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レッドタイズ-新東京府公安委員会-  作者: ガリアンデル
Phase:2
7/8

燃焼海①

 白一色の部屋。

 無影灯の光が、網膜を焼くように眩しい。



 最上梁人は、覚醒と共に強烈な吐き気を覚えた。

 脳髄をタワシで直接洗われたような、不快な喪失感。精神漂白(メンタル・ブリーチ)の処置直後に特有の、あの感覚だ。  



「……おはよう、最上君。こちらの指の本数が分かる?」



 視界の端に、白衣の女性が立っていた。

 精神監査官、水無月(みなづき)

 


 彼女は心配そうな瞳で、最上の顔を覗き込んでいる。



「……三本だ。それと、そのペンライトの光量を下げてくれ。頭に響く」



「意識レベルは正常、ね。でも、瞳孔の収縮反応が少し遅い」

 水無月は手元のカルテに数値を書き込みながら、小さく溜息をついた。



 彼女は、最上が漂白を受けるたびに、その表情筋が凍りつき、目の光が失われていくのを見てきた。



 特に今回は、禁忌である〈死神の鎌の柄ワンズ・オブ・ハーミット〉を使用した反動が大きい。あれは精神の最深部にある「死の概念」を引き抜く行為だ。漂白剤の濃度を上げざるを得なかった。



「……怖くはないの?」

 水無月は、検診の手を止めて尋ねた。



「君の記憶領域は、もうチーズのように穴だらけよ。昨日の夕食も、学生時代の友人の名前も思い出せないでしょう。……自分が自分でなくなっていく感覚に、恐怖はないの?」



 最上は上体を起こし、気怠げに首を振った。



 恐怖?



 その感情すら、漂白されたのかもしれない。



「記憶の欠損は問題ない。俺の機能(スペック)に支障が出ていないなら、それでいい」



「そういうことじゃないわ! 私が聞いているのは、君の『心』の話よ」

 


「心か」

 最上は自嘲気味に呟いた。



「俺には目的がある。それさえ残っていれば、俺は最上梁人だ。……他の全てが白く塗り潰されようとな」



 目的。

 水無月は、それが何を指すのかを知っている。

 だからこそ、悲痛な顔で首を横に振った。



「いないわ、最上君。君が探しているオリジナルの『羽海野有数』は、もう――」



「生きていますよ」

 最上は、水無月の言葉を遮った。



 そして、青ざめた唇を歪め、薄く笑った。



 それは、記憶を失った廃人の笑みではなく、獲物を見つけた狩人のような、昏く、確信に満ちた笑みだった。



「安心してください、水無月先生。……奴は必ず、俺が殺しますから」



 ゾクリ、と。

 水無月の背筋に悪寒が走った。

 同時に、彼女はその狂気的な微笑みの中に、かつて公安に来たばかりの頃の、野心と正義感に燃えていた青年の面影を見た。



 もう二度と戻らない、過去の幻影。



「……検査は終了よ。行きなさい」

 水無月は背中を向け、震える声で告げた。



 最上が無言で退室する。



 ドアが閉まり、一人になった鑑定室で、水無月はカルテを胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。



 >>>



 鑑定室を出ると、廊下のベンチに見慣れた白いコートの少女が座っていた。



 アリスだ。

 彼女は足をぶらつかせながら、最上の顔を見るなりニヤリと笑った。



「おかえり、梁人。なんだか顔色が白いよ? 漂白剤、飲みすぎたんじゃない?」



「……お前も少しは黙ることを覚えたらどうだ」



「無理無理。だって暇なんだもん」

 アリスはベンチから飛び降り、くるりと回ってみせた。



「〈首吊り兎〉が消えた反動でね、〈ランド・オブ・ワンダー〉は大荒れなの。新しい怪物が生まれる隙間もないくらい、グチャグチャに時化(シケ)てる。だからしばらくは仕事お休みだって」



「そうか。それは朗報だな」

 最上は素っ気なく答え、廊下を歩き出した。



 アリスが小走りでついてくる。

 二人が向かったのは、上層階にある特務課課長室だ。



 >>>



「休暇だ」

 デスクの奥で、天村は書類に目を落としたまま言った。



「アリスの言う通り、精神座標が安定しない現状では探索を含めたダイブは不可能だ。次の予兆があるまで、スタンバイ状態でいい」



「了解しました」

 最上が短く答え、踵を返そうとした時だった。



 隣にいたアリスが、天村のデスクに身を乗り出した。



「ねえねえ、眼鏡のおじさん! お休みってことは、外に出てもいいの?」



「許可する。ただし、GPSは外すな」



「やった! じゃあ梁人、ケーキ食べに行こうよ! あたし、すっごく甘いパンケーキが食べたい!」

 アリスが無邪気に最上の袖を引く。



 最上は眉間に皺を寄せ、その手を振り払った。



「断る。俺は自室で休む」



「えー! ケチ! 一人で行ったら殺されちゃうかもじゃん!」



「知ったことか」

 最上が冷たく突き放すと、天村が顔を上げた。



 その眼鏡の奥の瞳が、冷徹な光を放つ。



「最上。行ってやれ」



「……課長、それは業務命令ですか」



「そうだ。忘れるな、その『アリス』は唯一の鍵だ。彼女がいなければ、我々は〈犯人〉の迷宮へのパスを失う」

 天村は淡々と言葉を続けた。



「彼女の機嫌を損ね、あるいは単独行動中に敵対組織に奪われ、殺されでもしたら――人類は終わりだ。彼女の精神安定も、貴様の重要な任務の一つだぞ」



 正論だ。

 ぐうの音も出ないほどの、冷たい正論。

 最上は奥歯を噛み締め、アリスを見た。



 少女は「ほらね」と言わんばかりに、勝ち誇った顔で舌を出している。



(……この、クソガキが)



 断れるはずがないことは、最初から理解していた。



 それでも反抗せずにはいられないほど、最上にとって、仇敵と同じ顔をしたこの少女と過ごす「日常」は苦痛なのだ。



「……了解、しました」

 最上は吐き捨てるように承諾した。



 アリスが歓声を上げ、彼の腕に抱きつく。



 その温もりすらも呪わしいと思いながら、最上は不機嫌に課長室を後にした。

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