首吊り兎⑥
その空間は、巨大な時計の墓場だった。
ドーム状のホールの壁、床、そして天井に至るまで、大小様々な時計が埋め尽くしている。
チクタク、チクタク。
数千、数万の秒針が刻む音が、耳鳴りのように重なり合って轟いていた。
その中心に、〈首吊り兎〉はいた。
五メートルの巨躯を小刻みに震わせ、ホール内に吊り下げられた無数の時計を、眼球のないのっぺらぼうの顔面で凝視して回っている。
「……ン、あ、あ。コンマ5秒のズレ。許されない。修正、修正、修正修正シュウセイ……ッ!」
兎の口から、テープの早回しのような声が漏れ出す。
それは呪詛であり、同時に媚びへつらうような謝罪の言葉だった。
「申し訳ありません、直ちに! 昨日は出来ます、明日は終わってます! 私の睡眠時間を削れば、命を削れば、まだ間に合う! まだリテイクできる! だから首は、首だけはぁアアッ!!」
怪物の絶叫と共に、一つの時計の針が〝12時〟に達した。
ゴーン、と鐘が鳴る。
同時に、漆黒の闇が広がる天井から、ズルリと「何か」が落ちてきた。
首にロープを巻かれた、黒い人影だ。
影はビクリと痙攣し、そのまま動かなくなる。
それが一つではない。
12時を迎えた時計の数だけ、ボト、ボト、ボトと、使い潰された社員を捨てるように、首吊り死体が降り注ぐ。
「……なるほどね」
アリスが冷めた目で見上げ、つぶやいた。
「この人、きっと『納期』か『締め切り』に殺されたんだね。遅れたら死ぬ。間に合わなければ殺される。そんな強迫観念が、自分の時間を永遠に監視させてるんだ」
最上は、兎の顔面に埋め込まれた巨大な時計盤を見た。
針は、11時59分50秒を指している。
あと10秒足らずで、奴自身も時間切れを迎える。
現実世界が消し飛ぶまでのカウントダウンと同期しているのだ。
「――ッ! 貴様らァア!!」
侵入者に気づいた〈首吊り兎〉が、ばちり、と顔面の時計の針を二人に向けて固定した。
「泥棒だ! 時間泥棒だ! 私の『秒針』を盗みに来たな!? 返せ! その無駄に脈打つ心臓を止めて、私の余命に還元しろぉオオオ!!」
長い耳が鞭のようにしなり、空間そのものを切り裂きながら襲いかかってくる。
梁人は反射的に横へ飛び、『ヴォーパル・カリキュラス』を構えた。
狙いは奴の顔面、時計の中心にある核。
だが――
「速いッ!」
兎がブレるように加速した。
巨体に似合わぬ俊敏さで、梁人の射線から逃れる。
本能的に悟っているのだ。あの銃口から放たれる「論理」こそが、自分の存在を否定する猛毒であると。
「アリス! 動きを止めろ!」
「やーだ」
アリスはふわりと空中に退避し、くすくすと笑った。
「だって、必死に走ってるウサギさんを転ばせるなんて可哀想じゃん。それに、梁人の『アレ』……久しぶりに見たいな」
こいつ。
梁人は奥歯を噛み締めた。
彼女は協力者ではない。あくまで観測者だ。
秒針が進む。兎の時計が12時に近づく。
狙いが定まらないまま撃てば外す。外せば次弾装填の時間はない。
(……やるしかないか)
最上は覚悟を決め、銃を握っていない左手を虚空にかざした。
精神の最深部、漂白されても決して消えない彼自身の「本質」を引き抜く。
「――〈死神の鎌の柄〉」
ズズッ、と空間が歪んだ。
最上の左手に、漆黒の「棒」が出現する。
長さは1メートルほど。材質は木でも鉄でもなく、光を一切反射しない暗黒物質。
表面には、人間の視覚では理解不能な幾何学模様がびっしりと刻まれている。
それは、この精神世界においても異物。
最上梁人という人間にのみ許された、他者に〈死〉という概念を強制執行する権能の具現化。
彼は鎌の「刃」を持たない。振るうのは「柄」だけ。
だが、それで十分だ。
最上は、暴れまわる兎を〈死神の鎌の柄〉で指し示した。
そして、厳かに〈警告〉を宣告する。
「汝が死を忘れても、死は汝を忘れないだろう」
ピタリ、と。
世界から音が消えた。
高速で動き回っていた〈首吊り兎〉が、空中で凍りついたように静止する。
物理的な拘束ではない。
「死」という絶対的な終焉を突きつけられ、その恐怖と認識によって、精神活動そのものが停止させられたのだ。
完全に無防備になった怪物の目の前に、最上は躍り出た。
右手の『ヴォーパル・カリキュラス』の銃口を、動けない兎の顔面に押し当てる。
銃身が眩い光を放ち、シリンダー内の全弾薬が融合し、臨界点へ達する。
「証明、終了」
引き金を引いた。
積分砲撃。
カィィィィンッ――!!
高周波の音と共に、青白い光の奔流が怪物を貫いた。
肉が弾けるのではない。
怪物の存在を構成する数式が「0」へと収束し、ガラス細工のように粉々に砕け散っていく。
時計も、ロープも、落ちてくる死体も、全てが光の粒子となって霧散した。
静寂が戻る。
最上は荒い息を吐きながら、掲示板のカウントダウンを見上げた。
赤く明滅する数字が、そこで止まっていた。
『残り 01』
ギリギリの生還。
最上の手から〈死神の鎌の柄〉が黒い霧となって消え、彼はその場に膝をついた。




