、青々と茂る木々を見て、目を癒すことにした。
曇り空だから少しじめっとしていて、それも光には嫌だった。
流れる汗を一刻も早く流したかった。
だけども時間になるまでは帰れないし、ペアで一緒に行動しなければならない。
引率の先生だけでは全員を見ることは出来ないので、生徒同士で見張るという効率的な考えだ。
だから監視する相手が身勝手に動き回ると、自分もそれに合わせなくてはいけないので光は翔太に付いて行くしかなかった。
凄く嫌だったが、抽選で選ばれたことだし、誰かがババを引くことになるのだから、仕方ないと諦めていた。
「あ、雨だ」
翔太の言葉に光も空を見つめると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
この場所は建物から遠く、戻る頃にはビショビショになってしまう。
そう思うと光は憂鬱で仕方がなかった。
「おいおい、このまま濡れて帰るつもりか?」
雨の中を進むと決意した光には翔太は思いがけない言葉をかけた。
その時、光は初めて翔太にメッセージを送った。
翔太も一応端末は持っているらしく、会話を許可した。
『ここは建物から遠いから濡れるのは仕方ないよ』
そう光は翔太にメッセージを送った。
「こんな面倒なことしなくても、声を使えば楽なのに。えっと、建物から遠いって? まあ建物は遠いわな。だけど雨宿り出来るのは建物だけじゃないんだぜ?」
そう言うと、さっきまで地面を触っていた手で光の腕を掴んだ。
服に土が少し付いて、光は気分が悪くなった。
この土にはどれくらいの菌がいるのだろう。
そう考えると居ても立っても居られなくなりそうだった。
そんな光のことなんてお構いなしに翔太は光を引っ張っていく。
翔太は一体どこへ自分を連れて行こうとしているのか。
しばらく翔太に引かれるまま歩くと、小さな洞窟が見えて来た。
どうやら翔太はここで雨宿りをするつもりなのだろう。
だが、真っ暗で何がいるのか分からない洞窟で雨宿りするくらいなら、濡れながら建物へ行ったほうが良いと光は思っていた。
そう思い光は来た道を引き返そうとした。
「お、おい。どこ行くんだよ」
だけど、それは翔太によって阻まれ、洞窟へと追いやられた。
中に入ってみると、そこは思いの外涼しくて、それがかえって不気味に感じた。
でも確かに雨風はしのげるので、雨が止むか弱まるかするまではここにいてもいいかもしれない。
そう光は思っていた。
先生から何かメッセージが来ているかもしれないと思い、光は端末を取り出した。
メッセージは特に来ていなかった。
代わりに目に映ったのは圏外という文字だった。
今まで生活して来て、端末が圏外になる場所に行ったことがない。
だからここが、とても恐ろしい所に感じて今すぐ飛び出そうとした。
だが、大きな地響きのような音が光をここに止まらせた。
地震か、と思ったが揺れては居なかった。
「あ、こりゃまずい」
そう翔太が口にした途端、出口を大量の土砂が埋め尽くした。
その光景に光が呆気に取られていると、獣の声のような音が洞窟の奥から聞こえて来た。
心の中では泣きそうになっている光だったが、それでも無表情のまま翔太に見えるように端末を指さした。
「ん? 端末を見ろって? あちゃ、圏外か」
そう言いながら翔太は笑っていた。
この状況で笑える翔太の心境が光には全く理解できなかった。
「まあ、でも安心しろ。 風の音が聞こえただろ? 出口に続いてる証拠だ」
さきほど聞こえた獣のような声は、翔太曰く風の音らしい。
風の音なんて真面目に聞いたことのない光は、それが本当かどうか分からなかった。
「さあ、反対の出口に向かうぞ」
そう言いながら翔太は洞窟の奥へと進み始めた。
いつものように頭の中で翔太の行動を止めようとするが、文字は表示されずメッセージも送れなかった。
光がまごついている間にも翔太は歩みを進めている。
ちゃんと相手を監視しないといけない、という使命感から光も歩みを進めるが、一寸先は闇といった感じで全然前が見えなかった。
微かに翔太の背中が見えるくらいだった。
翔太の服を掴みたい気持ちでいっぱいだったが、翔太は汚い存在という考えが頭から離れなくて出来なかった。
そのまま黙って翔太の後について行く光だったが、洞窟の何かに引っ掛かり、動けなくなってしまった。
それに気付かない翔太はどんどん先に進んで行く。
焦って、引っかかったフードを外そうとするが中々上手く行かない。
悪戦苦闘しながら外せた頃には翔太は全く見えなくなっていた。
すると洞窟に取り残されたという現実が光を襲い、胸の中に不安が募っていった。
端末を見るが、相変わらず圏外を示したままだった。
しばらくじっとしていると目が慣れて来たのか、少し辺りが見えるようになってきた。
すると目の前は二股の道になっていて、翔太がどちらに進んだのか分からなかった。
もしかしたら、と思い鼻でたくさん息を吸ってみたが、何も匂わなかった。
翔太のガムの匂いがするかもと思ったが、普段匂いなんて気にしない光の嗅覚は衰えていたのかもしれない。
そもそも、ガムの匂いなんてそんなに残るはずもなかった。
どうしたらいいのか。
自分には風の吹いている方向なんて分からない。
適当に歩いて迷いでもしたら、もう出られなくなるかもしれない。
そう思ったとき、はじめて泣きそうになっている自分に気が付いた。
自分の中の感情が溢れて来てどうしようもなくなりそうだった。
「おーい、光ー」
今にも泣きだしそうになっていると、洞窟の奥から声が聞こえて来た。
光が付いてきていないことに気が付いた翔太が引き返しているようだった。
ここにいる、助けて欲しい、と大きな声で叫びたかったが、声が出なかった。
発声練習をして衰えないようにしてるはずなのに、声の出し方が分からなくなっていた。
光が声を出せないでいると、翔太の声がどんどん小さくなっていた。
違う所へ向かっているかもしれない。
そうなったら翔太はここへ来てくれないかもしれない。
そう思うと恐怖でいっぱいになった。
もう一度大きく息を吸って、吐き出すように
「こコだヨー」
と、とんちんかんな発音で翔太を呼んだのだった。
その後、光の声を聞いた翔太が駆け付け二人で洞窟を抜けだした。
出てみれば、建物近くに出られ、看板を見ると洞窟も観光スポットの一つだと知り拍子抜けした光だった。
翌日もいつもと変わらず学校に登校し、自席に着いて端末を見る。
『翔太とのペアはどうだった?』
そう武からメッセージが来た。
自分勝手に行動するし最悪だったと思ったはずだが、手元の端末には、そんなに悪くなかった、と表示されていた。
そんなことを武に言えるわけもなく、改めて『最悪だった』とだけ答えた。
そう答えて直ぐに翔太が教室に入って来た。
「おはよー」
といつものように気怠く挨拶をしながら。
そんな翔太の様子が少し気になり、目線を翔太へと移した。
今日も口を何度も動かし、涎が少し出ていた。
またガムを噛んでいるんだ。
そう思うと、微かにミントの匂いがした気がした。
授業も終わり、皆がそれぞれ帰っていくなか、翔太は昇降口とは反対方向に向かっていることに気が付いた。
少し気になった光は翔太の後を付けることにした。
翔太は階段を上って行き、音楽室へと入って行った。
先生に呼び出されたのだろうか。
そう考えると後を付けた自分が馬鹿馬鹿しく思えて来た。
踵を返し、自分も帰路に着こうと思った瞬間、音楽室からピアノの音が溢れて来た。
それは聴力向上のために聞いていた曲だった。
だけど、聞こえてくる曲はピッチはバラバラだし、強弱も激しく、とても聞いていられないような汚い音楽だった。
素人が翔太が譜面通り弾いていないのが分かる。
好き勝手に弾いているのは翔太らしいとも思ったが、こんな汚い曲は聞いていられないと思い、慌ててその場を後にした。
家に帰り、毎日の日課である聴力低下防止用に、クラシックを聴く。
無意識のうちに、翔太が弾いていた曲と同じものを流していた。
ああ、やっぱりこっちのほうが翔太より綺麗で耳触りがいいな、と光は思っていた。
だけど、少し物足りなく感じている自分に気が付いた。
これは聴力低下を防止するためだけに聞いているはずなのに、何か物足りないと思っている自分に驚いていた。
そんなの効率的ではない、と。
そんな状態で音楽を聴いていても意味がないっと、自分でも訳の分からない理由をつけて音楽を止めてしまった。
きっと洞窟での出来事がトラウマになって、まともに考えられなくなっているのだろう。
そう思い、今日はこのまま寝ることにした。
歯も磨かず眠るなんて経験、光にとって初めてだった。
次の日も武から話しかけられても、いつも以上に無表情、無感動で答えていた。
自分はどうなってしまったのだろうか。
光は授業もそっちのけで、そればかり考えていた。
もしかしたら、翔太のピアノが自分に悪影響を与えたのかもしれない。
原因を突き止めるためと称して、今日も放課後に翔太の後をつけてピアノを盗み聴いていた。
そして家に帰り、正しい曲を聴く。
やはり物足りないと感じている自分がいることに気が付く。
自分はどうなってしまったのか。
そればかり考え、音楽を止めて歯磨きもしないまま、今日も眠ってしまった。
このままじゃ、おかしくなりそうと思った光は翔太にメッセージを送った。
『君のピアノを聴かせて欲しい』
『じゃあ放課後に』
そう短いやりとりをして、光は約束を取り付けた。
放課後、今日は外ではなく、中に入って翔太に向き合う。
「ピアノを弾くのはいいけど、その代り端末は預からせてくれるかな?」
突然のことに光は無表情のまま心の中で驚いていた。
『どうして端末を?』
「俺、端末での会話って嫌いなんだよ。なんか冷たいってか温度を感じないじゃん」
言葉に温度なんてあるわけがない。
そう思ったが、端末を渡さないとピアノを弾いてくれないと言うので、光は渋々端末を翔太に渡した。
「この世界って無色だからさ、感情っていう色眼鏡で見てあげないと駄目なんだよ」
翔太はそう言いながら笑った。
翔太もこの世界が無色に見えるのだろうか。
「つっても、俺はピアノ上手くないよ? 自分が好きなように適当に弾いてるだけだからさ」
そう前置きをしてから、翔太は弾き始めた。
やはりピッチも強弱も譜面通り弾いては居なかった。
翔太が好きなピッチ、強弱で弾いている。
曲が翔太を表現しているかのように光は感じていた。
初めて聴いたときは汚い曲だと感じた光だったが、今そんな風には感じず、ただ翔太の音楽に飲まれていた。
「ふうー疲れた」
ゆったりとした柔らかい曲なはずなのに、翔太は汗だくになっていた。
まさに全身全霊で弾いていたのだろう。
光は翔太のピアノを聴いて、何も言えずにいた。
もちろん、翔太に端末を渡しているので物理的にも話せないのだが、何を言っていいのかも分からない状態だった。
今感じるのは、翔太の引いた音楽の余韻と、ミントの匂い。
隣に座らされたので、翔太の息づかいを間近で感じている。
そして落ち着いた光が感じたのは色だった。
いつも無色に見えていた周りの景色が、色鮮やかに映っていた。
翔太は魔法使いなのだろうか、と思ったが、息も絶え絶えになっている翔太を見ると違う気がした。
「どうよ? 何か感じた?」
そう言われて、翔太に何か答えたいと思った光だったが、端末を渡しているので何も言えないでいた。
「そんな冷たいもんじゃなくて、声で聞かせてよ」
その時は何故か、ああそうかっと納得してしまった。
声を出そうと思ったとき、歯磨きしていない自分を思い出した。
だから翔太に背を向けて手の中に息を吹きかける。
そして匂ってみたがよく分からなかった。
そして再び前を向いて翔太の口を指さした後、手の平を翔太に付きだしていた。
ガムを寄越せという合図だった。
「はは、いいよいいよ」
光の意図が伝わったのか、翔太はガムを光に渡した。
そして何回か噛んだ後、口臭を消すのには効率的な食べ物かもしれないな、と思っていた。
ガムの味がしなくなって来た頃、
「下手だね」
そう光は笑顔で答えていた。
教室に光が入って来た。
クラスメートはそれは視線だけで確認し、自分の端末へ視線を戻す。
光の席に着き、自分の端末を無表情で見つめる。
『おはよう』
『おはよう』
そういつものように武に応える。
だけど、いつもと違ったのは翔太が教室に入って来たとき、無言だったことだ。
少し気になったけど、光は気にしないことにした。
すると翔太からメッセージが届いた。
『感情を表に出すのは君の前だけでいいやって思えた』
『僕もそう思う』
翔太のメッセージにそう答え、光の頬は少し上がっていた。
今日の放課後も下手くそなピアノを聴きに光は音楽室へと向かう。
途中のゴミ箱にミント味のガムの包み紙を捨てながら。