物語の始まり
町の南門を出て東の方向、綺麗に整備された道は森の方へと続いています。普段は行商人や旅の人々しか利用しない道ですが、今日は一人の女の子が歩いています。
白色の上着の襟元には可愛らしいフリルが施されています。ふんわりとした青色のスカートを風にはためかせながら、今にもスキップしそうな勢いです。
見上げれば雲一つない快晴の空。こんな日に素敵な服を着て、右手には小さい茶色のバスケットをぶら下げているのですから、一人でピクニックにでも出かけるのかもしれません。嬉しくなってしまうのも仕方ありません。
バスケットには何が入っているのでしょう。パン屋さんが作った焼きたてのパン? 町の北西の果樹園に実る甘くて大きな林檎? とれたての林檎で作ったジャムを焼きたてのパンに挟んだサンドイッチかもしれませんね。
でも何だか様子が変です。小さな体と可愛らしい服に不釣り合いな真っ黒な帽子を深々とかぶっています。そのせいで顔がほとんど見えません。加えて、さっきから辺りをきょろきょろと見渡しています。まるで何かを警戒しているみたいです。
「ここまで来れば大丈夫ね」
急に女の子は帽子を取りました。明るい茶色の髪の毛が溢れんばかりに広がります。肩にかかるくらいのミディアムショートで、毛先がくるりんとカールしています。お日様の光を反射して、まるで金色の宝石のようです。
さっきまで帽子に隠れて見えなかった顔もはっきりと見えます。くりくりとした大きな目には、空の青さを鏡に映したような鮮やかな青色の瞳が輝いています。小さく整った鼻の下で、薄いピンク色の唇が嬉しそうに半円を描いています。
「私にかかればお城を抜け出すなんて簡単ね。みんな慌てている頃かしら?」
女の子は目を細めて、にししと笑っています。大変なことにお城を抜け出してきてしまったみたいです。あの帽子は変装のつもりだったようです。お城に住んでいるということは、高貴な身分のお嬢様でしょうか。もしかしたら国王のご息女かもしれません。
「あなたはどう思う?」
女の子は誰かに尋ねるように言います。一人ではなかったのでしょうか。いえ、女の子の近くには誰の姿もありません。
カタカタ――。おや、何か聞こえました。見てみると、女の子の右手のバスケットが動いています。かぶせられていた花柄のハンカチが落ちたかと思うと、バスケットの中から黒い物体が飛び出ました。
2つの三角形の突起物がぴこぴこと揺れます。ニャア――。鳴き声がしました。どうやらバスケットに入っていたのはランチではなく、小さな黒猫だったようです。バスケットの中でじっとしているのに疲れたのか、しきりに体を震わせています。
ニャア――。黒猫は女の子を見上げると、もう一度小さく鳴きました。
「あら、そんなに不安そうに鳴いてどうしたの? 暗くなるまでには戻るから大丈夫よ」
そう言って女の子は黒猫を抱き上げます。女の子には黒猫の気持ちが分かるようです。きっといつも仲が良いお友達なのですね。
「見て。いつもは大きいお城がとっても小さいわ」
女の子は世紀の大発見をしたかのような満面の笑みで言います。ニャア――。黒猫もお城の方に顔を向けて女の子に返事をします。
「この白いお花、私の服のフリルにそっくり。なんてお花かしら?」
「大きなお魚が泳いでいるわ。きっとこの川の王様ね」
「あの角が立派な動物は図鑑で見たことがある。確か……。そう、鹿さん!」
普段はお城から出ることが少ないのでしょうか。女の子には目に映るもの全てが新鮮なようです。女の子が何か口にするたびに黒猫は短く鳴いて返事をします。
女の子とその胸に抱かれた黒猫は森の方へと進んでいきます。おや、森の入り口から馬車が現れました。月に1度町を訪れる行商のようです。女の子は邪魔にならないように道の端に寄ります。
「こんにちは!」
女の子が元気な声で挨拶すると馬車が止まりました。手綱を取るおじさんは女の子を見て優しく声をかけます。
「こんにちは。元気なお嬢さんだね。お散歩かい?」
「ええ、そこの森の入り口まで」
「森まで? お嬢さん、今は森に行くのは止めておきなさい。もうすぐ夜になってしまうからね」
おじさんは少し困ったように言いました。女の子は思わず笑ってしまいました。
「おじさん、面白いことを言うのね。まだお昼になったばかりよ」
「この辺りはそうだね。でも森の中は時間の過ぎ方が違うんだよ。朝が夕方になったり、昼が夜になったり、春が冬になったり、秋が夏になったり。森の妖精は気紛れだから」
おじさんは真剣な表情になっています。時間の過ぎ方が違うなんて、なんて不思議な森なのでしょう。
「分かったわ。森には行かないことにする」
女の子は口をとがらせながら言います。森に行くのをとても楽しみにしていたようです。
「良い子だね。そんな良い子にはこれをあげよう」
おじさんはポケットを探ると、黒い石のようなものを女の子の方に差し出しました。女の子は背伸びしてそれを受け取ります。その物体を不思議そうに眺めています。
「これは何かしら? 石?」
「それは森を越えたところにある炭鉱で採れた『ホタル石』さ」
「ホタルイシ?」
「その石はね、手で握って温めると蛍みたいに光るんだ。今は明るいから駄目なんだけどね。今夜暗いところで試してごらん」
「ホタルって何かしら?」
女の子は首をかしげます。蛍を見たことがなかったようです。
「おや、お嬢さんは蛍を知らないのかい? じゃあ次に会うときまでの宿題だ。蛍のことを調べて、おじさんと答え合わせだ」
「分かったわ。『ホタル』ね。ううん……、光るってことは機械かしら?」
頬に左手の人差し指を当てて頭を悩ませる女の子を見て、おじさんは微笑んでいます。
「おっと、おじさんはそろそろ行かないと。じゃあね、お嬢さん。あ、森に行っては駄目だよ」
「分かっているわ。おじさん、プレゼントありがとうね」
女の子は元気よく返事をします。おじさんはそれを聞くと、手綱を握り直して馬車を進めます。女の子は馬車が見えなくなるまで手を振りました。
馬車が見えなくなると、女の子は黒猫を抱きかかえてくるくると回り始めました。辺りに女の子の鈴が鳴るような笑い声が弾けます。
「ねえ、おじさんの話聞いた?」
女の子は急にぴたっと回るのを止めると、黒猫に話しかけました。
「森はもう夜になってしまうのよ。こんなにもお昼なのに」
女の子はとても興奮しているようです。
「それに森の妖精ですって! 妖精さんってどんな姿なのかしら。男の子かしら? それとも女の子? 身長は大きいのかしら? 小指くらいかもしれないわ」
「森に行っては駄目なのよね……」
女の子は何かを考えているようです。
「入口までなら大丈夫だとは思わないかしら?」
女の子は黒猫の顔を覗き込みながら尋ねます。どうやら森に行ってみたくて堪らないようです。黒猫は小さな鳴き声を漏らしました。
「そんなに心配することはないわ。入口までですもの。入口までだから森に行ったとは言わないわ、きっと」
黒猫は不安なようです。何度も森を越えている行商のおじさんが危ないと言うのだから不安になるのも当然です。しかし、女の子は不安よりも好奇心の方がずっと勝ってしまっているようです。
「入口までよ。入口までだから大丈夫」
女の子は自分に言い聞かせるように何度も呟きながら森の方へと進んでいきます。その胸には黒猫が為すすべなく抱きかかえられています。
森の入り口は暗くて、そこだけ夜のようです。いえ、夜のようではなくて、もう夜なのかもしれませんね。女の子は恐る恐るその夜へと向かっていきます。
――その日、女の子はお城に戻りませんでした。