燃焼海①
白一色の部屋。
無影灯の光が、網膜を焼くように眩しい。
最上梁人は、覚醒と共に強烈な吐き気を覚えた。
脳髄をタワシで直接洗われたような、不快な喪失感。精神漂白の処置直後に特有の、あの感覚だ。
「……おはよう、最上君。こちらの指の本数が分かる?」
視界の端に、白衣の女性が立っていた。
精神監査官、水無月。
彼女は心配そうな瞳で、最上の顔を覗き込んでいる。
「……三本だ。それと、そのペンライトの光量を下げてくれ。頭に響く」
「意識レベルは正常、ね。でも、瞳孔の収縮反応が少し遅い」
水無月は手元のカルテに数値を書き込みながら、小さく溜息をついた。
彼女は、最上が漂白を受けるたびに、その表情筋が凍りつき、目の光が失われていくのを見てきた。
特に今回は、禁忌である〈死神の鎌の柄〉を使用した反動が大きい。あれは精神の最深部にある「死の概念」を引き抜く行為だ。漂白剤の濃度を上げざるを得なかった。
「……怖くはないの?」
水無月は、検診の手を止めて尋ねた。
「君の記憶領域は、もうチーズのように穴だらけよ。昨日の夕食も、学生時代の友人の名前も思い出せないでしょう。……自分が自分でなくなっていく感覚に、恐怖はないの?」
最上は上体を起こし、気怠げに首を振った。
恐怖?
その感情すら、漂白されたのかもしれない。
「記憶の欠損は問題ない。俺の機能に支障が出ていないなら、それでいい」
「そういうことじゃないわ! 私が聞いているのは、君の『心』の話よ」
「心か」
最上は自嘲気味に呟いた。
「俺には目的がある。それさえ残っていれば、俺は最上梁人だ。……他の全てが白く塗り潰されようとな」
目的。
水無月は、それが何を指すのかを知っている。
だからこそ、悲痛な顔で首を横に振った。
「いないわ、最上君。君が探しているオリジナルの『羽海野有数』は、もう――」
「生きていますよ」
最上は、水無月の言葉を遮った。
そして、青ざめた唇を歪め、薄く笑った。
それは、記憶を失った廃人の笑みではなく、獲物を見つけた狩人のような、昏く、確信に満ちた笑みだった。
「安心してください、水無月先生。……奴は必ず、俺が殺しますから」
ゾクリ、と。
水無月の背筋に悪寒が走った。
同時に、彼女はその狂気的な微笑みの中に、かつて公安に来たばかりの頃の、野心と正義感に燃えていた青年の面影を見た。
もう二度と戻らない、過去の幻影。
「……検査は終了よ。行きなさい」
水無月は背中を向け、震える声で告げた。
最上が無言で退室する。
ドアが閉まり、一人になった鑑定室で、水無月はカルテを胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。
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鑑定室を出ると、廊下のベンチに見慣れた白いコートの少女が座っていた。
アリスだ。
彼女は足をぶらつかせながら、最上の顔を見るなりニヤリと笑った。
「おかえり、梁人。なんだか顔色が白いよ? 漂白剤、飲みすぎたんじゃない?」
「……お前も少しは黙ることを覚えたらどうだ」
「無理無理。だって暇なんだもん」
アリスはベンチから飛び降り、くるりと回ってみせた。
「〈首吊り兎〉が消えた反動でね、〈ランド・オブ・ワンダー〉は大荒れなの。新しい怪物が生まれる隙間もないくらい、グチャグチャに時化てる。だからしばらくは仕事お休みだって」
「そうか。それは朗報だな」
最上は素っ気なく答え、廊下を歩き出した。
アリスが小走りでついてくる。
二人が向かったのは、上層階にある特務課課長室だ。
>>>
「休暇だ」
デスクの奥で、天村は書類に目を落としたまま言った。
「アリスの言う通り、精神座標が安定しない現状では探索を含めたダイブは不可能だ。次の予兆があるまで、スタンバイ状態でいい」
「了解しました」
最上が短く答え、踵を返そうとした時だった。
隣にいたアリスが、天村のデスクに身を乗り出した。
「ねえねえ、眼鏡のおじさん! お休みってことは、外に出てもいいの?」
「許可する。ただし、GPSは外すな」
「やった! じゃあ梁人、ケーキ食べに行こうよ! あたし、すっごく甘いパンケーキが食べたい!」
アリスが無邪気に最上の袖を引く。
最上は眉間に皺を寄せ、その手を振り払った。
「断る。俺は自室で休む」
「えー! ケチ! 一人で行ったら殺されちゃうかもじゃん!」
「知ったことか」
最上が冷たく突き放すと、天村が顔を上げた。
その眼鏡の奥の瞳が、冷徹な光を放つ。
「最上。行ってやれ」
「……課長、それは業務命令ですか」
「そうだ。忘れるな、その『アリス』は唯一の鍵だ。彼女がいなければ、我々は〈犯人〉の迷宮へのパスを失う」
天村は淡々と言葉を続けた。
「彼女の機嫌を損ね、あるいは単独行動中に敵対組織に奪われ、殺されでもしたら――人類は終わりだ。彼女の精神安定も、貴様の重要な任務の一つだぞ」
正論だ。
ぐうの音も出ないほどの、冷たい正論。
最上は奥歯を噛み締め、アリスを見た。
少女は「ほらね」と言わんばかりに、勝ち誇った顔で舌を出している。
(……この、クソガキが)
断れるはずがないことは、最初から理解していた。
それでも反抗せずにはいられないほど、最上にとって、仇敵と同じ顔をしたこの少女と過ごす「日常」は苦痛なのだ。
「……了解、しました」
最上は吐き捨てるように承諾した。
アリスが歓声を上げ、彼の腕に抱きつく。
その温もりすらも呪わしいと思いながら、最上は不機嫌に課長室を後にした。




